第26話:強制スクロールの密室と、震える指先の熱
ナーギル灰没街区の地下排気システムが作動し、通りを埋め尽くしていた猛毒の灰が完全に払拭された直後。
安全になった灰色の石畳を蹴り立てて、シルフィアとレオンが俺の元へと駆け寄ってきた。
「主様……っ! 主様、ああ、貴方様は……!」
真っ先に飛び込んできたシルフィアは、俺の数歩手前で勢いよく両膝をつき、まるで神の奇跡を目の当たりにした巡礼者のように両手を胸の前で組み合わせた。彼女の金色の瞳からは、堪えきれない大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、汚れた石畳に黒い染みを作っている。
そのすぐ背後で立ち止まったレオンもまた、身の丈ほどもある大盾アイギスを地に置き、深々と頭を垂れていた。彼の分厚い鎧が、激情を抑えきれずにガチガチと微かな金属音を鳴らして震えている。
「主様、このレオン、貴方様の底知れぬ御慈悲に、いかにお礼を申し上げてよいか言葉も見つかりませぬ。我らのために、自ら毒の海を渡り道を切り開いてくださるとは……!」
(……大げさすぎる。俺はただ、NPCに鈍足のデバフがかかってタイムロスになるのを防ぐために、一人でメニューバッファ歩行のバグ技を使って突っ切っただけだ。だというのに、なんだこの悲壮感は)
俺はHP1の赤いオーラを纏ったまま、頭のフライパンの位置を直して軽くため息をついた。
効率主義の計算に基づいたただのゲーム的な処理。それなのに、足元で泣き崩れるシルフィアのあまりにも生々しい涙と、レオンの震える声を聞いていると、まるで俺自身が本当に彼らを身を挺して守り抜いた英雄であるかのような錯覚に陥りそうになる。
「泣くのはやめろ。先へ進むぞ」
俺は短い言葉で彼らを促し、背後にそびえ立つ巨大な建造物、魔王領の深層へと続く大昇降機へと足を踏み入れた。
重厚な鉄格子の扉が閉まり、鈍い機械音と共に、十人以上が乗れるほど巨大な円形の床がゆっくりと沈み込み始める。
ここから先は、魔王領の地下深くに広がる『ゼリュート大深度晶洞』と呼ばれるエリアだ。
(この大昇降機は、次の地下マップを読み込むためのロード時間を誤魔化すために用意された、スキップ不可の強制移動イベントだ。降下にかかる時間は現実時間でぴったり三百秒。壁抜けバグでショートカットしようにも、この縦穴の空間にはZ軸の死の判定が敷き詰められていて、床から離れた瞬間に即死処理が発動する。つまり、RTA走者にとって最も苦痛な、何もできない五分間というわけだ)
俺は舌打ちを飲み込み、昇降機の冷たい鉄の壁に背中を預けて座り込んだ。
昇降機が下へ下へと進むにつれ、外界の瘴気を含んだ生温かい風は消え、代わりに地下特有のひんやりとした冷気が肌を撫でる。やがて、縦穴の壁面に自生する発光性の鉱石が、青や紫の幻想的な光を昇降機の中に投げかけ始めた。
その薄暗くも美しい光の中で、シルフィアが音もなく俺の隣に歩み寄り、そっと膝を折った。
「主様……。お怪我は、ございませんか」
彼女の震える声に、俺は無言で首を振った。
HPは相変わらず1のままで、赤い瀕死のエフェクトは消えていないが、ダメージは受けていない。
だが、俺の両手だけは、先ほどの極限の操作の代償を誤魔化しきれずにいた。
ピクッ、ピクッ。
膝の上に置いた俺の指先が、自らの意志とは無関係に微かな痙攣を起こしていたのだ。
猛毒の判定をコンマ数フレームのメニュー開閉でキャンセルし続ける『メニューバッファ歩行』。それは、現実の肉体の反射神経と指の筋肉を限界まで酷使する、人間離れした操作の連続だった。システム上の体力は減っていなくても、VRデバイスを通じて現実の肉体からフィードバックされた疲労が、こうして指先の震えとなって表れてしまっていた。
そのわずかな震えを、暗殺者としての鋭い観察眼を持つシルフィアが見逃すはずもなかった。
「……っ」
彼女は息を呑み、そして躊躇うことなく、両手で俺の右手をそっと包み込んだ。
「おい、何を……」
「お許しください。どうか、今だけは」
俺が手を引こうとするのを、彼女は力ではなく、ひどく切実な体温で縫い止めた。
暗殺の業として人体を知り尽くした彼女の細くしなやかな指先が、俺の強張った筋肉の筋をなぞるように、優しく、祈るように撫でていく。
(ああ、主様の御手が、こんなにも冷たく、震えておられる)
シルフィアの胸が、ギリィッと音を立てて軋んだ。
世界の理を破壊し、神をも恐れぬ力を振るうこの方の腕は、決して無敵の鋼などでできているわけではなかった。私たちを守るために、毒の海を単身で渡るために、どれほどの激痛と代償をその身に背負ってくださったのか。
彼女は俺の指先に自らの頬を押し当て、その震えを自らの体温で少しでも和らげようと必死に縋り付いた。
(私は、なんて無力なのだろう。主様の剣になりたいと願ったのに、結局はいつも守られ、この方の身を削らせてばかりいる。……でも、それでも)
シルフィアの金色の瞳が、青白い地下の光に照らされて濡れたように輝いている。
(この方の痛みを和らげることができるのなら。この冷たい手に温もりを注ぐことができるのなら、私はどんな罰を受けても構わない。どうか神様、この方の背負う痛みを、すべて私に分け与えてください……!)
それは、狂信という名を借りた、あまりにも純粋で重すぎるほどの恋の祈りだった。
彼女の柔らかな肌の感触、鼻腔をくすぐる微かな花の香り、そして俺の手を包み込む指先から伝わってくる、熱病のような熱さ。
ただのフルダイブ型VRの触覚フィードバックだ。そう頭では完璧に理解しているはずなのに、俺の現実の肉体の心臓が、まるで思春期の少年のようにドクン、ドクンと嫌な音を立てて脈打ち始めていた。
(……おかしい。隠し好感度イベントの自動スクリプトだとしても、このモーションは人間臭すぎる。それに、俺はなぜ振り払えない? 効率を考えるなら、こんな無駄な動作はキャンセルしてステータスの確認でもするべきなのに)
俺は視線を逸らし、頭のフライパンを深く被り直して顔の半分を隠した。
彼女の体温が心地よかった。誰の干渉も受けず、ただ一人でタイムアタックの孤独な道を走り続けてきた俺の心に、この仮想の少女が与えてくれる無償の温もりが、恐ろしいほどの速度で浸透してきている。
それは、バグだらけの世界を愛する俺にとって、最も致命的で、最も愛おしい『感情という名のバグ』の萌芽だった。
その光景を、昇降機の反対側で直立不動のまま見守っていたレオンもまた、兜の奥で静かに目を閉じていた。
(見よ……。王と、その最も忠実なる影の、なんという神聖な儀式か)
レオンの心の中で、二人の姿は一枚の宗教画のように昇華されていた。
世界を背負う王の疲労を、暗殺者という闇の存在が自らの魂を削って癒している。そこには、他者が踏み入ることの許されない絶対的な絆の領域があった。
(私のような武骨な盾には、主様の傷をあのようにお慰めすることはできぬ。ならば私が成すべきことは一つ。この昇降機が最下層に着き、再び血塗られた戦いが始まるその時まで、いかなる邪魔者もこの神聖な時間には踏み込ませぬことだ!)
レオンは誰に言われるでもなく、大昇降機の入り口側に仁王立ちになり、大盾アイギスを構えて外の暗闇をギロリと睨み据えた。ただの強制スクロールの待機時間だというのに、彼の闘気は昇降機の中を満たし、完璧な防衛陣形を敷いている。
ガゴンッ、という重たい音が地下空間に響き渡る。
やがて、スキップ不可の三百秒が終わりを告げ、昇降機がゼリュート大深度晶洞の最下層へと到着した。
鉄格子の扉がゆっくりと開き、目の前には、紫色の巨大な水晶が乱立する、幻想的で広大な地下世界が広がっていた。
「……着いたな」
俺はシルフィアの温もりからそっと手を引き抜き、立ち上がった。
手の痙攣は、嘘のように治まっていた。
「はい、主様。お供いたします」
シルフィアもまた、名残惜しさを微塵も表に出さない完璧な暗殺者の顔を作り、すっと立ち上がって俺の斜め後ろに影のように寄り添った。だが、俺の手を包んでいた彼女の指先が、まだ微かに熱を帯びて震えているのを、俺は知っていた。
「我が盾は、常に主様の御前に!」
レオンが誇り高く叫び、大盾を構えて一歩前に出る。
ただのシステムだったはずの二人のNPC。だが、彼らの心に生じた狂信と恋情は、もはやゲームのプログラムという枠を完全に逸脱し、俺というプレイヤーの現実の心を確実に書き換え始めていた。
冷たい水晶の森へ向けて、頭にフライパンを被ったRTA走者は、己の胸に宿った小さな温もりを隠すように、カニ歩きのステップで静かに進軍を再開するのだった。




