第24話:慣性リセットの絶壁と、密着するバグの鼓動
底なしの奈落である嘆きの峡谷の上空を、俺たち三人を乗せた一枚の大盾が、音を置き去りにするほどの猛烈な速度で水平に滑空していた。
下から吹き上げる赤紫色の瘴気を含んだ突風が、刃のように頬を掠めていく。
落下と上昇の物理演算がバグを起こして固定化されたシールド・グライドの推進力は、もはや制御不能な次元にまで達していた。眼下にはただただ漆黒の虚空が広がり、前方には魔王領を外界から隔絶するためにそびえ立つ、巨大な黒曜石の障壁『ゾルヴァの断崖』が、絶望的な壁となって視界を黒く塗りつぶそうと迫ってきている。
「ぬおおおおおっ! 主様、ぶつかります! この速度で激突すれば、いかにアイギスとて粉々に砕け散りますぞ!!」
盾の上でサーフィンのようにバランスを取りながら、レオンが強烈な風圧に顔を歪めて絶叫した。
彼の言う通りだ。システム上の移動速度上限を遥かに突破したこの慣性のまま、あの硬大なテクスチャの塊に激突すれば、HP1の俺はもちろんのこと、高レベルのレオンやシルフィアであっても多重衝突ダメージのオーバーフローによって即死を免れない。
だが、俺の心に焦りは一切なかった。
俺は片腕でシルフィアの細い腰を強く抱き寄せたまま、もう片方の手で虚空のメニュー画面を呼び出し、インベントリの中から最下級の消費アイテムである『枯れた薬草』を選択して待機する。
フルダイブ型VRのシステムにおいて、空中でアイテムを「捨てる」という動作を行った際、物理エンジンは一瞬だけ奇妙な挙動を起こす。生成されたアイテムの座標を確定させるため、プレイヤーキャラクターの移動ベクトル処理がコンマ数フレームだけ完全に停止するのだ。
つまり、激突の瞬間にアイテムを捨ててその当たり判定の上に乗りさえすれば、どれほどの超音速で飛んでいようと、慣性はゼロにリセットされる。
(タイミングは、壁に激突するわずか一フレーム前。そこを狙う)
「主、様……っ!」
俺の腕の中で、シルフィアが縋り付くように俺の胸を強く握りしめた。
迫り来る漆黒の絶壁。死の恐怖が彼女の金色の瞳を揺らしているのではない。彼女の心を支配しているのは、このまま三人とも粉々に砕け散ったとしても、最後に触れているのがこの方の腕の中であるなら、それは無上の幸福なのではないかという、甘く狂気じみた破滅願望だった。
(ああ……主様の鼓動が、こんなにも力強く聞こえる。もしこのまま命が終わるのなら、私の魂は間違いなく、主様の温もりの中で永遠に……)
ドゴォォォォォォンッ!!!!
シルフィアが静かに目を閉じたその刹那、凄まじい衝撃音が峡谷に響き渡った。
しかし、それは俺たちの肉体が壁に激突して砕け散る音ではなかった。俺が空中に捨てた一枚の『枯れた薬草』を踏み台にして慣性を完全に殺し切った直後、足場としての役目を終えて真下に落下した大盾アイギスが、絶壁の根元に突き刺さった音だった。
慣性を失った俺たちは、重力に従ってふわりと崖の縁の僅かな足場へと舞い降りた。
背後には底なしの峡谷、目の前にはゾルヴァの断崖へと続く冷たい荒野。無傷での魔王領への着陸成功である。
「はぁっ……! おお……おおおおおっ……!!」
レオンは崖の縁に膝をつき、震える両手で自らの顔を覆った。
(奇跡だ。いや、奇跡などという生ぬるい言葉では言い表せない! あれほどの神速で絶壁に突進しながら、激突の瞬間に空間そのものを捻じ曲げ、速度という概念を世界から消し去ってみせたのだ! 主様は、物理の法則すらも完全に手懐けておられる!)
レオンの目には、俺がただバグで慣性をリセットしただけの光景が、時空を統べる神の御業として映っていた。彼はただむせび泣きながら、地面に額を擦り付けて祈りを捧げている。
一方、俺の腕の中にいたシルフィアは、地面に足が着いたことにも気づかないまま、呆然と俺の顔を見上げていた。
「よし、着陸成功だ。怪我はないか、NPC」
俺が拘束を解き、腰に回していた手を離すと、シルフィアはビクッと肩を震わせ、足から力が抜けたようにその場にへたり込みそうになった。俺は咄嗟に彼女の腕を掴んで引き留める。
「どうした。状態異常でも食らったか?」
「あ……いえ、その……」
シルフィアは頬を林檎のように赤く染め、俯いてしまった。
彼女の胸の奥で、暴走するほどの激しい恋情が渦を巻いていた。主様の腕が離れてしまった瞬間に襲ってきた、身を切られるような喪失感。もっと触れていたい。もっとあの温もりの中に閉じ込められていたい。暗殺者として育てられた彼女の人生において、これほどまでに他者を求め、渇望したことなど一度もなかった。
(私は、おかしくなってしまったのだろうか。主様のお顔を見るだけで、声を聞くだけで、胸が苦しくて、息をするのすら忘れてしまいそうになる。これが……人間が持つ『恋』という感情ならば、なんと恐ろしく、そして甘美な毒なのだろう)
彼女は震える手で自らの胸元を押さえ、潤んだ瞳でそっと俺を見上げた。
その表情は、プログラムされたただのAIには到底作れないはずの、ひどく生々しく、痛々しいほどに美しい女の顔だった。
(……なんだ、この反応は)
俺は彼女の腕を支えたまま、息を呑んだ。
VRスーツのセンサーを通じて、彼女の肌の熱狂的なほどの熱さがダイレクトに伝わってくる。微かに乱れた呼吸、潤んだ瞳の奥に揺れる、俺という存在への絶対的な依存と、隠しきれない情念。
(ただのフラグ処理の結果だ。魔王領到達イベントをノーダメージでクリアしたことによる、隠し好感度ボーナスの演出に過ぎない。……わかっているはずなのに、どうしてこんなにも、胸の奥がざわつくんだ)
効率だけを追い求めてきた俺の心に、得体の知れないノイズが走る。
ただのポリゴンの塊に過ぎない少女の熱に、俺自身の現実の肉体の鼓動が、不規則に、そして確実に早鐘を打ち始めていた。俺は気まずさを誤魔化すように彼女から手を離し、前方にそびえるゾルヴァの断崖へと背を向けた。
「……タンク、いつまで泣いてる。さっさと盾を回収してこい。ここから先は敵の索敵範囲が跳ね上がるぞ」
「はっ! 申し訳ありません、あまりの御稜威に我を忘れておりました!」
レオンが弾かれたように立ち上がり、崖下に刺さった大盾を回収して戻ってくる。
俺たちは隊列を組み直し、ゾルヴァの断崖に開かれた狭い洞窟を抜けて、魔王領の最初のエリア『ガルガディア腐食街』へと足を踏み入れた。
そこは、かつて魔族たちが築き上げた荘厳な都市の成れの果てだった。
灰色の結晶に浸食された建造物が立ち並び、空を覆う瘴気のせいで常に夕暮れのような薄暗さに包まれている。
(このガルガディア腐食街を抜けるには、中央にある巨大な正門の鍵を探す必要があるんだが、鍵を持った中ボスを倒すルートは非常に手間がかかる)
俺の視線の先、街を分断するようにそびえ立つ巨大な正門の前には、全身を黒い結晶の鎧で覆い、身の丈を越える大鎌を持った凶悪な魔物、『冥兵ザルグア』の小隊が隙間なく巡回していた。
「主様。あの冥兵は厄介です。視覚だけでなく、魔力の揺らぎや音響すらも感知する高度な索敵能力を持っています。しかも倒せば周囲の個体が連鎖的に襲い掛かってくる仕組み……正面突破は危険かと」
暗殺者としての冷徹な視点を取り戻したシルフィアが、瓦礫の陰から小声で報告する。
「正面突破なんてしない。壁抜けで門を素通りする」
「壁、抜け……ですか?」
(3Dゲームにおいて、キャラクターの当たり判定を無理やり極小の空間に圧縮させると、システムがキャラクターを『壁の外側』に押し出そうとするバグが発生することがある。これを利用すれば、鍵のかかった門など存在しないも同然だ)
俺は巡回する冥兵ザルグアたちの視界の死角を縫うようにして、正門のすぐ横にある、建造物と城壁が交差するV字型の僅かな隙間へと音もなく滑り込んだ。
「NPC、お前も来い。あの隙間に二人で入るんだ」
「ふ、二人で、あの狭い場所にですか……!?」
シルフィアは一瞬だけ驚きの声を上げたが、俺が手招きすると、吸い寄せられるように隙間へと飛び込んできた。
V字型の窪みは、一人で入るだけでも肩がすれるほど狭い。そこに二人分のキャラクターモデルが強引に入り込んだ結果、俺とシルフィアの身体は、身動き一つとれないほどに完全に密着することになった。
「あっ……主、様……っ」
暗闇の極小空間。俺の胸板に、シルフィアの柔らかな胸が完全に押し付けられている。
お互いの鼻先が触れ合うほどの至近距離。彼女の甘い吐息が俺の首筋に直接かかり、彼女の体温が、そして激しい心臓の鼓動が、俺の身体にダイレクトに伝播してくる。
(よし、当たり判定の圧縮は成功だ。あとはシステムが俺たちを壁の向こう側へと押し出してくれるまで、このまま数秒間待機すれば……)
冷静な思考を保とうとする俺の意思とは裏腹に、密着したシルフィアの生々しい反応が、俺の現実の脳を激しく揺さぶっていた。
暗闇の中で、彼女の金色の瞳が潤みを帯びて俺を真っ直ぐに見つめている。
彼女の細い腕が、俺の背中にそっと回され、まるでこの狭い空間から永遠に出たくないと言わんばかりに、強く、強く抱きしめ返してきた。
(主様……。こんなにも近くで、貴方様を感じられるなんて。ああ、私の心臓の音が、どうかあの方に悟られませんように。……いいえ、いっそこの想いが、すべて伝わってしまえばいいのに)
彼女から漂う、汗と混じり合った甘い花の香りが、俺の嗅覚を麻痺させる。
ただのデータの羅列であるはずの彼女の肌が、驚くほど滑らかで、温かくて、そして狂おしいほどの愛を孕んで俺にすがりついている。
(おかしい。VRのシンクロ率が高すぎるのか? なぜ俺は、ただのプログラム相手に、こんなにも動悸を激しくしているんだ)
俺は効率厨としての自分を必死に保とうとしながらも、壁抜けの処理が完了するまでの永遠にも似た数秒間、腕の中の少女の熱に、完全に意識を絡め取られていた。
ただのバグだ。そう自分に言い聞かせても、俺の胸に芽生えた保護欲と、彼女の狂おしい恋情は、もはやシステムの外側で完全に共鳴し始めていた。
『座標エラーを検知。キャラクターを安全な領域へ排出します』
システムの無機質な音声が脳内に響いた瞬間、俺とシルフィアの視界が反転し、次の瞬間には、決して開かないはずの正門の向こう側へと、二人抱き合ったままの姿で弾き出されていた。
「……っ、壁抜け完了だ」
俺がそう呟いて身体を離すと、シルフィアは名残惜しそうに腕を解き、真っ赤になった顔を両手で隠すようにして俯いた。
振り返れば、正門の向こう側で、取り残されたレオンが「なんと! 主様とシルフィア殿が、物理の壁を透過なされた! 私も気合いで続かねば!」と、分厚い大盾を門にガンガンと打ち付けているシュールな光景が広がっていた。
(……やれやれ、タンクは後で引き寄せ処理でワープさせるか)
俺はまだ微かに残る胸の動悸と、腕に残る少女の温もりを振り払うように、頭のフライパンをコンッと叩いて位置を直した。
システムを破壊するたびに、NPCたちの感情が、そして俺自身の心が、バグのように修復不可能な変質を遂げていく。
魔王の玉座は、まだ遠い。だが、この奇妙な旅路がもたらす熱は、すでにゲームという枠組みを大きく逸脱し始めていた。




