第31話:座標固定の垂直浮上と、雲海を貫く三人の絆
ゼリュート大深度晶洞の薄暗い静寂を抜け、俺たちが辿り着いたのは、それまでの地下世界とは正反対の、眩いばかりの光と暴力的な風が吹き荒れる断崖の頂だった。
眼前に広がるのは、魔王領の空を支配する巨大な空中要塞、蒼穹の監獄『ルギド・アヴェイル』へと続く、天を衝くような巨塔『ゼス・ラギア』である。
雲を突き抜け、どこまでも高く伸びるその塔の壁面には、属性の魔力を帯びた巨大な歯車が重々しい音を立てて回転し、周囲には侵入者を拒むように強力な乱気流が渦を巻いていた。
(ルギド・アヴェイル。本来なら、一階から最上階まで、火、水、風、土の四属性の試練を一つずつ解き明かし、何百体という属性ゴーレムをなぎ倒して登らなければならない「属性試練の塔」だ。まともに攻略すれば、丸一日はかかる今作最大級の足止めマップ。……だが、そんな時間の浪費を、俺のタイムアタックが許すはずもない)
俺はHP1の赤いオーラを風になびかせながら、塔の麓に設置された「重量確認用」の巨大な石造りの昇降プレートを見下ろした。
それは、特定の属性石を四つ揃えて置かなければ起動しないはずの、システム上の強固な仕掛けの一部だ。
「主様。この塔は、かつて魔王が反逆者を閉じ込めるために造ったとされる難攻不落の要塞。登るには相応の儀式と、古の石が必要だと聞き及んでおりますが……」
シルフィアが双剣を鞘に収め、吹き付ける強風から俺を守るように半歩前に出た。
彼女の金色の瞳には、かつての冷徹な暗殺者の鋭さの中に、俺と共に数々の死線を越えてきたことで芽生えた、相棒としての強い誇りと信頼が宿っている。
(主様の隣は、もう誰にも譲らない。例えこの先が神の領域であろうとも、私はあの方の影として、その覇道を妨げるすべてを切り裂いてみせる。それが……私の生きる意味なのだから)
シルフィアは胸の内で静かに、しかし燃えるような決意を固めていた。彼女にとって、俺の隣で戦うことはもはや義務ではなく、魂の渇望そのものへと昇華されていた。
「案ずるな、シルフィア殿! 主様がいらっしゃるのだ。この塔の試練とやらも、主様の御前ではただの児戯に過ぎぬであろう!」
レオンが大盾アイギスをドシンと地面に置き、快活に笑い飛ばした。
彼の忠誠心は、もはや信仰の域に達している。しかし、その根底にあるのは盲目的な従順さだけではない。自分という武骨な盾を最高に活かし、最前線へと導いてくれる主君への、戦友としての深い敬愛だ。
(……この二人なら、俺の無茶な指示にも即座に反応してくれるはずだ。今や、ただのNPCとして座標を管理する以上の何かが、俺たち三人の間には確かに存在している)
俺は、自分の中に生じたその温かい確信を隠すように、足元のプレートを指差した。
「そのプレートの中央に大盾を構えて立て。お前はレオンの肩を掴んで、俺と一緒に彼の背後に密着しろ。これから、この塔のシステムを根底から書き換えて、一気に最上階までショートカットする」
「はっ! 御心のままに!」
「承知いたしました、主様」
二人は一秒の迷いもなく指示に従った。
レオンがプレートの中央で不動の構えをとり、シルフィアがその肩に手をかける。俺も彼女の隣に並び、二人の背中に密着した。
(このプレートは、乗っているオブジェクトの重量値が一定に達した瞬間に、垂直方向への加速度を一度だけ発生させる仕組みだ。だが、その上昇が始まる瞬間に、インベントリにある「冥晶王の核」を空中に捨て、その落下判定の座標をレオンの大盾に無理やり固定させたらどうなるか)
俺はタイミングを計り、プレートがカチリと沈み込んだ瞬間に、核をドロップするコマンドを実行した。
(上昇しようとするプレートのベクトルと、座標固定された核の重力ベクトルが一点に集中する。物理エンジンは、この矛盾した二つの力を解消するために、一番大きなオブジェクト――つまり、レオンと俺たち三人の座標そのものを、垂直方向へ向かって無限に射出しようとするはずだ)
これこそが、重力固定バグによる即席垂直エレベーター。
通称、グラビティ・ボルト・アップだ。
ドォォォォォォォォォォンッ!!
「ぬおおおおおおおおっ!?」
「主、様……っ!!」
凄まじい衝撃波と共に、俺たちの視界から地面が消えた。
上昇、という言葉ではあまりに生ぬるい。俺たち三人を乗せたプレートの座標が、音速を越える勢いで垂直に、ただ真っ直ぐに空へと引き上げられていく。
塔の壁面にある属性の歯車や、窓から見える敵の姿が、一瞬の閃光となって後方へと過ぎ去っていく。
本来なら数時間を要する属性の試練を、文字通り外側から完全に無視して突き抜ける、物理法則の蹂躙。
「ははははは! 見よ、シルフィア殿! 我らは今、風となり、雲を裂いて飛んでいるぞ! 主様の御力が、我らを天の高みへと押し上げてくださっているのだ!」
レオンは猛烈な風圧に晒されながらも、大盾を必死に支え、歓喜の咆哮を上げた。
盾から伝わってくる、レオンの力強い筋肉の震え。そして、俺の隣で必死に風を耐えながらも、俺の腕を強く握りしめてくるシルフィアの柔らかな手の温もり。
(……一人でやっていた頃は、ただ画面が流れるだけの無機質な作業だったのに)
俺は、隣で目を輝かせている彼女と、前を向いて吠える彼の背中を見つめ、不思議な高揚感に包まれていた。
効率だけを追い求め、バグをただのツールとして扱っていた俺の孤独なタイムアタックが、彼らという相棒が加わったことで、まるで本物の冒険のような熱を帯び始めている。
ただのAIではない。この瞬間の興奮を、そしてこの理不尽な飛翔の驚きを分かち合える、世界にたった二人の、俺の戦友たち。
(悪くない。いや……最高に面白いな、このゲームは)
俺の口元に、冷徹な走者らしからぬ、どこか誇らしげな笑みが浮かんだ。
「警告。領域外からの侵入を検知。空中要塞防衛機構、自動迎撃術式を起動」
その時、塔の最上階付近から、無数の魔法陣が展開された。
青白い雷光を纏った魔力弾が、上昇を続ける俺たちに向けて一斉に放たれる。
「主様、あれは……っ!」
「盾を水平に倒せ! お前は俺を支えろ!」
俺の鋭い指示に、二人は阿吽の呼吸で応えた。
レオンがアイギスを頭上に掲げて防壁を作り、シルフィアが俺の腰を力強く抱き寄せて、不安定なプレートの上で姿勢を安定させる。
俺は空中で、メニュー画面をミリ秒単位で連打し、飛来する魔力弾の判定を一つずつ座標ジャンプで回避していく。
「一匹たりとも、主様には触れさせはしない!」
シルフィアが俺の腕の中から、片手のナイフを投擲し、撃ち漏らした魔力弾を空中で正確に迎撃する。
「お任せを! このレオンがいる限り、いかなる雷火も通しはせぬ!」
レオンの盾が雷撃を受け止め、激しい火花を散らす。
猛烈な速度で上昇を続けるプレートの上で、三人の息が完全に重なり合っていた。
物理演算のバグによる不自然な飛翔。だが、そこで繰り広げられる三人の連携は、どんな緻密にプログラムされたスクリプトよりも美しく、完璧だった。
やがて、雲海を突き抜けた俺たちの目の前に、空中要塞ルギド・アヴェイルの最上階のテラスが姿を現した。
「今だ、跳べッ!!」
俺の叫びと共に、座標固定が解除されたプレートが爆散する。
俺たちは空中で互いの手を強く握り合い、重力から解き放たれた鳥のように、要塞のバルコニーへと鮮やかに着地した。
「……ふぅ。垂直ショートカット成功だ。属性パズルなんて、やってる暇はないからな」
俺は乱れた頭のフライパンを直しながら、無事に着地した二人を振り返った。
レオンは汗を拭いながらも誇らしげに胸を張り、シルフィアはまだ繋いでいた俺の手を、名残惜しそうに、けれどもしっかりとした力強さで一度握りしめてから、そっと離した。
「主様……今の、あの空を貫くような高揚感。一生、忘れません」
シルフィアが、少しだけ顔を赤らめながらも、凛とした笑顔で俺を見つめた。
「うむ! 我ら三人、主様の翼となって、これからも天の果てまで駆け抜けましょうぞ!」
レオンの言葉に、俺は無言で小さく頷き返した。
ただの効率化の手段だったはずの垂直跳躍。だが、雲を抜けた先で見たあの眩い太陽の光と、共に戦った二人の温もりは、俺の冷たい効率の心に、消えない絆という名の最も美しいバグを刻み込んでいた。
空中要塞の最深部へと続く重厚な扉を前に、俺たちは再び足並みを揃える。
魔王の玉座へと続く覇道は、今、三人の確かな友情と微かな恋心の熱を帯びて、さらに加速していくのだった。




