第32話:風圧判定の帆走と、蒼穹に響く三つの鼓動
重力固定バグという理不尽な垂直飛翔によって雲海を突き抜けた先の世界は、痛いほどに澄み切った圧倒的な「青」に支配されていた。
魔王領の上空に君臨する蒼穹の監獄、空中要塞ルギド・アヴェイル。
俺たちが着地した大理石のバルコニーの先には、信じられないほど巨大な白亜の浮島群が、目に見えない鎖で繋ぎ止められたかのように空中に点在していた。浮島と浮島の間には、魔力によって明滅する半透明の光の道が架かり、要塞の中心に鎮座する巨大な中枢塔『ゼルマリア機関室』へと続いている。
だが、この美しくも雄大な景観は、プレイヤーの心をへし折るための極悪な罠に過ぎない。
遮るもののない超高空の環境下では、鼓膜を劈くような暴風が絶え間なく吹き荒れている。正規の攻略ルートであれば、一定の周期で現れる移動床に乗り移り、風の息継ぎのタイミングを見計らいながら、一つひとつの浮島を渡り歩かなければならない。
足を踏み外せば、待っているのは雲海の下への果てしない落下と即死処理だ。しかも、移動床の巡回サイクルは現実時間で十五分に一度という恐ろしく悠長な設定になっており、一度タイミングを逃せば莫大なタイムロスを強いられる。
「凄まじい風です……! 少しでも気を抜けば、身体ごと空の彼方へ吹き飛ばされてしまいそうだ!」
レオンが身を屈め、大盾アイギスを風上に構えて防風壁を作りながら叫んだ。
その背後で、シルフィアもまた姿勢を低くし、強風に煽られて千切れそうになる銀色の髪を片手で押さえている。
「主様、前方の浮島へ続く光の道は、風の魔力によって完全に断たれています。それに、周囲を巡回しているはずの足場も……今は見当たりません」
シルフィアの冷静な報告に、俺は無言で頷いた。
3Dアクションゲームにおいて、強風などの環境ギミックは、目に見えない巨大な『押し出し判定の塊』として空間に配置されている。このルギド・アヴェイルの空域には、プレイヤーを奈落へと突き落とすための風圧判定が、目に見えない壁となって幾重にも敷き詰められているのだ。
移動床が来るのを待つ時間などない。俺はインベントリから武器の装備状態を確認し、風の唸り声に負けないよう声を張り上げた。
「足場なんか待たない。俺たちはここから、あの中央にあるゼルマリア機関室の入り口まで、空を飛んで直接ショートカットするぞ」
「そ、空を飛ぶ、ですか!?」
レオンが驚愕に目を見開く。
「この暴風の中を……? いえ、主様がそう仰るのなら、必ず道はあるのですね」
シルフィアは一瞬息を呑んだものの、すぐに怯えを捨て去り、真っ直ぐな信頼の眼差しで俺を見つめてきた。
(……ああ、そうだ。お前たちとなら、どんな無茶なバグ技でも通せる)
俺はHP1の赤いオーラを纏いながら、頭のフライパンを深く被り直した。
かつてなら、NPCを強制的に引き寄せるための単調な作業としてバグをこなしていた。だが今は違う。彼らが俺の意図を汲み、命を預けてくれるという確かな実感がある。
俺はバルコニーの縁に立ち、奈落の空を指差した。
「お前はアイギスを床に対して水平に構えたまま、俺の合図でこのバルコニーから虚空へ向かって思い切り跳躍しろ。空中に張り巡らされた風圧の判定を、お前のその巨大な盾で『帆』のように受け止めるんだ」
「盾で、風を受ける……! なるほど、あの見えざる暴風を推進力へと変換するのですね!」
「そうだ。だが、ただ風に流されるだけじゃ機関室には辿り着けない。風の乱気流に巻き込まれれば、そのままあらぬ方向へ吹き飛ばされてゲームオーバーだ」
俺はそこで言葉を切り、隣に立つシルフィアの肩にポンと手を置いた。
「そこで、お前の出番だ。」
「……私、ですか?」
「ああ。空中で風に乗っている最中、お前の投擲用ナイフで盾の端や、周囲に浮かぶ瓦礫を的確に撃ち抜いてくれ。ナイフが命中した瞬間に発生する微小な物理反発を利用して、空を飛ぶ盾の軌道と姿勢をコントロールする。お前が俺たちの『舵』になるんだ」
俺の言葉を聞いたシルフィアの金色の瞳が、大きく見開かれた。
ただ守られるだけではなく、主君の命運を左右する舵取りという重大な役割。それは、暗殺者として道具のように扱われてきた彼女の人生において、初めて与えられた『信頼』の証拠だった。
(主様が、私の技を……私の存在を、必要としてくださっている!)
彼女の胸の奥で、熱いものが込み上げてくる。
狂信でも、単なる恋の熱病でもない。背中を預け合う相棒としての、研ぎ澄まされた誇り。彼女はこみ上げる震えを奥歯を噛み締めて抑え込み、双剣の代わりにインベントリから無数の投擲用ナイフを取り出した。
「お任せください、主様。私のすべてを懸けて、必ずや貴方様を目的地へと導いてみせます」
「頼むぞ。……いくぞ!」
「はっ! いざ、蒼穹の彼方へ!!」
俺の号令と共に、レオンが大盾アイギスを水平に頭上に掲げ、バルコニーの縁から底なしの空へ向かって豪快に跳躍した。
俺もシルフィアの細い腰を片腕でしっかりと抱き寄せ、レオンに続くようにして虚空へと身を投じる。
ヒュゴォォォォォォォォォッ!!
飛び出した瞬間、下から、そして横から、巨大な質感を伴う暴風の判定が俺たちの身体に襲い掛かった。
俺は空中でレオンの背中に飛び乗り、その分厚い鎧の装甲に片手でしがみつく。俺の腕の中では、シルフィアが風の抵抗を減らすように身を屈め、鋭い視線を前方へと向けていた。
ゲームの物理演算が、巨大な大盾というオブジェクトに衝突した風圧判定を処理しきれず、莫大な推進力へと変換していく。
俺たち三人は、盾を船に見立て、目に見えない風の激流の中を、弾丸のような速度で滑空し始めた。
「ぬおおおおっ! 凄まじい風圧だ! 盾が持っていかれそうになりますぞ!」
レオンが全身の筋肉を軋ませ、空中で必死にアイギスの水平を保とうと咆哮する。
「右斜め前方から、強烈な乱気流が来ます! 主様、少し揺れますよ!」
シルフィアが叫んだ瞬間、俺たちの進行方向を力任せに捻じ曲げようとする不可視の壁が迫ってきた。
そのまま突っ込めば、姿勢を崩されて奈落へと真っ逆さまだ。
「右舷の装甲を撃て!」
「はいっ!」
俺の指示と同時、シルフィアの手から三本のナイフが瞬きする間もなく放たれた。
ナイフは寸分の狂いもなく、レオンが構える大盾の右端に連続して命中する。ガキンッ! という硬質な音と共に、武器の衝突判定による微小なノックバックが発生し、盾の傾きがほんの数度だけ変化した。
そのわずかな姿勢変化が、迫り来る乱気流の押し出し判定を綺麗に受け流し、俺たちをさらに前方へと加速させる。
(完璧だ。投擲のタイミングも、反発力を計算した狙いも、一切の無駄がない)
俺は吹き荒れる風の中で、腕の中に抱くシルフィアの横顔に見惚れそうになるのを必死に堪えていた。
彼女は俺の腕のホールドに完全に身体を預けながら、両手で次々とナイフを放ち、周囲の空中に浮かぶ瓦礫や魔力球を撃ち落としては、その爆発の余波を利用して俺たちの軌道を微調整していく。
「耐えろ! 次は真下からの吹き上げだ!」
「応ッ! 我が盾は、主様の翼! いかなる嵐にも屈しはせぬ!」
暴風の轟音に負けじと声を掛け合いながら、三人の息が完全に一つの生き物のように同調していく。
タイムアタックの孤独な作業が、今、確かな熱を持ったパーティプレイへと塗り替えられていく。
誰か一人が欠けても成立しない、ギリギリの空中帆走。俺の腕の中で、シルフィアの心臓の音がトクン、トクンと力強く鳴り響いているのが伝わってくる。その鼓動の熱さが、HP1の俺の冷たい身体に、命の炎を分け与えてくれているようだった。
(俺は、一人じゃない)
その事実が、これほどまでに胸を熱く焦がすものだとは知らなかった。
ゲームのシステムを欺くためのバグ技が、いつの間にか、俺たち三人の絆を証明するための最高の舞台になっている。
「主様、見えました! ゼルマリア機関室の入り口です!」
シルフィアが風の彼方を指差して叫ぶ。
巨大な白亜の中枢塔、その中腹に開かれた広大なステンドグラスのバルコニーが、猛スピードで迫ってくる。
しかし、その手前には、要塞の防衛システムである巨大な竜巻の障壁がそびえ立っていた。
「あの竜巻に突っ込めば、盾ごと粉砕されます! 主様、指示を!」
「そのまま突っ込む! 激突の瞬間に盾の構えを解いて垂直に立て! その後竜巻の中心核をすべてのナイフで撃ち抜け!」
常軌を逸した命令。だが、二人は一切の躊躇なく動いた。
激突のコンマ一秒前。レオンがアイギスを垂直に立て、風の推進力を完全に遮断する。急ブレーキがかかったような強烈な慣性が俺たちを襲う中、シルフィアが手持ちのナイフのすべてを、竜巻の中心に向かって扇状に投擲した。
ナイフの連続ヒットによる多重衝突処理が、竜巻の環境オブジェクトとしての描画をほんの一瞬だけ遅延させる。
そのバグの隙間――わずか数フレームだけ生まれた風の空白地帯を縫って、俺たちは竜巻を突き抜け、バルコニーの大理石の床へと文字通り転がり込んだ。
ガッシャァァァンッ!!
背後でステンドグラスが砕け散る音を聞きながら、俺たちは床を数メートル転がり、ようやく静止した。
「……はぁっ、はぁっ……」
俺が息を整えて顔を上げると、すぐ目の前に、俺の上に覆い被さるような体勢になったシルフィアの顔があった。
着地の衝撃から俺を守るために、無意識のうちに自らの身体をクッションにして庇ってくれたのだ。
「……怪我は、ないか?」
俺が掠れた声で問うと、彼女は金色の瞳を潤ませながら、花がほころぶような、信じられないほど美しい笑顔を見せた。
「はい……っ。主様の、おかげです。私、お役に立てましたか……?」
「ああ。お前が舵を取ってくれなければ、俺たちは今頃、雲の下だった。最高の相棒だ」
俺の言葉を聞いた瞬間、シルフィアの頬が夕焼けのように真っ赤に染まった。
彼女は「相棒」という言葉の響きを噛み締めるように目を閉じ、俺の胸にそっと額を押し当てた。
狂信者の盲目的な依存ではない。己の実力で主君の隣を勝ち取ったという誇りと、それでも抑えきれない一人の少女としての愛おしさが、彼女の小さな肩を微かに震わせていた。
「ふはははは! 見事な飛翔であった! まさに我ら三人、一蓮托生よ!」
立ち上がったレオンが、ボロボロになったアイギスを背負い直しながら、底抜けに明るい声で笑い飛ばす。
俺はシルフィアの温もりからそっと離れて立ち上がり、頭のフライパンをコンッと叩いた。
胸の奥で早鐘を打つ心臓の音は、果たして激しい空中戦のせいなのか、それとも腕の中にいた彼女の熱のせいなのか。その答えを出すことは、今はまだ怖かった。
「さあ、行くぞ。要塞の中枢は目の前だ」
俺は気まずさを誤魔化すように背を向け、ゼルマリア機関室の奥へと足を踏み出す。
背後には、互いの無事を喜び合いながらついてくる、世界で一番頼もしい二人の仲間の足音が、確かなリズムを刻んで響いていた。




