第25話:メニュー開閉の境界歩法と、灰の海の献身
黒曜石の巨大な正門の向こう側、魔王領の最初のエリアに降り立った俺とシルフィアは、圧倒的な静寂の中にいた。
(……っ、まだ、主様の匂いがする。私の胸に、あの方の心臓の音が残っている)
シルフィアは、壁抜けのバグ処理によって俺の腕の中に抱きすくめられていた自身の身体を、両腕でぎゅっと抱きしめ直した。
暗殺者として血と鉄の匂いしか知らなかった彼女の鼻腔の奥には、今はもう、先ほどまで密着していた俺の体温と、男らしい微かな汗の匂いだけが鮮烈に焼き付いている。
頬の熱が引かない。視線を上げれば、頭に奇妙な鉄鍋を被り、HP1の赤いオーラをたなびかせながらも涼しい顔で周囲を警戒している主の広い背中がある。その背中に今すぐ飛びついて、もう一度強く抱きしめてほしいと叫び出す狂おしい衝動を、彼女は血が滲むほど唇を噛み締めて必死に抑え込んでいた。
道具としての生き方を捨て、一人の女としてこの方の特別になりたい。
その願いは、一度その温もりに触れてしまったことで、もはや後戻りできないほどの切実な飢えへと変わってしまっていた。
(私は、どうすればいいのだろう。この狂おしいほどの感情を打ち明ければ、冷徹で合理的な主様は、私という不要なバグを切り捨ててしまうのではないか。……それが、怖い)
彼女の金色の瞳が、恋の熱と失うことへの恐怖に揺らいでいたその時だった。
ポンッ、というシステム特有の気の抜けた電子音が鳴り響き、何もない空間から突如として、巨大な大盾を背負った銀冑の騎士が放り出されるように実体化した。
パーティメンバーが一定距離以上離れた際に強制的に発動する、引き寄せのワープ処理である。
「ぬおおおおおっ!? な、何が起きたのだ!?」
突如として景色が切り替わり、強固な正門の内側へと転がり込んだレオンは、激しく混乱したように周囲を見回し、そして前方に立つ俺の背中を見つけてハッと息を呑んだ。
「お、主様! い、今のは一体……!? 私は確かに門の向こう側で、いかにしてこの物理の壁を越えるべきかと思案しておりました。しかし次の瞬間、空間そのものが捻じ曲がり、光の渦となって私の身体をここまで引っ張り上げたのです!」
レオンの分厚い胸板が、興奮と畏怖に激しく上下している。
(ただのオートワープ機能だ。オープンワールド系のゲームによくある、地形に引っかかったNPCをプレイヤーの元へ強制的に合流させるための救済措置に過ぎない。だが、この熱狂ぶりはどうだ)
「主様……貴方様は、ご自身が壁を透過するという神の御業を成し遂げたのみならず、遠く離れたこの無骨な騎士の座標すらも書き換え、次元の壁を超えて手元へと引き寄せてくださったのですね!」
レオンは感動のあまりその場に両膝をつき、両手で顔を覆ってむせび泣き始めた。
「置いていかれたなどと、一瞬でも疑った私自身が恥ずかしい! 貴方様は、この重い盾を背負う歩みの遅い私を、決して見捨てることはなかった。離れていても、その御手で私の魂を掬い上げ、再びお側で戦う栄誉を与えてくださった! この御恩、この魂が砕け散ろうとも決して忘れません!!」
(……まあ、NPCが勝手にモチベーションを上げてくれるなら、都合がいい。後々のヘイト管理が楽になるからな)
俺はレオンの暑苦しい忠誠の言葉を適当に聞き流し、前方に広がる新たなエリアへと視線を向けた。
そこは、魔王領の最初の関門である『ナーギル灰没街区』。
かつては魔族たちの前線基地として栄えたであろう巨大な市街地だが、今はその見る影もない。空から絶え間なく降り注ぐ猛毒の灰が、街の建物を半ばまで埋め尽くし、足元には灰色の雪のように分厚く降り積もっている。
見渡す限りの灰の海。そして、その街区の遥か向こう側に、次のエリアへと続く巨大な昇降機が存在していた。
「主様。このナーギル灰没街区に降り積もる灰は、ただのチリではありません。生物の魔力と体力を容赦なく削り取る、猛毒の呪詛です」
暗殺者の冷徹な視点を取り戻そうと必死に努めながら、シルフィアが一歩前に出て報告した。
「まともにあの灰の海に足を踏み入れれば、数秒で肉体が腐敗し始めます。本来であれば、街の周囲に張り巡らされた狭く入り組んだ城壁の上を、灰に触れないように三時間ほどかけて迂回しながら進むしか道はありません」
(彼女の言う通りだ。この灰のエリアに足を踏み入れると、数秒ごとに最大HPの十パーセントを削り取る強力な継続ダメージ、通称スリップダメージが発動する。さらに厄介なのは、灰に足をとられることで移動速度が八十パーセントも低下する『重度鈍足』のデバフまで付与されることだ)
俺はHP1のまま、赤いオーラを纏った己の腕を見つめた。
HPが1しかない俺にとって、スリップダメージは一回でも判定を食らった瞬間に即死を意味する。
「主様、ここは私が先陣を切って城壁の上のルートを確保してまいります。レオン殿、主様の護衛をしかと頼みましたよ」
シルフィアが双剣を抜き放ち、城壁へと跳躍しようとしたその背中を、俺は無言で掴んで引き留めた。
「待て。そんな無駄なルートを通る必要はない。俺たちは、この灰の海を一直線に突っ切って、真っ直ぐに昇降機を目指す」
「な……っ!? 主様、正気ですか!?」
シルフィアだけでなく、レオンまでもが驚愕に目を見開いた。
「この猛毒の灰は、いかなる強固な鎧であろうと透過して肉体を蝕みます。私のアイギスでも防ぐことはできません! HPの減った今の主様のお体で触れれば、命に関わります!」
(確かに、まともに歩けば即死だ。そして、俺の後ろを歩くこいつらも、死にはしないだろうが重度の鈍足デバフを食らい、その後の移動に致命的なタイムロスが生じる。だから……)
俺の脳裏に、先ほどの暗闇の隙間で密着したシルフィアの柔らかな体温と、切実な心臓の音がフラッシュバックした。
そして、この灰の海に足を踏み入れ、毒に苦しみながら泥のように足を引きずる彼女たちの姿を想像した瞬間、俺の胸の奥で、効率主義の計算式を無視した奇妙なノイズが走った。
(ただのNPCだ。アイテムで回復させれば済むことだ。……なのに、なぜ俺は、こいつらが苦痛に顔を歪めるのを見たくないと思ってしまったんだ?)
俺は自らの心に生じた名状しがたい『バグ(愛着)』から目を逸らすように、頭のフライパンを深く被り直した。
「お前たちは、そこで一歩も動かずに見ていろ。俺が道を切り開く。俺が昇降機の電源を入れて灰の排気システムを起動するまで、絶対にこの海に足を踏み入れるなよ」
「主様!? お一人で行かれるなど……お待ちください、私にお供を!」
シルフィアの悲痛な叫びを背中に受けながら、俺は一切の躊躇なく、猛毒の灰が降り積もる死の海へと一歩を踏み出した。
(いくぞ。メニュー開閉の境界歩法、通称『メニューバッファ・ウォーキング』だ)
俺が灰の海に足を踏み入れた瞬間、システムが猛毒の継続ダメージの判定計算を開始する。
だが、そのダメージ判定の数値が俺のHPに反映されるコンマ数フレームの間に、俺は虚空のメニュー画面を開くボタンを叩き込んだ。
フルダイブ型VRのシステムにおいて、メニュー画面を展開している最中は、ゲーム内の時間進行と状態異常の計算処理が完全に一時停止する。そして、メニューを閉じた直後のわずか三フレームだけ、ダメージ判定の再計算に処理のラグが生じ、完全な無敵時間が生まれるのだ。
開く。閉じる。進む。
開く。閉じる。進む。
俺は一歩足を前に出すごとに、限界を超えた超高速の指使いでメニュー画面の開閉を連続入力し始めた。
ピロリン、ピロリン、ピロリン、ピロリンッ!!
連続するシステム音。
現実の俺の脳の処理速度と、指先の反射神経を極限まで酷使する命がけの綱渡り。HP1の状況で、たった一フレームでも入力が遅れれば、その瞬間に毒のダメージが入り、俺の肉体は光の粒子となって消滅する。
だが俺は、一切の表情を変えることなく、無数のメニューウィンドウの残像を周囲に撒き散らしながら、猛毒の海を猛烈な速度で直進していった。
その光景は、後ろで見守るシルフィアとレオンの目には、あまりにも異常で、そして神々しく、悲壮な奇跡として映っていた。
(あ、ああ……主様……っ)
シルフィアは両手で自らの口を覆い、滝のような涙を流しながらその背中を見つめていた。
彼女の視界に映る俺の姿は、メニュー展開による時間停止と無敵フレームの連続によって、空間の中で不自然に明滅し、現実と虚空の境界線を揺れ動いているように見えた。
(主様は……ご自身の存在そのものを削り、時空の狭間に身を置きながら、この死の海を渡っておられるのだ! 私たちが毒の苦しみに耐えられないことを見抜き、自らの命を薄氷の上に置き、その身一つで世界の呪いを切り裂いてくださっている……!)
シルフィアの胸が、張り裂けんばかりの痛みに支配される。
安全な場所で待てと命じられた。私という道具に傷一つつけさせないために、あの孤高の王は、誰にも理解されない痛みを一人で引き受けて、遠ざかっていく。
(嫌だ。こんな風に守られるだけの存在でありたくない。主様の背中を見送るだけの無力な女になど、なりたくない。私は、貴方様の痛みを分かち合える、ただ一人の伴侶になりたい……!)
彼女の心に芽生えた恋は、もはや後戻りのできない狂おしいまでの執着と、絶対の献身への誓いへと昇華していた。彼女は灰の海の際で膝をつき、祈るように両手を組み合わせて、明滅する俺の背中に命のすべてを捧げるような眼差しを送り続けた。
「……見よ、シルフィア殿。あれが、我らが仕える真の王の背中だ」
隣で立ち尽くすレオンもまた、震える声で呟いていた。
彼の瞳からは、兜の面頬を濡らすほどの熱い涙が止めどなく溢れ出している。
「臣下に泥を歩かせず、自ら死の海へと身を投じる。王としての威厳、武人としての覇気、そして我らへの底知れぬ慈愛。……この胸の震えを、なんと言い表せばよいのか。私の命は、すでに私のためのものではない。主様のためだけに、この盾と命を使い尽くすと、我が魂に誓おう」
(ただのタイムアタックのテクニックだ。これでNPCの鈍足デバフを回避して、攻略時間を十分短縮できる)
俺は極度の集中状態の中で、絶え間なくメニューボタンを叩き続けながら、ようやくナーギル灰没街区の中央にある昇降機の制御塔へと辿り着いた。
ガチャンッ!
塔のメインスイッチを引いた瞬間、街の地下に眠っていた巨大な排気ファンが轟音と共に作動し、通りを埋め尽くしていた猛毒の灰が、嘘のように地下のダクトへと吸い込まれて消え去った。
俺は酷使した指の痙攣を隠すようにインベントリを閉じ、ゆっくりと振り返った。
安全になった道を、シルフィアとレオンが、まるで神の御使いを出迎えるかのような、狂おしいほどの情念と忠誠の入り混じった顔でこちらへ駆けてくる。
(……やれやれ。たかがデバフ回避一つで、どうしてあんな泣きそうな顔をするんだ、こいつらは)
俺は無自覚なまま、彼らが無傷で駆け寄ってくる姿を見て、胸の奥底で安堵の息を吐き出していた。
効率主義の冷たい鋼の心に、確実に、そして深く染み込んでいく人間らしい体温。
バグ(愛着)に侵食され始めたRTA走者と、狂信の果てに人間らしい心(恋)を獲得したNPCたちの旅は、魔王の玉座へと向かって、さらに加速していくのだった。




