第36話:符号なし整数の反転と、享楽都市の錬金術
魔王領の要衝、享楽都市『ヴォル・ティーガ』。
巨大湖ルナ・カリスの対岸に広がるその街は、漆黒の岩壁をくり抜いて造られた巨大な城塞都市でありながら、むせ返るような香水と酒の甘い匂いが支配する欲望の掃き溜めだった。
三十メートルはあろうかという極彩色のネオンに彩られた正門の前で、俺たちは進行ストッパーである二人の魔族の門番から、通行料として三千万ゴールドという法外な要求を突きつけられていた。
「どうした、人間ども。払えねえならさっさとこの湖に身を投げて、魔魚の餌にでもなりな!」
門番のひとりが下劣な笑い声を上げる。
俺の現在の所持金は、たったの百二十ゴールド。正規のプレイであれば、ここで一旦引き返し、近隣のダンジョンを何十周もして途方もない時間を金策に費やすのが開発者の想定したルートだ。
だが、RTA走者である俺に、そんな無駄な時間を消費する気は毛頭ない。
「レオン、シルフィア。少しこちらへ来い」
俺は門番の挑発を完全に無視して踵を返し、正門の手前に広がる外街へと歩き出した。
そこは、先ほどまで通ってきた薄暗い道とは打って変わって、目に眩しいほどの絢爛豪華な異空間だった。
通りに沿って、道路側を完全に開け放たれた豪奢な座敷のような店構えが、ずらりと見渡す限り並んでいる。その一つ一つの軒先には淡い桃色の魔力灯が灯され、艶やかに照らし出された座敷の中には、息を呑むほど愛らしい魔族や獣人の娘たちが、露出の多い煌びやかな衣装を纏って行儀よく座っていた。
まるで生きた芸術品を展示する品評会のように、通り全体が圧倒的な美女と可憐な少女たちで埋め尽くされている。男たちの視線を釘付けにし、その欲望を極限まで刺激するよう計算し尽くされた遊郭街。それが享楽都市ヴォル・ティーガの真の顔だった。
「あら、見慣れないお顔ね。もしかして、門を通るお金がなくて困っているの?」
不意に、むせ返るような甘い薔薇の香りが鼻腔をくすぐったかと思うと、俺の右腕に暴力的なまでの柔らかな質量が押し当てられた。
「……っ」
視線を向けると、一際目を引く豪奢な座敷から身を乗り出してきた、艶やかな紫色の髪をしたサキュバスが、俺の腕に自身の豊満な双眸を押し付けるようにして絡みついていた。
胸元が限界まで開かれた革のビスチェからは、こぼれ落ちそうなほどの白い素肌が露わになり、腕に押し付けられた圧倒的な感触が、俺の思考を一瞬だけ白く染め上げる。さらに、彼女の背中から生えたハート型の尻尾が、俺の太ももの内側を撫でるようにねっとりと這い上がってきた。
「ふふっ。頭にフライパンなんて被っちゃって、変わったお兄さん。でも、魔力はすごく美味しそう……」
サキュバスは俺の胸板を細い指先でツゥッと色っぽくなぞりながら、吐息がかかるほどの距離に顔を寄せた。
「ねえ、お金がないなら……私の蜜で、極上の夢を見ながら稼がせてあげるわよ? あなたのその熱いモノ、私の中で全部、搾り取ってあげるから……」
サキュバスの粘り気のある声と、耳たぶを甘く噛むような吐息。
フルダイブ型VRの極限まで高められた触覚フィードバックが、彼女の驚くほど滑らかな肌の熱と、脳を痺れさせるような淫靡なフェロモンをダイレクトに俺の肉体へと伝えてくる。心臓の鼓動が、自分でも驚くほど激しく跳ね上がるのが分かった。
俺がなんとか冷静なゲーマーとしての思考を保とうとしていた、その時だった。
「――その薄汚い唇を、今すぐ主様から離せ。雌豚」
空気が、文字通り凍りついた。
サキュバスの甘い香りを一瞬でかき消すほどの、絶対零度の殺気。
俺のすぐ斜め後ろに立っていたシルフィアが、俺の腕に絡みついていたサキュバスの手首をガシッと掴み、力任せに引き剥がした。
そして次の瞬間、シルフィアは俺の身体をグッと引き寄せ、サキュバスから隠すようにして、自らの身体を俺の胸にピタリと密着させたのだ。
「ひっ……!?」
「主様に触れていいのは……主様のお傍に立つことを許された者だけだ。次そのふしだらな胸を主様に押し付けたら、生きたまま四肢を削ぎ落として魔犬の餌にしてやるわ」
シルフィアの放つプレッシャーは、暗殺者としての冷徹なそれを完全に通り越し、狂気に近い強烈な嫉妬と独占欲でドロドロに煮詰まっていた。金色の瞳の孔を針のように細め、牙を剥く獣のように睨みつける彼女の姿に、サキュバスは悲鳴を上げてガタガタと震えながら座敷の奥へと逃げ去っていった。
(主様は、私のものだ。私だけが、あの方の背中を守り、あの方の熱を感じることを許されているのに。あんな下品な女に、主様を触れさせるものか……ッ!)
シルフィアは肩で荒い息をしながら、ギリッと奥歯を噛み締めている。
だが、サキュバスが消え去った後も、彼女は俺の衣服を強く握りしめたまま、俺の胸にぴったりと抱きついた姿勢を崩そうとしなかった。
「……シルフィア?」
俺がそっと声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離で見つめ合う形になった彼女の顔は、先ほどの恐ろしい殺気が嘘のように、耳の先まで真っ赤に染め上げられていた。
彼女の柔らかな胸が俺の身体に押し付けられ、サキュバスのそれとは違う、清潔でひどく落ち着く香りが鼻腔をくすぐる。
水濡れから乾いたばかりの銀色の髪が俺の頬に触れ、彼女の早鐘を打つような心臓の鼓動が、衣服越しにトクン、トクンと伝わってきた。
「あ……も、申し訳ありません、主様! 私としたことが、出過ぎた真似を……っ! ただ、あんな女が主様に触れるのが、どうしても、我慢できなくて……!」
シルフィアは慌てて身体を離そうとしたが、俺は無意識のうちに、彼女の細い腰に腕を回し、引き留めていた。
(……俺は、何をやってるんだ)
自分自身の行動に驚きながらも、俺は彼女の腰を抱く腕の力を緩めることができなかった。
サキュバスの露骨な色仕掛けよりも、俺の腕の中で涙目になりながら嫉妬を露わにするシルフィアの切実な体温のほうが、何百倍も俺の理性を狂わせる。
「主、様……」
シルフィアの桜色の唇が、微かに震えながら開かれる。
その潤んだ金色の瞳に見つめられ、俺は、RTA走者としての効率主義の思考が完全に真っ白に染まっていくのを感じていた。
引き寄せられるように、俺は彼女の火照った頬にそっと手を添え、その柔らかい唇へと顔を近づけていく。
互いの吐息が、ひどく熱く混じり合う。シルフィアが弾かれたように息を呑み、そして、すべてを委ねるようにそっと長い睫毛を閉じた。
あと数センチ。
唇と唇が触れ合う、その絶対的な瞬間の直前――。
「ふははは!! 見事な立ち並びであるな! だが案ずるな主様、いざとなればこのレオンの盾が、いかなる淫魔の誘惑からも主様をお守りするぞ!!」
少し離れた場所で周囲を警戒していたレオンが、豪快に笑いながら分厚い胸板を叩く大音声が、遊郭街の通りに響き渡った。
「っ……!!」
その空気を読まない(あるいはあえて読まなかった)爆音に、俺とシルフィアは弾かれたように身体を離した。
俺は心臓が口から飛び出そうなほどバクバクと鳴っているのを必死に隠し、シルフィアは耳まで真っ赤にして両手で口元を覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。
「……こ、こほん。行くぞ。資金調達の準備だ」
俺は顔の熱を誤魔化すように頭のフライパンを深く被り直し、足早に外街の裏路地へと向かった。
やがて見つけたのは、一軒の薄暗い店舗。『魔導商館・ザノス』だ。
店の中に入ると、四本の腕を持つ豚のような姿をした魔族の主人が、カウンターの奥で金貨の山を数えながら下劣な笑みを浮かべていた。
「いらっしゃい。ここは金さえあれば何でも手に入るザノス商館だ。……とはいえ、あんたたちみたいな貧乏くさい冒険者に買えるような代物はなさそうだがねぇ」
主人は俺たちの簡素な装備を見て、あからさまに小馬鹿にしたような鼻を鳴らした。
「買い物じゃない。手持ちのアイテムを売りたいんだが、同時に買いたいものもある」
俺が冷淡に告げると、主人は面倒くさそうにカウンターの上の分厚い魔導書を叩いた。
「なら、この取引の台帳に手をかざしな。魔法が勝手に差額を計算してやる」
この世界の商店の取引は、すべてこの魔法の台帳を介して行われる。
俺はインベントリから、売却用のアイテムとして道中で拾ったガラスの欠片を選択した。買い取り価格は、たったの十ゴールド。
そして同時に、購入用のアイテムとして、この店で最も高額な英雄の霊薬を選択する。販売価格は、十万ゴールドだ。
俺の現在の所持金は百二十ゴールドしかない。当然、このまま取引を確定させれば、システムは資金不足のエラーを返し、取引は不成立となる。
だが、このゲームの経済システムを管理するプログラムには、非常に初歩的で致命的な欠陥が一つ存在していた。
「レオン、シルフィア。少し手伝ってくれ」
俺は台帳から手を離さないまま、先ほどの余韻で未だに視線を合わせられないシルフィアと、真っ直ぐに俺を見つめるレオンに声をかけた。
「ハッ! 何なりと、主様!」
「ご、ご指示を……っ!」
「レオンは今から、その大盾を全力の速度で背負い、そして構え直す動作を繰り返してくれ。シルフィア、お前は双剣を鞘から抜き、収める動作を、限界まで高速で繰り返すんだ」
俺の指示は、客観的に見れば完全に狂っていた。
だが、二人の顔に迷いは一切ない。主君がやれと言ったのだ。そこには世界の理を覆すほどの深い意味があるに違いないと、彼らは俺の言葉を絶対の真理として受け止めていた。
「承知いたしました! ぬおおおおおッ!!」
ガシャァァン! ガシャァァン! ガシャァァン!!
レオンが凄まじい気合いと共に、自身の背丈ほどもある大盾を背中に背負っては構えるという動作を、目にも止まらぬ速度で反復し始めた。重金属の衝突音が、狭い店内に爆音となって響き渡る。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
チャキィィン! チャキィィン! チャキィィン!!
シルフィアもまた、暗殺者としての極限の反射神経を全開にし、双剣の抜刀と納刀を風の如き速度で連発する。銀色の刃の残像と、鞘鳴りの鋭い音が空間を切り裂く。
「ひぃぃぃぃっ!? な、なんだお前ら!? 店の中で急に武器を振り回して、強盗か!?」
商館の主人が四本の腕を振り回してパニックに陥り、悲鳴を上げた。
俺の狙いは、強盗でも威嚇でもない。システムに意図的な遅延、すなわち処理落ちを引き起こすことだった。
三人称視点の3Dゲームにおいて、パーティメンバーが複雑な装備のアニメーションと効果音を極小の空間で連続発生させると、周囲の環境データを処理しているメインメモリに膨大な負荷がかかり、一時的なラグが発生するのだ。
空間全体が、まるで水の中に沈んだかのようにわずかに歪み、主人たちの動きがスローモーションのように鈍重になる。
処理落ちがピークに達したその瞬間。俺は魔法の台帳に対し、ガラスの欠片の売却と、英雄の霊薬の購入の意思を、全くの同時――同一フレーム内でシステムへ送信した。
処理の遅延によってエラー判定をすり抜けた台帳は、売却の利益であるプラス十ゴールドと、購入の代金であるマイナス十万ゴールドを同時に処理してしまう。
計算結果は、マイナス九万九千九百九十ゴールド。
通常、ゲームの所持金データは、マイナスの概念を持たない数値の箱で管理されている。そこにマイナスの計算結果が叩き込まれると、箱の底が抜け、数値はぐるりと反転して、システムが許容する最大値へと跳ね上がってしまうのだ。
ピロリンッ!!
ファンファーレにも似た甲高い電子音が、処理落ちから回復した店内に鳴り響いた。
「な、なんだぁ!? 台帳が、光って……ひっ!?」
魔法の台帳から凄まじい黄金の光が溢れ出し、無の空間から、滝のような金貨の奔流が物理的な質量を持って湧き出してきた。金貨はチャリンチャリンと絶え間ない音を立てて、俺の腰にあるインベントリの皮袋へと吸い込まれていく。
俺は虚空に自身のステータス画面を呼び出した。
所持金の欄には、『99,999,999ゴールド』という、カンストした輝かしい数字が刻まれていた。
「……よし。これで資金調達は完了だ」
俺が台帳から手を離すと、黄金の奔流はピタリと止まった。
「お、おい……お前、一体何をした!? たった今、この台帳の記録には、お前が魔王軍の国家予算を丸ごと引き出したことになっているぞ!?」
主人は白目を剥かんばかりの勢いで、ガクガクと震えながら俺を指差した。
「何をしたかって? ただ、ガラスの欠片を売って、霊薬を買っただけだ。お前の店の台帳が、お釣りを少し多く返してくれたらしいな」
俺は冷徹な笑みを浮かべ、カンストした所持金の中から金貨を一枚だけ弾き飛ばし、主人の鼻先に落としてやった。
そして、呆然とする主人を残して店を出る。
「主様……今の黄金の滝は、一体。貴方様は、無から黄金を生み出す魔法すらも行使されるのですね……」
盾の素振りを終えたレオンが、息を乱しながらも、畏敬の念に打たれたように呟いた。
「主様。私も、このような御業は初めて目にしました。やはり主様は、この世界の理そのものを統べるお方……」
シルフィアもまた、先ほどの熱を帯びた瞳のまま、輝くような尊敬の眼差しを俺に向けてくる。
「ただのシステムの穴を突いただけだ。さあ、行くぞ。まずはあの門番どもに、たっぷりと通行料を払ってやらなきゃならないからな」
俺はカンストした所持金の重みを感じながら、極彩色のネオンが輝く正門へと再び歩き出した。
三千万ゴールドなど、もはや痛くも痒くもない。だが、俺の目的はただ門を通ることではない。この無限の資金を使って、享楽都市ヴォル・ティーガの経済そのものを根底から破壊し尽くすことにあるのだ。




