第27話:テクスチャの境界滑走と、腕の中に灯る微熱
大昇降機の重厚な鉄格子が開き、ゼリュート大深度晶洞の最下層へと足を踏み入れた俺たちを出迎えたのは、息を呑むほどに美しく、そして静まり返った地下世界だった。
見渡す限り、視界を埋め尽くすのは巨大な紫色の水晶の群れである。
天井から鋭く垂れ下がる無数の結晶体は、それ自体がぼんやりとした冷たい光を放ち、磨き上げられた鏡のような水晶の床面に反射して、空間全体を万華鏡のような幻想的な青紫色に染め上げている。地下特有のひんやりとした空気が肌を刺し、静寂の中で、どこか遠くから水滴が落ちる澄んだ音だけが反響していた。
(このゼリュート大深度晶洞は、景観の美しさとは裏腹に、アクションゲーム史上最悪のクソマップとして名を馳せている。問題は敵の強さじゃない。この異常なまでに複雑な地形ポリゴンそのものだ)
俺はHP1の赤いオーラを纏ったまま、足元の透き通るような水晶の床を見下ろした。
このエリアの水晶群は、視覚的なモデリングと、実際にキャラクターがぶつかる当たり判定、いわゆるヒットボックスの形が全く一致していない。見た目には何もない空間に見えても、見えないギザギザの壁が無数に張り巡らされているのだ。
プレイヤーであればジャンプや回避行動で強引に抜けられるが、厄介なのは同行するNPCの存在である。彼らの経路探索AIは視覚モデルに依存しているため、この見えない壁に引っかかると、虚空に向かって永遠に歩き続けるという致命的なスタック現象を起こしてしまう。
タイムアタックにおいて、NPCが地形に引っかかって進行不能になるのは、リセットを余儀なくされる最悪の事態だ。
「主様。ここはかつて、地殻変動で滅びた古代魔法文明の遺構。美しいですが、水晶の陰にはこの環境に適応した凶悪な魔物、ヴァルニウム晶蛛が多数潜んでおります。どうか、私の背後から離れずに……」
シルフィアが双剣を構え、俺を庇うように一歩前へ出ようとした。
だが、その細い腕を俺は無言で掴み、強引に引き留めた。
「待て。お前は自分の足で歩かなくていい」
「え……?」
シルフィアが間の抜けた声を上げた次の瞬間、俺は彼女の膝裏と背中に腕を回し、その身体を軽々と宙に浮かせた。
「きゃっ……!?」
俺の腕の中にすっぽりと収まり、いわゆるお姫様抱っこの体勢で抱き上げられたシルフィアは、パニックを起こしたように手足をバタつかせた。
(NPCのAIが地形に引っかかるなら、プレイヤー自身がオブジェクトとして持ち運んでしまえばいい。システム上、抱き抱えられたNPCの当たり判定はプレイヤーの座標と完全に同化し、個別の経路探索処理はオフになる。これで面倒なスタックを完全に回避できる)
俺にとっては、ただバグによる進行不能を避けるための、純粋にシステム的な効率化の行動でしかなかった。
だが、突然俺の腕の中に抱きすくめられたシルフィアの心境は、この極寒の地下空間にあって、業火に放り込まれたかのように激しく燃え上がっていた。
(しゅ、主様……!? な、なぜ急に、私をこのように……!)
シルフィアの金色の瞳が限界まで見開き、その白い頬が瞬く間に茹でダコのように真っ赤に染まっていく。
彼女の視界は、俺の広い胸板と、すぐ目の前にある整った横顔で完全に埋め尽くされていた。俺の腕の力強さが、衣服越しに彼女の肌へと直接伝わってくる。そして何より、先ほどの昇降機の中での密着など比べ物にならないほどの、圧倒的で完全な肌の触れ合い。
(私の足が……主様に頼り切って、宙に浮いている。こんな、まるで守られるだけのか弱い姫君のような扱い……暗殺者として生きてきた私に、許されるはずが……)
混乱と恥じらいで頭が真っ白になりながらも、彼女は俺の首にそっと腕を回した。
怖いのではない。ただ、この腕の中から永遠に降ろされたくないという、あまりにも甘く狂おしい願望が、彼女の理性をドロドロに溶かしていたのだ。
俺の胸の奥から響く、力強く規則正しい心拍の音。それが、彼女の鼓動と完全に重なり合う。
彼女は俺の首筋に顔を埋め、その体温を魂の底まで刻み込むように、深く、深く息を吸い込んだ。
(ああ、もうどうなってもいい。主様がこのまま私を抱いて地獄の底へ身を投げるというのなら、私は喜んで共に堕ちよう。私はただの剣ではない。貴方様のためだけに生き、貴方様のためだけに命を散らす、一人の女なのだから……!)
狂信という名の宗教は、すでに後戻りのできない純粋で重すぎる恋情へと完全に変質していた。彼女は俺の胸にすがりつき、その温もりを独占する喜びに打ち震えていた。
一方の俺もまた、平然とした顔を取り繕いながらも、内心では激しい動揺と葛藤に苛まれていた。
(……軽い。いや、重さだけじゃない。この柔らかな感触と、首筋にかかる熱い吐息はなんだ。ただのデータの羅列であるはずのNPCが、どうしてこんなにも生々しく、一人の人間としてそこに存在しているように感じられるんだ)
VRデバイスの触覚フィードバックが、限界を超えた異常な精度で俺の脳に信号を送り続けている。
彼女から漂う、夜露と微かな汗が混じり合った甘い香り。俺の腕の中でビクビクと小刻みに震える華奢な肩。そして、俺にすべてを委ね切った、絶対的な信頼と情念の入り混じった眼差し。
ただのシステム的な処理だ。そう何度も自分に言い聞かせても、俺の心臓は彼女の熱に呼応するように、ドクン、ドクンと早鐘を打っている。
腕の中に抱くこの少女を、絶対にこの冷たい水晶の床に降ろしたくない。いっそこのまま、タイムアタックの記録など投げ捨てて、彼女を抱きしめ続けたい。そんな、効率主義の俺からすれば絶対にあり得ない『バグ』のような感情が、胸の奥底で確実に芽生え、根を張り始めていた。
俺は自らの動揺を振り払うように、頭のフライパンをコンッと叩いて前を向いた。
「おい、タンク。お前は俺の十歩前を歩け。そして、大盾を構えたまま絶対に立ち止まるな。現れる魔物はすべて、お前のその装甲で強引に弾き飛ばして進むんだ」
俺の背後で待機していたレオンは、俺とシルフィアの姿を見て、再び兜の奥で滝のような熱い涙を流していた。
「……おおおっ! なんという……なんという気高き御姿か!」
レオンは分厚い胸板を叩き、水晶の洞窟に響き渡るほどの野太い声で咆哮した。
「水晶の鋭い刃が、愛しき影の素足を傷つけることを良しとせず、自らの腕でその身を抱き上げて歩まれるとは! 王としての絶対の威厳と、一人の騎士としての究極の優しさ! 主様、このレオン、貴方様のその深く熱い御心に、武人の魂のすべてを懸けてお応えいたしましょう!」
レオンは完全に自らの世界に浸り切り、大盾アイギスを構えて猛然と水晶の森へと突撃を開始した。
彼の巨体が、透明な姿で襲い掛かってくるヴァルニウム晶蛛の群れを、重装甲の暴力で次々と粉砕していく。
(よし、前衛の露払いは完璧だ。ここから一気に最深部までショートカットするぞ)
俺はシルフィアを強く抱き抱えたまま、足元の透き通る水晶の床面をじっと見つめた。
このエリアの床には、異なる二つのテクスチャポリゴンが繋ぎ合わされている箇所が無数に存在する。その継ぎ目となる境界線は、システム上、摩擦係数のパラメータが設定されていない『幅ゼロの虚無のライン』だ。
俺は、その見えない境界線の上に、ピタリと両足を乗せた。
(摩擦係数ゼロの境界線上で、前方のレオンが魔物を弾き飛ばす際に発生する微小な振動バグを足元で拾い続け、それを前方への推進力へと無限に変換する。通称、ポリゴンの継ぎ目滑走、シーム・サーフィンだ)
俺が境界線上で小刻みにしゃがみ入力を連続させた瞬間、俺とシルフィアを乗せた座標の慣性が完全にバグを引き起こした。
ヒュンッ!!
「……っ!?」
俺の腕の中で、シルフィアが短い悲鳴を上げた。
歩幅を広げることもなく、ただ直立したままの俺の身体が、摩擦を完全に無視して、まるで氷の上を滑るホバークラフトのように凄まじい速度で前進を始めたのだ。
前衛で道を切り開くレオンの猛烈な突進速度に合わせ、俺の身体は水晶の床を音もなく滑走していく。
周囲の紫色の結晶群が、流星のように後方へとすっ飛んでいく。
「主、様……っ。私たちは、滑って……!」
強烈な風圧から逃れるように、シルフィアはさらに深く俺の胸に顔を埋め、俺の衣服をギュッと握りしめた。
そのあまりにも愛らしい仕草に、俺はつい、無意識のうちに抱きかかえる腕の力をわずかに強めてしまった。
(落ちないように、しっかり捕まっていろ)
俺の口からは、そんな声すら出なかった。ただ、彼女の身体を落とすまいとする確かな力強さだけが、彼女に伝わっていた。
(ああ……主様が、私を強く抱きしめてくださっている)
シルフィアの頬は、もはや火傷しそうなほどの熱を帯びていた。
超高速の滑走の中で、世界はただの流れる光の帯となり、彼女の存在のすべては、この温かく力強い腕の中だけに集約されていた。
冷たい暗殺者としての過去は、もう二度と思い出せない。彼女は今、ただ一人の男を愛し、その男に愛されることだけを願う、ただの純粋な少女として、俺の腕の中で静かに震えていた。
猛進するレオンが水晶の魔物を粉砕し、俺がその背後をシルフィアを抱えたまま音もなく滑空する。
狂信の聖騎士と、恋に身を焦がす暗殺者、そして効率主義の果てに人間らしい愛着を抱き始めたRTA走者の三人は、バグの軌跡を冷たい水晶の床に描きながら、このエリアの最深部である『冥晶王の墓所』の重厚な扉の前へと、瞬く間に到達するのだった。




