第23話:落下判定の凍結と、奈落を越える鼓動
エルド大平原の果ては、文字通り世界が真っ二つに割れ落ちたかのような絶望的な断崖絶壁だった。
空の色はこれまでの広大な青から一転し、重く沈んだ赤紫色の雲が渦を巻いている。大地の裂け目である『嘆きの峡谷』の底からは、魔王領特有の濃密な瘴気を含んだ突風が、鼓膜を劈くような轟音と共に絶え間なく吹き上げていた。
崖の縁から下を覗き込めば、光すら届かない底なしの奈落が口を開けている。
本来、このゲームの正規のシナリオにおいて、魔王領へ足を踏み入れるための手順は非常に煩雑だ。平原の各地に点在する五つの古代遺跡を巡り、守護ボスを倒して『精霊の宝石』を集め、この峡谷の祭壇に捧げることで初めて、光の架け橋が出現する。
そのお使いクエストをまともにこなせば、優に三時間は飛ぶ計算になる。タイムアタックにおいて、そんな悠長な寄り道が許されるはずもなかった。
(この嘆きの峡谷に設定されている強烈な上昇気流。これは本来、プレイヤーが足を滑らせて谷に落ちた際に、即死判定のある底に到達するまでの落下時間を引き延ばし、仲間に蘇生魔法を唱えさせる猶予を与えるための環境ギミックだ。だが、この気流の『上方向への押し上げ判定』と、特定の重量オブジェクトを衝突させれば、落下モーションをキャンセルしたまま無限の水平滑空が可能になる)
俺は吹き上げる瘴気の風に頭のフライパンを煽られながら、横に立つ巨大な鎧の騎士へと視線を向けた。
「おい、タンク。お前、その大盾の上に乗ることはできるか?」
俺の問いかけに、レオンは怪訝そうに眉を寄せながらも、自らの背から巨大なミスリルの盾アイギスを下ろし、その頑強な表面を重厚な手甲で叩いた。
「このアイギスはドワーフの国で鍛え上げられた継ぎ目のない一枚板。私が上に乗った程度で軋むような代物ではありません。ですが、それがこの峡谷越えとどう繋がるというので……?」
「いいから、その大盾を地面に置いて上に乗れ。そして、そのまま俺の合図で、盾ごとこの崖に向かって飛び降りるんだ」
俺が淡々と告げたその言葉に、レオンは息を呑み、絶句した。
底の見えない奈落へ、重い金属の盾と共に飛び降りろというのだ。常識で考えれば、それは一切の生存確率を放棄した自殺命令以外の何物でもない。
「……身を、投げる、と?」
聖騎士としての教義において、自ら命を絶つ行為は神への最大の反逆とされる。レオンの分厚い胸の内で、長年培ってきた常識と、目の前の主君への絶対的な忠誠心が激しく衝突した。
(なんと恐ろしい命令か。だが、主様が意味のない無駄死にを私に強いるはずがない。王城であの防衛システムの極太の光線を跳ね返した時のように、私の目には見えない次元で、すべてが完璧に計算され尽くされているのだ。これは、私の覚悟を試しておられるのだ! 自らの命すらも、一片の疑いなく主に委ねられるかという、絶対の信頼の証明!)
レオンはギュッと目を閉じ、次の瞬間には迷いを完全に断ち切った、晴れやかなまでの猛将の顔つきになっていた。
「承知いたしました! このレオン、たとえ地獄の底であろうと、貴方様の御命とあらば喜んで飛び込んでみせましょう!」
彼はすぐさま大盾を崖の縁の地面に横たえ、自らの重厚な鎧ごとその上に仁王立ちになった。その顔には死への恐怖など微塵もなく、むしろ究極の使命を与えられた殉教者のような恍惚すら浮かんでいる。
(よし、足場兼ホバーボードの準備は整った。あとはこのNPCだな)
俺は背後に控えているシルフィアへと向き直った。
彼女は峡谷から吹き上げる凄まじい突風に銀色の髪を激しく乱しながらも、一歩も退かずに俺を見つめ返している。
「おいNPC。お前は俺から絶対に離れるなよ」
俺はそう言いながら、彼女の細い腰に片腕を回し、力強く俺の胸の中へと抱き寄せた。
「あっ……!」
シルフィアの口から、驚きと、そして甘い吐息が入り混じったような小さな声が漏れた。
俺の胸に押し当てられた彼女の身体が、ビクンと大きく跳ねる。暗殺者として鍛え抜かれた無駄のないしなやかな肉体は、今はただの一人の少女のように強張って、微かに震えていた。
(このゲームのパーティーメンバーは、一定距離離れると自動でプレイヤーの背後にワープする引き寄せ処理が働く。だが、この底なしの峡谷のような『特殊な即死エリア』の上空でその処理が発動した場合、座標計算がバグって空中にワープさせられ、そのまま落下死判定を食らう危険性が高い。だから、こうして物理的に密着して、システム上の座標を俺と完全に同化させておく必要がある)
俺にとっては、ただバグによる死を回避するための、純粋なシステム上の保護行動でしかなかった。
だが、腕の中に閉じ込められたシルフィアの心境は、まるで荒れ狂う峡谷の突風以上に激しく乱れ、甘い熱に焼き尽くされようとしていた。
(ああ……主様。またしても、貴方様は私をこうして、腕の中に包み込んでくださる)
シルフィアの耳元で、ドクン、ドクンという力強い鼓動が響いている。それはHP1という死の淵にありながらも、決して揺らぐことのない孤高の王の命の音だった。
彼女の顔はカッと熱く燃え上がり、自らの心臓が肋骨を突き破ってしまいそうなほどの早鐘を打っているのがわかった。暗殺者として、死地に向かう緊張感などとうの昔に克服していたはずだ。それなのに、主様の力強い腕に腰を抱かれ、その男らしい体温を直接肌で感じている今、彼女の理性は完全にメルトダウンを起こしていた。
(怖い。奈落に落ちることではなく、この幸せがいつか終わってしまうことが。ずっと、ずっとこのまま、主様の腕の中に閉じ込められていたい……!)
彼女はギュッと目を閉じ、俺の首に自らの両腕をしっかりと回し、その胸に顔を埋めた。彼女から漂う夜露のような微かな香りと、異常なほどに速くなった心拍の振動が、VRスーツのセンサーを通じて俺の現実の肉体にも生々しく伝わってくる。
(本当に、この触覚フィードバックの精度はどうなっているんだ。体温や匂い、脈拍の細かな乱れまで再現する必要なんて、ゲームのどこにある。ただのデータの塊だってわかっているのに……こんなに温かいなんて、まるでバグじゃないか)
俺は胸の奥に生じた名状しがたいノイズを無理やり思考の隅に追いやり、前方の虚空へと思考を集中させた。
「行くぞ、ジャンプだ!!」
俺の鋭い号令と共に、レオンが「うおおおおおっ!」という雄叫びを上げ、盾に乗ったまま峡谷の虚空へと勢いよく飛び出した。
重力に従い、凄まじい速度で奈落へと落ちていく白銀の騎士。
俺もシルフィアをしっかりと抱き抱えたまま、躊躇うことなく崖を蹴り、落下していくレオンの大盾に向かって跳躍した。
ヒュオォォォォォォォォォッ!!
谷底から吹き上げる凄まじい瘴気の暴風が、俺たちの身体を下から激しく打ち据える。
俺は空中で体勢を制御し、落下していくレオンの大盾のど真ん中、その極めて狭い面積の上に、シルフィアを抱えたまま完璧に着地した。
「ぬおおおおおっ! 主様、落ちます! このままでは落ちてしまいます!!」
レオンが風圧に顔を歪めながら絶叫する。
(ここだ。盾の落下速度のベクトルと、気流の押し上げ力のベクトルが完全に相殺されるコンマ一秒のタイミング。ここで、前方への回避行動、ローリングの入力を行う!)
俺はシルフィアを強く抱きしめたまま、盾の上で前方へ向かって回避モーションのコマンドを入力した。
その瞬間、ゲームの物理エンジンが完全に悲鳴を上げた。
盾を下へ引っ張る重力演算と、気流が上へ押し上げる環境演算が衝突している最中に、俺のキャラクターが前方へ強制移動しようとする回避モーションの処理が割り込んだ結果、システムは座標計算を放棄し、落下モーションを完全にフリーズさせたのだ。
ギュオォォォォォォォォンッ!!!!
「……な、なんだと!?」
レオンが驚愕に見開いた目の前で、俺たち三人を乗せた大盾は、重力を完全に無視し、まるで目に見えないレールの上を走るホバーボードのように、広大な嘆きの峡谷の空中を水平に猛スピードで滑空し始めた。
これこそが、特定条件下で発生する空中浮遊技、通称『シールド・グライドバグ』である。
「主様ッ……! これは、空を……我々は今、空を飛んでいるのですか!?」
レオンが盾の上で必死にバランスを取りながら、信じられないものを見る目で眼下の奈落を見下ろした。
彼の足元にある盾は、何もない虚空を滑り、魔王領へと向かう真っ直ぐな軌跡を描いている。
(ただの落下処理の停止エラーを利用した慣性移動だ。だが、これで面倒な橋掛けイベントを完全にスキップして、魔王領のド真ん中にダイレクトに着陸できる。タイムロスは大幅に削れたな)
俺は吹き荒れる暴風の中で、HP1の赤いオーラを彗星の尾のようにたなびかせながら、涼しい顔で彼方の暗黒の大陸を睨み据えていた。
俺の腕の中で、シルフィアは強烈な風圧に耐えながら、俺の首に回した腕の力をさらに強め、その熱い金色の瞳を俺の横顔にじっと注ぎ続けていた。
自らを抱き抱え、重力という世界の絶対法則すらも支配して空を飛翔するこの男。この腕の中こそが、彼女にとっての神殿であり、世界のすべてだった。
(ああ、主様。貴方様となら、このまま世界の果てまで……いいえ、神の玉座までだって飛んでいける。たとえこの先でいかなる地獄が待ち受けていようとも、私は貴方様の剣として、すべてを切り裂いてみせます……!)
狂信と恋情に完全に染まりきった暗殺者と、究極の信頼の果てに空を飛ぶ奇跡を体現した聖騎士。
そして、彼らの重すぎる生々しい感情を、ただのAIの優秀さと勘違いしようとしながらも、自らの腕の中に抱く少女の確かな温もりに、微かな愛着という名のバグを胸に抱き始めたRTA走者。
それぞれの思いを乗せた大盾は、禍々しい瘴気の雲を一直線に切り裂き、魔王の待つ漆黒の大地に向かって、隕石のような速度で突き進んでいくのだった。




