第45話:回復フラグの飽和と、水面下のヒロイン選択
機巧迷宮ゼ・ルビナの無機質な回廊を抜け、俺たちが辿り着いたのは、冷たい石造りのダンジョンには似つかわしくない、神秘的な青い光に満たされた巨大な地下空洞だった。
空間の中央には、透き通るようなエメラルドグリーンの水が湧き出す広大な泉があり、水面からはほんのりと温かい湯気が立ち上っている。
ここは『忘却の魔力泉』。長大で過酷なダンジョンの中腹に一つだけ用意された、プレイヤーのHPとMP、そして蓄積された疲労度を完全にリセットしてくれる特殊なセーフエリアだ。
「おお……! なんと美しい泉! 空気すらも甘く澄み切っておりますな!」
レオンが大盾アイギスを置き、深い深呼吸をして感嘆の声を上げた。
「クロ様。ここには敵の気配は一切ありません。完全に安全な領域です」
シルフィアが周囲の安全を確認し、ホッと肩の力を抜いて俺を振り返る。
通常であれば、この泉に足を踏み入れ、数秒間の『休息モーション』を発生させるだけで回復フラグは成立する。タイムアタックにおいては、水に足先をつけた瞬間にステップでキャンセルし、即座に次のエリアへ向かうのが鉄則だった。
だが、俺がその無機質な作業をこなそうと泉に近づいた、その時だった。
「ふはははは! クロ様、ここまでの激戦、誠にお疲れ様でございました! このレオン、入り口にて絶対の壁となり、何人たりともこの聖域には立ち入らせませぬ! どうか、美しい乙女たちと共に、心ゆくまでそのお疲れを癒やしてくだされ!」
レオンは空気を読んだのか読んでいないのか、俺の指示を待つこともなく、勝手に泉の入り口へと背を向け、仁王立ちになってしまった。
俺が止める間もなく、背後から甘ったるい声と、強烈な花の香りが迫ってくる。
「わぁーい! 温泉だ温泉だーっ! ねぇねぇクロ様、一緒に入ろっ! 私がクロ様のこと、隅から隅までピカピカに洗ってあげるねっ!」
「なっ……!? き、貴女という人は、またそうやってはしたない真似を! クロ様が困っておられるのが分からないのですか!」
俺の右腕には、すでに法衣のボタンを外し始めているリナリーが抱きつき、左腕には、顔を真っ赤にしながら彼女を引き剥がそうとするシルフィアがしがみついている。
NPCがプレイヤーのコマンドを無視して勝手に自立行動を起こす共鳴バグは、戦闘や探索だけでなく、こうした日常的なイベントにおいても完全に猛威を振るい始めていた。
(……いや、待て。これはまずい。非常にまずいぞ)
俺はHP1の冷たい肉体の奥底から、かつてないほどの危険信号が鳴り響くのを感じていた。
ただでさえリナリーのスキンシップで限界に近いというのに、このフルダイブ型VRの極限まで高められた触覚フィードバックを持った世界で、彼女たちと「入浴」などというイベントをこなせば、俺の理性の演算処理が完全にオーバーフローを起こしてしまう。
「い、いや、俺は足だけ浸かれば十分だ。お前たち二人でゆっくり休んで……」
俺が逃げ腰で言いかけた言葉は、水音と、信じられないほど扇情的な光景によってかき消された。
「えーっ、そんなのダメ! ほらクロ様、遠慮しないで!」
バシャァッ、と。
いつの間にか薄く透き通るような純白の布一枚だけを身に纏ったリナリーが、俺の腕を引いて強引に泉の中へと引きずり込んだのだ。
「うおっ!?」
温かいお湯の感触に包まれると同時に、背中から、暴力的なまでの柔らかさと圧倒的な質量が押し付けられた。
「えへへ、捕まえたっ。クロ様の背中、すっごく広くて男らしいね……」
リナリーは濡れて肌に張り付いた布越しに、自身の巨大な双丘を俺の背中にこれでもかと押し当て、俺の首筋に甘い吐息を吹きかけてきた。
お湯の熱と、彼女の体温。そして、背中からダイレクトに伝わってくる、現実世界でも味わったことのないような極上の弾力。俺の心臓は、自分でも引くほどの早鐘を打ち始めた。
(……ッ! このゲームの触覚エンジンを開発した奴は、間違いなく狂っている! リアルすぎるだろ!)
俺が理性を総動員して彼女から離れようと身をよじった、その瞬間。
泉の水面が大きく揺れ、もう一つの気配が俺の真正面に降り立った。
「……リナリー。貴女のその下品な手で、クロ様のお体を汚さないでいただけますか」
「……え?」
俺が視線を前に向けると、そこには、リナリーと同じように薄い布を一枚だけ巻いたシルフィアが立っていた。
いつもは肌の露出を極端に嫌う暗殺者の彼女が、銀色の髪をお湯に濡らし、耳の先から胸元までを林檎のように真っ赤に染め上げながら、俺の目の前でそのほっそりとした、しかし完璧に引き締まった美しい身体を晒している。
「シ、シルフィア……お前まで、何を……っ」
「クロ様。あのような雌豚の奉仕など不要です。クロ様の戦いの疲れを癒やすのは、一番傍で貴方様をお守りしてきた、この私の役目です……っ!」
シルフィアは涙目になりながらも、絶対に正妻の座を譲らないという悲壮なまでの決意を瞳に宿し、そのまま俺の正面からギュッと抱きついてきたのだ。
「なっ!?」
前からは、シルフィアの控えめだが形の良い柔らかな膨らみと、早鐘のように打ち鳴らされる切実な心臓の鼓動。
後ろからは、リナリーの規格外の豊満な果実と、背筋をゾクゾクさせるような甘い密着感。
俺は温かい泉の中で、二人の極上の美少女に前後から完全にサンドイッチ状態にされてしまった。
「あーっ! シルフィアお姉ちゃんズルい! 前から抱きつくなんて反則だよ! クロ様は私の弾力の方が好きなんだからねっ!」
リナリーが対抗するように、さらに背中への押し付けを強くする。
「だ、黙りなさいっ! クロ様は貴女のような無駄な脂肪の塊よりも、私の、この……その、心を込めた温もりの方を、お望みのはずですっ!」
シルフィアも負けじと、恥ずかしさに身を震わせながら俺の胸板に自身の身体をすり寄せてくる。
(……ダメだ、死ぬ。HP1の状態でこんな攻撃を受けたら、俺の理性の残機が完全に溶けてなくなる!)
俺は両手を上げる降参のポーズのまま、視線をどこへ向けていいか分からず、ただ天井の岩肌を虚ろな目で見つめていた。
右を向けばリナリーの魅惑的な鎖骨と谷間が、左を向けばシルフィアのうなじと赤く染まった頬がある。逃げ場はどこにもない。
そして、事態はさらに恐ろしい方向へと加速する。
「ねぇ、クロ様」
リナリーが耳元で甘く囁く。
「クロ様……お答えください」
シルフィアが潤んだ瞳で俺を見上げる。
二人はピタリと動きを止め、俺の顔を下から覗き込むようにして、同時にその究極の問いを口にした。
「「クロ様は……私とこの女、どっちの方が好き(良い)ですか?」」
(出た。ラブコメの主人公を地獄に叩き落とす、絶対のデッドエンド選択肢……!)
俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
RTA走者として、いかなるボスの即死攻撃もフレーム回避してきた俺だが、この質問に対する最適解のチャートなど、どこにも存在しない。
リナリーを選べば、シルフィアの心は完全に壊れ、二度と俺にその健気な笑顔を向けてはくれないだろう。
シルフィアを選べば、リナリーは傷つき、このパーティから離脱してしまうかもしれない。
どちらの選択も、俺にとっては絶対にあり得ない。
彼女たちはデータではない。俺がこのバグだらけの世界で見つけた、何よりも大切で、かけがえのない戦友なのだから。
俺は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、前後に抱きついている二人の頭に、それぞれそっと両手を置いた。
「……えっ?」
「クロ、様……?」
俺の手の温もりに、二人が同時に驚きの声を漏らす。
俺は天井から視線を下ろし、二人を交互に、真っ直ぐに見つめ返した。
「リナリー。お前の魔法と、その底抜けの明るさは、俺の凝り固まった思考をいつも助けてくれる。お前がいなければ、俺はこの先、息が詰まっていたかもしれない」
「あ……クロ、様」
リナリーの大きな瞳が、不意に真面目な色を帯びて潤み始める。
「シルフィア。お前のその迷いのない刃と、俺を何よりも優先して守ろうとしてくれるその心は、俺の絶対の誇りだ。お前の温もりがなければ、俺はとっくに心が折れていた」
「っ……ああ、主様ぁ……っ!」
シルフィアの目から大粒の涙が溢れ出し、彼女は俺の胸に顔を埋めた。
俺は照れ隠しのように、二人の濡れた髪を少しだけ乱暴に撫でた。
「どっちが良いかなんて、選べるわけがないだろう。俺には、お前たち二人の力と……お前たちが隣にいてくれるこの騒がしい時間が、絶対に必要なんだ。……二人とも、俺の最高のパートナーだ」
それは、効率主義のRTA走者としての仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の男としての、偽りのない本心からの言葉だった。
静寂が、泉を包み込んだ。
そして。
「……もうっ! クロ様ってば、本当にズルい! そんなこと言われたら、もっと好きになっちゃうじゃんっ!」
リナリーが顔を真っ赤にして、俺の背中にグリグリと額を押し付けてくる。
「ズルいです、クロ様……っ! ああ、こんなにも私を甘やかしてくださるなんて……一生、死んでもクロ様の傍から離れませんからねっ!」
シルフィアもまた、俺の胸元を強く握りしめ、顔を上げられないまま泣き笑いのような声を漏らした。
結局、俺は二人の少女に完全にホールドされたまま、お湯が冷めるまで身動きをとることができなかった。
「ふはははは! さすがはクロ様! 二つの美しい華を見事に咲かせるとは、まさに王の器! このレオン、入り口の警護にいっそう身が入りますぞぉっ!」
遠くから響くレオンの豪快な笑い声が、地下空洞の壁に反響している。
俺は頭のフライパンをずり下げて顔の熱を隠しながら、どうしようもなく緩んでしまう口元を必死に引き締めていた。
タイムアタックの記録はもうボロボロだ。だが、この圧倒的な幸福感と極上の熱に包まれた覇道は、いかなる世界記録よりも、俺の心を深く満たし続けていた。




