第35話:状態異常の強制解除と、名前で呼ぶ戦友の証
空中要塞ルギド・アヴェイルからの決死のダイブを経て、巨大湖ルナ・カリスの冷たい深淵から浮上した俺たちは、魔王領の生温かい夜風が吹き抜ける岸辺へと辿り着いた。
「ふぅ……。なんとか陸地に着いたな」
俺は水を含んで重くなったブーツを引きずりながら、ぬかるんだ草地へと足を踏み入れた。
背後では、全身の鎧から滝のように水を滴らせたレオンが、大盾アイギスを地面に突き立てて豪快に息を吐き出している。そして俺のすぐ横では、シルフィアが濡れて重くなった銀色の髪を絞りながら、夜風に身を震わせていた。
3DアクションRPGにおいて、水中に一定時間滞在した後に陸へ上がると、キャラクターには『水濡れ』という厄介な状態異常が付与される。移動速度が大幅に低下し、継続的にスタミナの上限値が削られていくのだ。本来であれば、ここで焚き火のアイテムを使って数分間の『暖を取る』専用モーションを挟まなければならない。
俺はHP1のまま、赤いオーラの明滅すらも少し弱々しく見える己のステータス画面を虚空に呼び出した。
タイムアタックにおいて、焚き火の前で大人しく温まるような無駄な時間は一秒たりとも存在しない。
「二人とも、少しこちらへ集まってくれ」
俺が声をかけると、寒さに唇を微かに青ざめさせていたシルフィアと、鎧の重さに少しだけ動きの鈍っていたレオンが、文句一つ言わずに俺のそばへと歩み寄ってきた。
彼らは俺がまた何か突拍子もない神の御業を見せてくれるのだと、完全に信じ切っている。
俺はインベントリの中から、最下層のダンジョンで拾ったまま放置していた装備品『炎トカゲの指輪』を選択した。微弱な火属性耐性を上げるだけの、中盤以降は誰も使わないような低級アイテムだ。
ゲームシステム上、属性耐性を変化させる装備を身につけた瞬間、システムはキャラクターの現在の状態異常ステータスを再計算するために、一度すべての環境デバフを強制的にリセットする処理を行う。
これを利用して、俺は自分、シルフィア、レオンの三人をパーティの対象範囲に収めると、指輪の装備と解除のボタンを、1フレームの間に三回連続で叩き込んだ。
ピロリンッ、という気の抜けた電子音が鳴った瞬間。
俺たちの身体を濡らしていた冷たい湖の水が、まるで蒸発のプロセスを完全にすっ飛ばしたかのように、一瞬にして光の粒子となって消え去った。
「な……っ!?」
レオンが驚愕に目を見開き、自身の分厚い鎧をペタペタと触り始めた。
「水が……一瞬で引きました。冷え切っていた身体の芯まで、すっかり温かくなっています……!」
シルフィアもまた、完全に乾いた自らの衣服と銀髪を見つめ、信じられないものを見るような眼差しを俺へと向けてくる。
俺は頭のフライパンをコンッと叩き、ただのステータス再計算のバグだから気にするな、と短く告げて前を向いた。
巨大湖のすぐ先にそびえ立つのは、魔王領の兵站と享楽を司る巨大な歓楽街、享楽都市『ヴォル・ティーガ』の入り口である、極彩色に彩られた巨大な城門だった。
(……それにしても)
俺は歩き出しながら、すぐ後ろを付いてくる二人の足音に耳を傾けていた。
レオンの重厚な金属音。シルフィアの足音を殺した、けれどもしっかりと俺の背中を追う柔らかなステップ。
かつての俺なら、彼らのことをただのデコイ(囮)や火力要員としてしか見ていなかった。指示を出すときも、NPCだとかタンクだとか、役割を示す無機質な記号でしか呼んでいなかったはずだ。
だが、この理不尽な魔王領の道中を共に駆け抜け、空中要塞からの決死のダイブを共に生き延びた今、俺の胸の中にあった冷たい効率主義の氷は、彼らの不器用で真っ直ぐな体温によって完全に溶かされていた。
(こいつらは、俺のパーティメンバーだ。俺の覇道を支えてくれる、たった二人の戦友なんだ)
俺は不意に足を止め、振り返った。
「主様? いかがなされましたか?」
レオンが不思議そうに首を傾げる。
「もしかして、どこかお怪我の痛みが……!?」
シルフィアが慌てて俺の顔を覗き込もうと距離を詰めてくる。
そのひどく人間らしい、俺を心から案じてくれる二人の顔を見て、俺は小さく息を吐き出した。
「いや、なんでもない。ただ……」
俺は二人の目を、真っ直ぐに見つめ返した。
「レオン。お前のその絶対の防御がなければ、俺たちは空を飛ぶことすらできなかった。お前の盾は、俺の誇りだ」
「お、おお……っ! 主、様……ッ!!」
俺の口から明確に『レオン』という個人の名が呼ばれた瞬間、聖騎士の巨体が雷に打たれたようにビクンと跳ねた。
ただのタンクという役割としてではなく、一人の騎士として、己の名前を以て主君に認められた。その圧倒的な歓喜に、レオンは兜の奥から滝のような涙を流し、大盾を抱きしめるようにしてその場に跪いた。
俺は次に、驚きに目を見開いている銀髪の少女へと視線を向けた。
「シルフィア。お前のその迷いのない刃がなければ、俺はとっくにゲームオーバーになっていた。お前はただの暗殺者じゃない。俺の背中を預ける、最高の相棒だ」
「あ……っ」
『シルフィア』。
その美しい響きを持って俺の口から紡がれた自身の名前に、彼女は両手で口元を覆い、言葉にならない嗚咽を漏らした。
(主様が、私の名前を呼んでくださった。道具としての暗殺者でも、名もなき影でもなく……私という、一人の人間の名前を)
シルフィアの金色の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
それは、狂信という歪んだ檻から完全に抜け出し、一人の少女として、そして誇り高き戦友として、俺の隣に立つことを許されたという絶対的な証明だった。
彼女の胸の奥で燻っていた切ない恋心は、名前を呼ばれたその瞬間、揺るぎない永遠の誓いへと昇華された。
「……はいっ! 私の命、私の刃、すべては主様のために!」
涙を拭い、花が咲いたような笑顔を見せるシルフィアと、立ち上がって力強く頷くレオン。
孤独なRTA走者の世界に、完全に仲間という名の温かいバグが定着した瞬間だった。
俺たちはそのままの勢いで、享楽都市ヴォル・ティーガの巨大な正門へと到達した。
門の前には、全身を金ピカの成金趣味な鎧で固めた二人の魔族の門番が、下品な笑みを浮かべて立ち塞がっていた。
「止まれ、人間ども。ここは魔王軍の幹部たる強欲のザルヴァ様が治める、金と欲望の街ヴォル・ティーガだ」
門番の一人が、槍を交差させて俺たちの行く手を遮る。
「この街を通り抜けたければ、通行料として一人につき一千万ゴールド、合計三千万ゴールドを支払ってもらおうか。払えねえなら、一生この湖の泥でも啜って生きるんだな!」
(出たな。RTA走者に対する最大の嫌がらせイベント)
俺は冷ややかな目で門番の提示した金額を見つめた。
三千万ゴールド。通常のプレイであれば、周囲のダンジョンを何十周も周回し、途方もない時間をかけてお使いクエストをこなし続けなければ絶対に届かない天文学的な金額だ。開発者からの「ここで一度立ち止まって、じっくりとレベル上げと金策を楽しんでください」というメッセージが透けて見える、悪辣な進行ストッパーである。
「さ、三千万だと!? ふざけるな、そのような大金、一国の国家予算にも匹敵するぞ!」
レオンが激昂して大盾を構えようとする。
「主様。いっそ私が、あの門番たちの首を静かに落としてまいりましょうか」
シルフィアが双剣の柄に手をかけ、暗殺者としての冷たい殺気を放ち始める。
「やめろ、二人とも。ここで戦闘を起こせば、街中のシステム防衛部隊が無限に湧いてくる。ここは正規のルートで支払って通るのが一番速い」
俺がそう告げると、二人は困惑したように顔を見合わせた。
「し、しかし主様、我々の所持金では到底……」
俺はインベントリを開き、現在の手持ち資金を確認する。
表示された金額は『120ゴールド』。初期村で買える薬草数個分のはした金だ。
だが、俺の口元には、RTA走者特有の、システムを蹂躙する直前の冷酷な笑みが浮かんでいた。
(三千万ゴールドを真面目に稼ぐ暇なんてない。ならどうするか。答えは簡単だ。この街の経済システムそのものをバグらせて、無限の富を錬成すればいい)
「安心しろ、レオン、シルフィア。たった三分で、この街の金庫を空っぽにしてやる。お前たちには、少しばかりおつかいを頼むぞ」
俺は仲間たちへ向ける温かい眼差しから一転して、ゲームの数式を冷徹に破壊する悪魔のような顔で、極彩色の歓楽街へと足を踏み入れるのだった。




