第37話:市場の買い占めと、経済圏のオーバーフロー
魔王領の要衝、享楽都市『ヴォル・ティーガ』の正門前。
カンストした九千九百九十九万九千九百九十九ゴールドという、システムが許容する限界値の富をインベントリに収めた俺は、先ほど俺たちを嘲笑っていた金ピカの鎧を着た二人の門番の前に再び立っていた。
「ああん? なんだお前ら、また来やがったのか。三千万ゴールド払えねえなら、さっさと湖の底に沈みやがれって言ったはずだぞ!」
門番のひとりが、槍の穂先を俺の鼻先に突きつけて下劣な笑い声を上げる。
俺は無言のまま、虚空に呼び出したメニュー画面を操作し、所持金の中からきっちり三千万ゴールドを『物理ドロップ』のコマンドで具現化させた。
ズドォォォォォォンッ!!!!
「げぶぁっ!?」
虚空から突如として出現した、純金で出来た巨大な宝箱の山。
その何トンにも及ぶ暴力的なまでの物理質量が、門番たちの足元の大地をクレーターのように叩き割り、巻き上がった土煙が極彩色のネオンを遮った。
「な、なんだこれはぁぁぁっ!?」
「き、金だ! 全部、本物の純金貨じゃねえか!! お、お前ら、一体どこからこんな大金を……っ!」
腰を抜かし、崩れ落ちた金貨の山の下敷きになりながら悲鳴を上げる門番たちを見下ろし、俺は頭のフライパンをコンッと叩いた。
「通行料の三千万ゴールドだ。これで文句はないな。数える暇があるなら、とっとと門を開けろ」
俺が冷徹に告げると、門番たちは恐怖と欲望が入り混じった顔で何度も頷き、這うようにして正門の巨大なレバーへと向かった。
ゴゴゴゴゴ……という重低音と共に、ヴォル・ティーガの真の中枢である『内街』へと続く強欲の門が、ゆっくりとその口を開いていく。
「ふはははは! 主様の黄金の雨に打たれ、見事にひれ伏しおったわ! 痛快、痛快なり!」
レオンが豪快に笑いながら、門番たちを哀れむように見下ろしている。
一方、俺のすぐ斜め後ろを歩くシルフィアは、先ほどの裏路地での『キス寸前』の出来事の余韻からまだ抜け出せていないのか、俺の背中から少しだけ距離を取り、俯き加減で歩いていた。
(……主様と、あんなに顔を近づけて……。私の心臓の音、絶対に聞こえてしまっていたわ……っ)
シルフィアは、耳の先まで真っ赤に染めながら、自らの唇を指先でそっと触れている。
その仕草があまりにも可憐で、俺は先ほどまでの冷徹なゲーマーとしての思考が、再び甘い熱で溶かされそうになるのを感じていた。
(本当に、どうしてしまったんだ俺は。ただのタイムアタックだったはずなのに……今は、この世界でこいつらと過ごす時間が、たまらなく愛おしい)
俺はわざと歩幅を緩め、彼女の隣に並んだ。
「シルフィア。さっきから下ばかり向いているが、体調でも悪いのか? それとも、先ほどのサキュバスの毒気が残っているか?」
俺が優しく声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。
「い、いえっ! めっ、滅相もございません主様! 私はただ、その……主様の御顔を、直視するのが、少し、恥ずかしくて……っ」
彼女の潤んだ金色の瞳が、チラリと俺の顔を見ては、すぐに泳ぐように伏せられる。
その完全に恋に落ちた少女の反応に、俺は思わず口元を綻ばせ、彼女の銀色の髪をそっと撫でた。
「そうか。お前が元気ならそれでいい。……お前が隣にいてくれないと、俺は背中を預けられないからな」
「あ……はいっ! 主様の影として、このシルフィア、どこまでも御供いたします!」
俺の言葉に、シルフィアはパァッと花が咲いたような笑顔を見せ、ようやくいつもの凜とした歩みを取り戻した。
そのやり取りのすべてを、レオンは大盾を背負いながら、まるで孫を見守るような温かい眼差しでウンウンと頷きながら見つめていた。
強欲の門を抜けた先の内街は、外街の雑多なスラムとは完全に切り離された、圧倒的な富の象徴のような空間だった。
大理石で舗装された広い通りの中央には、金貨が散りばめられた巨大な噴水が水を吹き上げている。通りの両脇には、魔王軍の幹部たちが利用する高級な魔導具店や、希少な素材を扱う大商館が立ち並び、空には街全体を覆う強力な防護結界がオーロラのように輝いていた。
そして、その街の最奥、切り立った岩壁に半分埋まるようにしてそびえ立つのが、魔王軍幹部『強欲のザルヴァ』が居城とする黄金の宮殿だ。
「主様。あの宮殿の頂にある、ひときわ巨大な赤い結晶をご覧ください。あれがこの街の結界の要であり、ザルヴァの力の源である『富の天秤』に違いありません」
シルフィアが、鋭い暗殺者の目で宮殿の頂を指差した。
「ああ。ザルヴァは自身のステータスと、この街全体の『経済価値』をリンクさせている。街の金庫が潤っている限り、奴にはいかなる物理攻撃も魔法も通らない絶対防御のバリアが張り巡らされている仕様だ」
「なるほど! では、まずはあの宮殿に乗り込み、強欲なる魔族からその富を奪い取ればよいのですね!」
レオンが大盾を構え、やる気に満ちた声を上げる。
「いや、違う。俺たちは宮殿には行かない。……これから、買い物をするんだ」
「……お買い物、ですか?」
シルフィアが不思議そうに小首を傾げる。
俺は内街の中心にある、この街で最も巨大な取引所――『ゴルド・ヴァニア大市場』へと足を向けた。
このゲームの経済システムは、プレイヤーの行動によって物価が変動する「動的価格システム」を採用している。
プレイヤーが特定のアイテムを大量に購入すれば、市場はそのアイテムの需要が高まったと判断し、価格を釣り上げる。逆に大量に売却すれば、価格は暴落する。この街の総資産は、市場にあるアイテムの価格と連動して計算されているのだ。
俺の目的は、この動的価格システムを逆手にとり、街の経済価値を意図的にパンクさせることだった。
大市場の奥にある、最も豪華なVIP専用のカウンター。
そこには、純白のシルクを身に纏った、エルフの姿をした高級商人が立っていた。
「いらっしゃいませ。こちらは選ばれた富裕層のみが足を踏み入れることを許される、ゴルド・ヴァニア大市場の特別席。……おや、随分と珍しい風体のお客様ですな」
商人は俺の頭のフライパンをチラリと見て、表面上は丁寧だが、明らかに値踏みするような冷たい笑みを浮かべた。
「買い物をしたい。この店にある『エリクサー』と『オリハルコンの原石』。それから、在庫にある高位の魔法スクロールを、すべて出せ」
俺が一切の躊躇なく告げると、商人は一瞬呆気に取られ、そしてくすりと嘲笑した。
「お客様、ご冗談を。エリクサーは一本十万ゴールド、オリハルコンは一つ五十万ゴールドもする至高の品。すべてとなれば、数千万ゴールドは下りませんよ。それほどの資金が、果たして……」
俺は言葉を返す代わりに、インベントリからカンストした資金の一部を引き出し、カウンターの上にドンッ!と金塊の山を積み上げた。
「これで足りるか?」
商人のエルフの目が、信じられないものを見るように限界まで見開かれた。
「ひっ……! ほ、本物の純金……! こ、これほどの富を、一体どこから……! かしこまりました! ただいま、すべての在庫をお出しいたします!」
商人の態度は一変し、土下座せんばかりの勢いで店の奥から大量の最上級アイテムを運び出してきた。
俺は表示された購入確定のボタンを次々と押し、アイテムをインベントリへと放り込んでいく。入りきらない分の大量のポーションや鉱石は、レオンが嬉々として自らの背中や大盾の裏に括り付けて荷物持ちを引き受けてくれた。
「まいどあり! いやあ、今日は最高の売上だ!」
商人が両手を擦り合わせて喜ぶ中、俺は静かに魔法の台帳の価格表示を見つめていた。
動的価格システムが機能し始めている。
大量の需要が発生したことで、エリクサーの単価は十万から三十万へ。オリハルコンは五十万から二百万へと、異常な速度でインフレを起こし始めたのだ。
「すまない、まだ買い足りない。さっきの倍の値段でいいから、他所の店からかき集めてでも同じものを売ってくれ」
「ば、倍の値段で!? お客様、正気ですか!? いや、払えるというのなら、いくらでも用意いたしますとも!」
俺のカンストした資金力は、九千九百九十九万ゴールド。
俺が倍額でアイテムを買い占めるたび、市場の物価は天井知らずに跳ね上がり、それに連動して、宮殿の頂にある赤い結晶『富の天秤』が、街の資産価値の上昇を感知してギラギラと眩い光を放ち始めた。
「クロ様……いえ、主様。市場の商人が皆、主様の噂を聞きつけて、法外な値段で品物を売りに集まってきています。……まるで、街全体が狂ってしまったかのようです」
シルフィアが、群がってくる商人たちを牽制しながら、少し怯えたような声で俺の背中に身を寄せた。
「ああ、順調に狂っている。これでいいんだ」
俺は冷徹な笑みを浮かべ、さらに購入ボタンを連打し続けた。
エリクサーの単価が、ついに一本一千万ゴールドに到達した。
この異世界のシステムを構築する神の数式には、扱える数字の限界がある。ゲーム内で扱える最大値、つまり『32ビット符号付き整数』の限界である『21億4748万3647』という数字だ。
街の金庫の総資産がこの数字を1でも超えた瞬間、システムは桁あふれ(オーバーフロー)を起こし、プラスとマイナスが完全に逆転する。
「お、お客様ぁ! エリクサー一本、五千万ゴールドでお譲りしますぞぉ!」
「私のオリハルコンは一億だ! 買ってくれぇ!」
欲望に目を血走らせた商人たちが、紙切れのように価値の暴落した商品を、意味不明な高値で俺に押し付けてくる。
そして、俺が最後の一つ、一億ゴールドの価格がつけられたただの『薬草』を買い取った瞬間。
街の総資産を計算していたシステムの数値が、ついに21億4748万3647の限界を突破した。
ピキッ……!!
街全体を包み込んでいた喧騒が、一瞬、完全に静まり返った。
空間そのものに、ガラスにひびが入るような不吉なノイズが走る。
オーバーフローが発生したのだ。
ヴォル・ティーガの街の総資産は、限界を突破した瞬間に『マイナス21億4748万3648』という、途方もない莫大な借金(負債)へと反転した。
「な、なんだ!? 魔法の台帳が……数字が真っ赤に染まっていくぞ!?」
「我々の金が! 資産が、消えていくぅぅぅっ!?」
商人たちが絶望の悲鳴を上げる中、宮殿の頂で街の富を吸い上げていた赤い結晶『富の天秤』が、反転したマイナスの数値を処理しきれず、ドス黒い色へと変色しながら激しく明滅し始めた。
そして。
パァァァァァァンッ!!!!
街の絶対防御を担っていた巨大な結晶が、内側からの負荷に耐えきれず、粉々に砕け散った。
それと同時に、街の空を覆っていたオーロラのような防護結界が、電源を落とされたようにフッと消滅する。
システムによる経済の崩壊。
魔王軍幹部『強欲のザルヴァ』の無敵のバリアが、ただの一度も剣を振るうことなく、完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
「……よし。オーバーフロー完了だ。これでボスの無敵判定は完全に消えた」
俺はインベントリを閉じ、呆然と座り込む商人たちを一瞥することなく、黄金の宮殿へと背を向けた。
「主様……! あの巨大な結界を、一振りも剣を交えることなく、ただ『買い物』をしただけで打ち砕いてしまわれるとは……!」
シルフィアが、俺の横顔を畏敬と熱烈な愛情の入り混じった瞳で見つめ、小さく感嘆の溜め息を漏らした。
「ふははは! まさに神の采配! 欲望に塗れた者どもを、自らの欲望で自滅させるとは! レオン、一生主様について行く所存にございます!」
背中に大量のポーションを括り付けたレオンが、大盾を鳴らして誇らしげに胸を張る。
「行くぞ、二人とも。次は宮殿で、バリアの消えたボスを文字通り『叩き潰す』番だ」
俺の言葉に、二人は力強く頷いた。
経済を破壊し尽くされた欲望の街で、俺たちのバグだらけの覇道は、一切の停滞を許さずに次のエリアへと加速していくのだった。




