第43話:属性タグの強制上書きと、挟撃のヒロイン論争
効率と速度のみを追求し、最短ルートで魔王を討伐することだけを目的としていた俺のRTAは、今や完全に未知のバグ領域――極彩色のラブコメ・シーケンスへと突入していた。
静寂の燐光林を抜け、魔王城の外郭へと続く薄暗い獣道を歩く俺の状況は、客観的に見れば正気の沙汰ではなかった。
「ねぇねぇクロ様ぁ、この森って結構足元が悪くて歩きにくいよね? 転んじゃうと危ないから、こうしてしっかり腕を組んでなきゃダメだよっ!」
俺の右腕には、ピンクブロンドの髪を揺らす新ヒロイン、リナリーがぴったりと張り付いている。
彼女は俺の腕を自身の豊満な双丘でこれでもかと挟み込み、一歩歩くごとに、フルダイブ型VRの触覚フィードバックの限界を試すような、凄まじい暴力的な弾力と温もりを俺の腕に伝えてきていた。甘い花の香りが鼻腔をくすぐり、上目遣いで見つめてくる愛くるしい瞳は、俺の「超好み」という嗜好のど真ん中を容赦なく抉り続けている。
「……ッ、この破廉恥な雌豚が! クロ様の御歩行の邪魔になるだろうが! 離れろ!」
「えー? シルフィアお姉ちゃんこそ、クロ様の左腕にギューってしがみついてるじゃん。私ばっかり怒られるの、理不尽だなぁ」
「わ、私はクロ様を不測の事態からお守りするために、最短距離での護衛陣形を構築しているだけだ! お前のような発情した遊び人とは違う!」
俺の左腕には、銀髪の暗殺者シルフィアが、耳の先から首筋までを真っ赤に染め上げながらも、絶対に俺から離れまいと両手でしがみついている。
リナリーの圧倒的なプロポーションに対抗するように、彼女は自身の控えめだが形の良い柔らかな胸を懸命に俺の腕に押し当て、潤んだ金色の瞳で「私の方がクロ様の役に立ちます」と必死に訴えかけてきていた。
(……おかしい。俺の組んだチャートに、両腕を美少女にホールドされながら歩行速度を著しく低下させるなんてイベントは存在しないはずだ。だが……)
両腕から伝わる極上の熱と柔らかさ。そして、俺という一人の男を取り合って火花を散らす二人の美少女。
効率至上主義のゲーマーとして、こんな無駄な時間は一秒でも早くスキップすべきだと頭では分かっているのに、俺のHP1の冷たい肉体は、この心地よい密着状態を完全に受け入れてしまっていた。
いや、むしろこのバグだらけの世界で、彼女たちの体温を感じている時間こそが、今や俺にとって何よりも愛おしい「現実」になりつつある。
「ふはははは! 素晴らしい! クロ様の両翼を担うに相応しい、見事な双璧の陣形でございますな! このレオン、背後の警戒は完璧にこなしてみせますぞ!」
最後尾を歩くレオンが、大盾アイギスを背負いながら豪快に笑い声を上げる。
彼にとって、主君が女性たちから慕われるのは王者のカリスマの証明であり、大いに喜ばしいことらしい。この生真面目な騎士が一切空気を読まずに肯定してくれるおかげで、俺の逃げ場は完全に塞がれていた。
「……クロ様ぁ。さっきから、また空中の『何もないところ』を見てるね。やっぱり、私たちには見えない何かで、ルートの計算とかしてるの?」
不意に、右腕に張り付いていたリナリーが顔を近づけ、俺の目の前の虚空を指差した。
俺は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、表情を崩さないように努めた。
彼女が指摘したのは、俺が展開している透明なシステムUIのマップ画面だ。通常のNPCは、プレイヤー専用のインターフェースを認識することは絶対にない。だが、リナリーは先ほどから、俺の視線の動きや指先の操作に対して、極めてメタ的な反応を示してくる。
「……ただの考え事だ。気にするな」
俺が短く誤魔化すと、リナリーは「ふーん?」と意味深な笑みを浮かべ、さらに強く俺の腕を胸の谷間へと引き寄せた。
「クロ様が秘密主義でもいいよ。だって私、クロ様がこの世界の『おかしなところ』を全部知ってて、それを壊しながら進んでるって、なんとなく分かってるもん。そういうの、すっごくワクワクするから、私を連れてきて正解だよっ!」
(こいつ……やはり、自分がゲームのプログラムの一部であることを、無意識に、あるいは意図的に察知しているのか?)
俺がリナリーの特異性に警戒と興味を抱いていたその時、木々が唐突に途切れ、視界が大きく開けた。
燐光林を抜けた先に広がっていたのは、見渡す限りの赤黒い泥が煮えたぎる、巨大な有毒の沼地だった。
ここは魔王城外郭の第一防衛ライン、『慟哭の腐海』。
「クロ様、お待ちください。強烈な毒の瘴気が立ち込めています。この沼に少しでも触れれば、たちまち肉体が溶け落ちてしまうはず……」
シルフィアが即座に俺の腕から離れ、暗殺者としての鋭い視線で沼地を観察する。彼女の表情は険しく、先ほどまでの嫉妬に狂う乙女の顔から、完全にプロの戦友の顔へと切り替わっていた。
彼女の言う通りだ。
この慟哭の腐海は、触れるだけで最大HPの九十パーセントを即座に削り取る極悪な地形ダメージ判定を持っている。HPが1で固定されている俺にとっては、水しぶきを浴びただけで即ゲームオーバーとなる絶対の死地だ。
本来であれば、ここに至る前の街で『女神の加護石』というダメージ無効化アイテムを入手するお使いクエストをこなさなければならない。
だが、RTA走者である俺に、そんな面倒な手順を踏む気は毛頭ない。
(毒のダメージ判定が発生するのは、キャラクターの足が沼のオブジェクトに触れてから0.5秒後だ。つまり、足が触れた瞬間にステップ回避の無敵フレームを合わせ続け、泥の表面をスケートのように滑っていけば、ダメージ判定を完全に無効化したまま対岸まで渡り切ることができる)
通称、ダメージキャンセルの泥波乗り。
俺一人であれば、コンマ数秒の目押しを連続で成功させて容易く突破できる自信があった。しかし、今はパーティメンバーがいる。彼らにそんなフレーム単位の変態機動を要求するのは不可能だ。
「レオン、シルフィア、リナリー。よく聞け。俺が今から……」
俺が彼らを安全に渡らせるための『バグ技』の指示を出そうと口を開きかけた、その瞬間だった。
「クロ様の御為、このレオンが道を切り拓きましょう! ぬおおおおおッ!!」
俺の言葉を遮るように、レオンが猛然と沼の縁に飛び出した。
彼は大盾アイギスを天高く掲げると、自身の全体重と闘気を乗せて、赤黒い泥の表面に向かって凄まじい速度でシールドバッシュを叩き込んだ。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!!
物理法則を完全に無視した強烈な衝撃波が沼全体に走り、なんと、液状であるはずの毒の泥が、衝突の運動エネルギーを処理しきれずにシステムエラーを起こし、一時的な「固体」のポリゴン判定となって硬直したのだ。
「――泥が固まったその数秒。私には十分すぎる時間です」
さらに、システムがエラーから復旧する前の硬直時間の隙間を縫うように、シルフィアが双剣を抜き放ち、沼の表面すれすれを風の如き速度で駆け抜けた。
彼女の刃から放たれる冷気の斬撃が、固体化した泥の判定を次々と凍結させ、対岸へと続く一本の巨大な「氷の橋」を瞬く間に構築してしまう。
「わぁっ! 二人ともすごーい! じゃあ、仕上げは私がやるねっ!」
最後に前に出たのは、新加入のリナリーだった。
彼女は愛くるしいウィンクを俺に向けると、両手を胸の前で組み、楽しげな声で精霊に呼びかけた。
「水と風の精霊さん、お願い! この沼の『痛い成分』、全部洗い流して、ただの綺麗なお水に書き換えちゃって!」
リナリーの全身から、眩いばかりの桃色の魔力が溢れ出す。
彼女の放った魔法は、単なる浄化の魔法ではなかった。ゲームの内部システムに干渉し、慟哭の腐海というオブジェクトに付与されていた「毒属性」と「スリップダメージ」の属性タグそのものを、強引に「清流」のデータへと上書きしてしまったのだ。
赤黒く煮えたぎっていた毒の沼は、瞬く間に透き通るような美しいエメラルドグリーンの湖へと変貌し、シルフィアが架けた氷の橋が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
「……」
俺は頭のフライパンをコンッと叩き、ただ呆然とその光景を見つめていた。
俺の指示は一切ない。
彼らは俺が「沼を渡りたい」と思考したことを完全に先読みし、己の持つ能力とバグの共鳴を最大限に活かして、俺がコマンドを入力するよりも早く、世界そのものを安全なルートへと作り変えてしまったのだ。
プレイヤーの操作を必要としない、思考ルーチンの完全なる自立化。
それはもはや、俺がゲームをプレイしているのではなく、彼らと共にこの世界を生きているという絶対的な証明だった。
「クロ様! 危険な毒の沼は、ただの美しい湖に変わりました。さあ、私の手を取って、この氷の橋をお渡りください!」
シルフィアが対岸へ続く氷の橋の入り口で、誇らしげに胸を張り、俺に向かって白魚のような美しい手を差し伸べてくる。
「あーっ、お姉さんまた抜け駆け! クロ様、私の精霊魔法、すごかったでしょ? だからご褒美に、頭なでなでして! そのまま私をお姫様抱っこして渡ってくれてもいいよっ!」
リナリーが俺の腕に再び絡みつき、豊満な胸を押し付けながら甘ったるい声で要求してくる。
「ふははは! クロ様! このレオンの盾の威容、とくとご覧いただけたでしょうか! 私は主様の御ためであれば、泥はおろか海すらも割ってみせますぞ!」
レオンが硬直した泥の上で、大盾を鳴らして豪快に笑い声を上げている。
俺は、誇らしげに俺の称賛を待つ三人の戦友たちを交互に見つめ、どうしようもなく込み上げてくる笑いを堪えきれずに、小さく吹き出してしまった。
「ああ……お前たちは、本当に最高だ。俺一人でバグを利用するより、ずっと速くて、ずっと完璧だ」
俺の心からの称賛の言葉に、レオンは兜の奥で太い涙を流してむせび泣き始めた。
「ク、クロ、様……っ! 私、私っ、もっともっとクロ様のお役に立てるように、この身を粉にして……っ!」
シルフィアは耳まで真っ赤に染め、両手で顔を覆いながら、限界突破した嬉しさにその場にしゃがみ込んでしまった。
「えへへー! クロ様に褒められちゃった! ねぇねぇ、私のおかげで安全になったんだから、早くこっち向いてハグしてよーっ!」
リナリーはさらに距離を詰め、俺の首に腕を回して顔をすり寄せてくる。
俺は暴走する二人のヒロインの熱に挟まれながらも、透明な氷の橋へと足を踏み出した。
ただタイムを削るためだけの無機質なゲームプレイは、完全に終わった。
ここから先は、俺の想定すらも軽々と超えていく彼らと共に駆け抜ける、予測不能で、最高に騒がしい覇道の旅だ。俺は両腕から伝わる戦友たちの確かな体温を感じながら、エメラルドグリーンに輝く湖を堂々と渡っていくのだった。




