第38話:負債判定の自滅と、黄金宮殿の無血開城
享楽都市『ヴォル・ティーガ』の夜空を覆っていたオーロラのような絶対防護結界が、甲高い音を立てて砕け散り、光の粉となって風に溶けていく。
魔王軍の幹部である強欲のザルヴァが、街の総資産と自らの魔力をリンクさせて構築していた無敵のバリアは、俺が引き起こした市場価格のオーバーフローによって完全に消滅した。
限界値である二十一億ゴールドを超えた瞬間、街の資産データは反転して途方もないマイナスの負債となり、結界を維持する巨大結晶『富の天秤』は自壊したのだ。
「ああ……私たちの街が、お金が、終わっちまった……」
「何もかも紙切れだ! 昨日までの一万ゴールドが、今日は泥水以下の価値しかねえ!」
大市場の周辺では、財産を失って座り込む魔族の商人たちが、絶望のあまり頭を抱えて呻き声を上げている。
俺はそんな阿鼻叫喚の通りに背を向け、内街の最奥にそびえ立つ黄金の宮殿『ゼム・ローザ』へと真っ直ぐに歩き出した。
「主様。街の防衛機構が完全に沈黙しています。本来ならあの宮殿に至るまで、無数の防衛ゴーレムや魔法兵器が立ち塞がるはずですが……」
俺の少し後ろを歩くシルフィアが、周囲を鋭く警戒しながら囁いた。
「ふははは! ゴーレムどもが動かぬのも当然! 主様がこの街の富の根源を絶たれたのだ。魔力という名の給金が支払われぬ兵士など、ただの鉄屑にすぎませぬ!」
俺とシルフィアの間に流れる甘く静かな空気を打ち破るように、背後からレオンの豪快な笑い声が響き渡った。
彼は先ほど大市場で買い占めた大量の『エリクサー』や『オリハルコン』が入った巨大な麻袋を、大盾アイギスと一緒に背中へ軽々と括り付け、まるで荷物持ちの従者のような姿になりながらも、一歩ごとに地面を揺らすほどの威風堂々たる足取りでついてきている。
「レオンの言う通りだ。この街の防衛機構はすべて、街の総資産の値を変数としてステータスを算出している。資産がマイナスに振り切れた今、奴らのHPも攻撃力も、システム上の最低値である『1』に固定されているはずだ」
俺の解説に、二人はもはや驚くこともなく、ただ深く納得したように頷いた。
かつてはNPCというデータの塊としてしか見ていなかった彼ら。だが今は違う。
俺の突飛な行動を一切疑わず、どんな理不尽な状況でも俺の背中を守り抜こうとする彼らは、俺にとって何よりも代えがたい戦友であり、家族のような存在になりつつあった。
やがて俺たちは、黄金の宮殿ゼム・ローザの重厚な大扉の前に辿り着いた。
本来なら強固な魔法の鍵がかかっているはずの扉も、魔力供給が絶たれたことで半開きになっており、レオンが片手で押し開けると、呆気ないほど簡単に道が開かれた。
宮殿の内部は、文字通り黄金と宝石で埋め尽くされた悪趣味な大広間だった。
だが、その輝きはどこか淀んでおり、大理石の柱には無数の亀裂が走り、天井からはパラパラと砂埃が落ちてきている。資産データの崩壊によるシステムエラーが、建物のモデリングそのものに影響を及ぼし始めているのだ。
そして、その大広間の最奥。
純金で作られた巨大な玉座の上で、全身に豪華絢爛な装飾品をじゃらじゃらと巻きつけた、肥満体の醜悪な魔族が頭を抱えて震えていた。
魔王軍幹部、強欲のザルヴァ。
本来であれば、圧倒的な資金力を背景にした無敵のバリアを張り、強力な傭兵モンスターを無限に召喚してくる難敵だ。
「な、なぜだ……! なぜ我が街の富が、結界が消えた!? 貴様ら、一体何者だ!」
ザルヴァは俺たちの姿を認めるなり、玉座から転げ落ちるようにして立ち上がり、豚のような顔を歪めて叫んだ。
「通りすがりの冒険者だ。少しばかり買い物をしすぎたら、お前の街の金庫の底が抜けてしまったらしいな」
俺が頭のフライパンをコンッと叩きながら冷徹に告げると、ザルヴァの顔色が怒りでドス黒く染まった。
「き、貴様らか! 我が至高の経済を破壊した下等生物どもめ! 結界がなくとも、我が力は絶大だ! 貴様らなど、我が究極の魔術で黄金の塵に変えてくれるわ!」
ザルヴァは両手を天に掲げ、空間の魔力を強引に集束させ始めた。
彼の周囲に、無数の黄金の硬貨が浮かび上がり、鋭い刃となって渦を巻き始める。
「主様、奴の魔力が高まっています! お下がりください!」
レオンが大盾アイギスを構え、俺の前に立ちはだかる。
「私が瞬きする間に、あの豚の喉笛を掻き切ってまいります」
シルフィアが双剣を抜き放ち、床を蹴る直前の低い姿勢をとった。
だが、俺は二人の肩にそっと手を置き、制止した。
「いや、武器は抜かなくていい。あいつはもう、すでに死んでいる」
「……え?」
シルフィアが間の抜けた声を漏らし、金色の瞳を丸くした。
ザルヴァが放とうとしているのは、彼の固有スキル『ギル・デ・ラヴィア』。
自らの所持金を代償として消費し、その金額の十パーセントに相当する固定ダメージを広範囲に撒き散らすという、初見殺しの極悪な全体攻撃だ。
「消え去れ、羽虫ども! 我が圧倒的な富の暴力の前にひれ伏せぇぇっ!!」
ザルヴァの咆哮と共に、彼を包んでいた黄金の硬貨の渦が一斉に俺たちへ向かって放たれようとした。
だが、その瞬間だった。
ゲームの戦闘システムが、ザルヴァのスキル発動に必要なダメージ計算の処理を実行した。
現在のザルヴァの資産データは、オーバーフローによって『マイナス二十一億四千七百四十八万三千六百四十八』となっている。
システムは、そのマイナスの数値の十パーセントをダメージ値として算出し、さらにその数値をザルヴァ自身のHPと所持金から『消費』しようとした。
マイナスの数値を消費(減算)するということは、数学的に言えばプラス(加算)になる。
しかし、ゲームのダメージ処理エンジンは、攻撃力にマイナスの値が代入されるという事態を想定して作られていなかった。結果として発生するのは、致死的な計算エラー(ゼロディバイドに似た致命的例外処理)である。
ピガガガガガガガガッ!!!
空間に、耳をつんざくような激しいノイズ音が鳴り響いた。
俺たちに向かって飛んでくるはずだった黄金の硬貨の渦が、空中でピタリと静止し、まるで空間のバグに飲み込まれるようにして真っ黒なポリゴンの塊へと変異していく。
「な、なんだこれは!? 力が……我が生命力が、吸い出されていくぅぅっ!?」
ザルヴァが自らの喉を掻き毟りながら、絶叫を上げた。
システムはエラーを解消するため、矛盾の発生源であるザルヴァというオブジェクトのHPを、強制的にゼロに書き換える処理を行ったのだ。
負債という名の見えざる重圧に押し潰されるように、ザルヴァの肥満体がぐしゃりと不自然な形に折れ曲がる。
「ば、馬鹿な……我が、黄金の、夢が……」
ドサァッ。
最後はあっけないほど小さな音を立てて、強欲の魔王軍幹部は、ただの黒い砂利の山となって玉座の前に崩れ落ちた。
プレイヤーが一切のダメージを与えることなく、ボスのスキルによる自滅判定だけで戦闘が終了するという、RTAの歴史に残る完全なる無血開城である。
静まり返った黄金の宮殿の中で、俺は深く息を吐き出した。
「……終わったな。経済破壊ルート、完全攻略だ」
俺がそう呟くと、レオンとシルフィアは、武器を抜いたままの姿勢でポカンと口を開け、崩れ落ちたボスの残骸と俺の顔を交互に見比べていた。
「主、様……。今のは、一体? 主様は指一本動かさず、言葉すら発せられなかったというのに……敵が勝手に、自らの技で自滅してしまいました……」
シルフィアが、信じられないものを見るような眼差しで俺を見つめる。
「ふはははは!! もはや私の盾すら不要とは! 恐れ入った! 主様の御前では、強欲の魔族が誇る魔術すらも、自らの首を絞めるだけの愚行に成り下がるというわけですな!」
レオンが腹の底から愉快そうに笑い声を上げ、麻袋の重さに負けず胸を張る。
俺は頭のフライパンをコンッと叩き、少しだけ誇らしげな笑みを浮かべた。
「敵のシステムを逆手に取っただけだ。……だが、これでお前たちに怪我をさせずに済んだ。それが一番の収穫だ」
俺のそのストレートな言葉に、レオンは感極まったように太い涙を流し始め、シルフィアは「あ……っ」と短く声を漏らして、またしても耳の先まで真っ赤に染め上げてしまった。
(主様は、私のために……私たちに危険が及ばないように、あのような神の御業を使ってくださったのだわ。ああ……どうしよう、主様のことが、好きすぎて、胸が張り裂けそう……っ)
シルフィアは両手で顔を覆いながら、限界を迎えた恋心に身悶えするようにプルプルと震えている。
そんな二人の反応を見て、俺の心の中にも、これまでの孤独なゲームプレイでは決して味わえなかった、温かくてこそばゆい感情が広がっていた。
理不尽なバグだらけの世界。だが、この二人が隣にいてくれるなら、どんなバグも最高の冒険のスパイスに変わる。
「さあ、行くぞ。この宮殿の奥に、次のエリアへと続く転送陣があるはずだ」
俺は二人の戦友に背を向け、崩れゆく黄金の宮殿の最深部へと足を踏み出した。
背後からついてくる、重厚な鎧の足音と、柔らかなブーツの足音。俺の覇道は今、彼らというかけがえのない絆と共に、さらに熱を帯びて加速していくのだった。




