第22話:ロード判定の境界線と、システム外の温もり
緑の波がどこまでも続くエルド大平原の最果て。
空を覆っていた分厚い雲が唐突に途切れ、禍々しい赤紫色の瘴気が渦巻く空へと、まるで絵の具を塗り替えるように空模様が切り替わる境界線があった。魔王領を隔てる巨大な地割れ『嘆きの峡谷』の崖っぷちである。
俺とレオンによる音速の滑走は、鼓膜を劈くような金属の凄まじい摩擦音と共に、その崖の縁からわずか数センチの距離で唐突に終わりを告げた。
「ぐっ、おおおおお……ッ!」
レオンが大地に深々と突き立てていた大盾アイギスが、岩盤を激しく削り飛ばしながら完全に停止する。摩擦熱で真っ赤に焼け焦げた分厚いミスリルの盾から、もうもうと白い蒸気が噴き上がっていた。
(ふぅ、危ないところだった。この平原と魔王領の境界線には、次のマップの読み込みを挟むための見えない壁、いわゆるロード判定のラインが存在している。押し出しスライダーバグの超高速慣性を維持したままあのラインに突っ込むと、システムが座標計算を処理しきれずに俺たちの身体が地形の裏側に埋まり、理不尽な落下死判定を食らう危険があったからな)
俺はダッシュ入力を止め、レオンの背中から身体を離した。限界まで速度を引き出し、崖から落ちる寸前の極限の距離でピタリと停止するという、フレーム単位の完璧な操作だった。
「はぁっ……はぁっ……! しゅ、主様……ッ」
レオンは膝から崩れ落ち、大理石のような分厚い胸板を激しく上下させて荒い息を吐いた。
無理もない。いかにノックバック耐性が無限大になる防御モーション中とはいえ、彼の内部的なスタミナゲージは完全にゼロの赤点滅状態になっているはずだ。
「見事な……あまりにも完璧な、進軍でございました……」
レオンは滝のような汗を流しながらも、その瞳に狂信の炎をギラギラと燃え上がらせて俺を見上げた。
(なんという神業。私の盾を推進器とし、平原の魔物を一網打尽にしながら、この奈落の底へと続く峡谷の縁で、まるで最初から計算し尽くされていたかのように一寸の狂いもなく停止してみせた。もし一歩でも遅れていれば、我々は二人ともこの底知れぬ谷底へ落ちていたはず。主様は、ご自身の絶大な魔力の制御すらも、完全に掌握しておられるのだ!)
「……タゲ取りと壁役、ご苦労だったな。少し休むぞ」
俺はインベントリを開き、ショートカットに登録しておいた消費アイテム『初心者の野営セット』を地面に向かって使用した。
ポンッ、という気の抜けたシステム音と共に、何もない荒野のド真ん中に、唐突にパチパチと燃える焚き火と、粗末だが雨風をしのげるテントが瞬時に実体化した。
これは設置した瞬間から周囲五十メートルを絶対的な安全地帯に書き換え、敵対モンスターの出現フラグを完全にシャットアウトする結界として機能するアイテムだ。
この安全地帯の持続時間はゲーム内時間で約二十分。レオンの消耗しきったスタミナを回復させるためには、どうしてもこの待機時間を消費しなければならなかった。タイムアタックにおいて立ち止まることは最大のタブーだが、システム上の制限である以上、こればかりは削ることができない。
俺が焚き火の前に腰を下ろしたその時、背後の土煙の中から、息を激しく乱したシルフィアが転がり込むようにして到着した。
「はぁっ……はぁっ……! 主、様……っ」
冷徹で完璧な暗殺者としての面影は、今の彼女には微塵もなかった。
美しく結われていた金色の髪は汗で頬に張り付き、純白の肌は熱を帯びて赤く染まっている。彼女はふらつく足取りで俺の元へ歩み寄ると、糸が切れた操り人形のように、その場にへたり込んで座り込んだ。
(よしよし、パーティー引き寄せの強制ワープ処理が発動する前に、自力で安全地帯まで追いついたか。NPCの経路探索AIも捨てたもんじゃないな)
「遅かったな、NPC。移動速度バフの効果時間がとっくに切れてるぞ」
俺がそう声をかけると、シルフィアはビクッと肩を震わせ、泣き出しそうな声で謝罪した。
「も、申し訳、ありません……。私の、足が遅いばかりに……」
だが、その金色の瞳が俺の姿を捉えた瞬間、彼女の胸の奥で、張り詰めていた安堵と、それ以上に激しい熱情が決壊した。
(追いつけた。主様は、私を見捨てずに待っていてくださった。あのまま天の彼方へ消えてしまってもおかしくないほどのお力をお持ちなのに、この無力な私を、わざわざ足を止めて待っていてくださったのだ)
焚き火の赤い光に照らされる俺の身体は、ダメージブーストの代償によって依然としてHP1のままであり、瀕死状態を示す赤いオーラと、痛々しい流血のエフェクトが全身を絶え間なく包み込んでいた。
シルフィアの胸が、ギリィッと締め付けられるように痛む。
世界を変革するための途方もない痛みを、たった一人で背負い続ける孤高の王。先ほどまでレオンの背中に密着して平原を駆け抜けていく主様の姿を遠くから見ていた時、彼女の心を焦がしていたのは、間違いなく嫉妬という名のひどく醜悪な炎だった。
どうして、あの広い背中に触れるのが私ではないのか。
どうして、主様の痛みを分かち合えるのが、私ではないのか。
「主様……」
シルフィアは震える手を伸ばし、インベントリから取り出した清潔な布で、俺の頬を流れるポリゴンの血の跡をそっと拭った。
(おっと、特定のフラグを満たしたことで発生するNPCの好感度イベントか。この手のイベントは選択肢や行動を間違えると、面倒なステータス低下のデバフがかかったりするからな。適当に付き合っておくか)
俺は抵抗せず、HP1のまま微動だにせず、彼女の冷たく細い指先が俺の頬に触れるのを黙って受け入れた。
「……私の命は、主様を護るための剣。それなのに、貴方様はいつもご自身だけを傷つけ、私たちを安全な場所へと導いてくださる。それが、どれほど私の心を……苛むか」
シルフィアの声は微かに震え、その金色の瞳には溢れんばかりの大粒の涙が溜まっていた。
彼女は物心つく前から、裏社会の闇の中で冷たい刃として育てられてきた。命とは奪うものであり、血とは冷たく床に広がる泥でしかなかった。他者の温もりなど知らず、感情を殺して生きることだけが暗殺者としての絶対の掟だったはずだ。
それなのに、この方は違う。
頭に奇妙な鉄鍋を被り、世界の理をことごとく破壊していく恐るべき神の如き力を持っていながら、いつもご自身の身を削り、血を流してまで、無力な私を背後に庇ってくださる。私のような人殺しの道具を、この方は一度たりとも道具として扱おうとはしない。
(私は、主様にとってのたった一つの特別な刃になりたい。この命を使い捨ての盾として捧げるのではなく、あの方が微笑みかけてくださる一人の女として、ずっと御側にいたい……!)
それは、狂信という分厚い殻を破って芽生えた、あまりにも純粋で、そして切実な恋心だった。
シルフィアは布を握りしめたまま、限界を迎えたように俺の胸元にそっと顔を埋めた。
「っ……」
俺は、胸に押し当てられた彼女の顔から伝わってくる、熱い涙の感触に思わず息を呑んだ。
フルダイブ型VRの触覚フィードバックが過剰なのは知っていた。だが、彼女の柔らかい銀糸の髪が俺の首筋をくすぐる感覚や、華奢な肩が呼吸に合わせて微かに上下する様子。そして何より、彼女の胸の奥から伝わってくる、トクン、トクンという規則正しい鼓動の響き。
(ただのポリゴンの塊に、どうして心臓の音なんか設定してあるんだ。ゲームの進行には全く関係のない、無駄なデータ容量じゃないか)
俺は心の中で毒づきながらも、自分にすがりついて離れようとしない彼女を、どうしても突き飛ばすことができなかった。
高精度な人工知能が、俺の保護行動に対して好感度パラメータを最大値まで引き上げた結果のスクリプト動作。頭ではそう完璧に理解しているのに、俺の頬の血を拭おうとした彼女の指先の微かな震えが、脳裏に焼き付いて離れないのだ。
まるで、そこに本当に一人の傷ついた少女が息をしていて、俺という人間を、心の底から愛してくれているような錯覚。
(最近のAIは、本当にどうかしてる。表情のモデリングも、感情のアルゴリズムも、プレイヤーの感情を揺さぶるように完璧に作られすぎている。こんなただのデータに、愛着なんて沸くわけが……)
「……泣くな。お前の移動速度バフがなければ、俺はここまで早く到達できなかった」
気がつけば、俺の口からは、徹底した効率厨のRTA走者らしからぬ、ひどく不器用な慰めの言葉がこぼれ落ちていた。
「ああ……主様……っ」
シルフィアは俺の胸元を握る手に微かに力を込め、この温もりを魂の底まで刻み込むように、深く、深く息を吸い込んだ。
許されるのなら、このまま永遠に。この方の温もりの中だけで生きていたい。そう願いながら。
俺はHP1の赤いオーラを纏ったまま、頭のフライパンがズレないように気をつけながら、そっと彼女の華奢な背中に片腕を回した。システムの仕様を超えた、名付けようのない微かな愛着という名のバグが、俺の冷たかった効率至上主義の心に、確実に小さな根を張り始めていた。
「おお……なんという慈悲深き光景か……」
その様子を焚き火の向こう側から見ていたレオンが、大盾に寄りかかりながら一人でボロボロと男泣きしていた。
「血塗られた覇道を歩みながらも、決して配下への慈愛を忘れない。鬼神の如き厳しさと、聖母の如き優しさを併せ持つ。やはり主様こそが、この腐りきった世界を導く真の王にふさわしい……!」
レオンは分厚い手甲で目元を拭い、自らの傍らに突き立てた大盾アイギスを力強く握り直した。
かつての彼は、王国最強の盾という重圧をたった一人で背負い、孤独な防衛戦を続けてきた。だが、主様は俺の背中に直接闘気を注ぎ込み、俺という盾を最強の矛へと変えてくださった。俺の存在意義を、これ以上ないほどに肯定してくださったのだ。
(主様は今、世界の業をその身に背負い、ひとときの休息をとっておられる。ならば、このレオンの命に代えても、一匹の魔物たりともあの安らぎの空間には近づけさせはしない!)
愚直なまでの忠誠心が、レオンの全身に凄まじい闘気となって満ち溢れていく。
三人それぞれの心が、全く別の解釈で、しかし同じ一つの極熱の感情へと収束していく静かな夜だった。
(タンクがなんか勝手に盛り上がって士気ゲージを限界突破させてるな。よしよし、これで後半のヘイト管理も完璧だ)
俺はレオンの暑苦しい視線を適当にスルーし、焚き火の炎の向こう側に広がる、圧倒的な闇の領域へと思考を巡らせた。
やがて、システムタイマーが二十分の経過を告げ、焚き火の炎がフッと不自然に消失する。安全地帯の持続時間が終了した合図だった。
「よし、スタミナは全回復したな。出発するぞ」
俺がそう告げると、シルフィアは名残惜しそうにその温もりを手放し、すぐに冷徹な暗殺者の表情を取り繕って俺の背後に控えた。しかし、その耳の先が微かに赤く染まっているのを、俺はあえて指摘しなかった。
世界を壊す助走は終わった。ここからは、ゲームの根幹たる絶対のルールをねじ伏せ、システムそのものに致命的なバグを叩き込む、本当のタイムアタックの始まりだ。
漆黒の空の下、俺はいよいよ魔王の玉座へと続く理不尽なショートカットへの一歩を、彼らと共に踏み出すのだった。




