第2話:最速(バック走)の衝撃と、絶対防御のパン
「おい、NPC。暴れるな。バフの判定がズレるだろ」
俺は、最強の暗殺者少女シルフィアを脇に抱え、猛烈な速度で森を「後ろ向き」に爆走していた。
RTA走法において、前進よりも後退ジャンプの方が移動速度の加速限界が高い。これはこのクソゲーにおける物理演算のバグ……いや、仕様だ。
「……ッ!? な、なんなのですか、この速さは! 景色が、マナの奔流が後ろに溶けていく……!」
シルフィアは、俺の腕の中で目を回しながら絶叫していた。
彼女の視点では、俺たちが進んでいる方向は「死角」のはずだ。だが、俺の脳内マップには、壁抜けでショートカットした先の最短ルートが完璧に刻まれている。
「(この先のエリアは本来レベル50地帯。まともにエンカウントしたら即死だが、この『バック走』なら敵の検知範囲(索敵フラグ)がロードされる前に通り抜けられるはずだ)」
俺は頭の上のフライパンを微調整する。視界の上半分を遮る鉄の板。これがあるおかげで、このエリアの即死級モンスターたちが放つ「自動追尾型ヘッドショット」の判定はすべて無効化されている。
「お、来たな。エリアガーディアンか」
森の奥から、地響きと共に巨大な影が現れた。
『森の番人』。
樹齢千年を超える巨木が魔力を持った、レベル60のネームドモンスターだ。本来なら数日がかりの攻略パーティを組んで挑むべき絶望的な壁。
「ギ、ギガァァァァァァッ!!」
番人がその巨大な根を、槍のように俺たちへ突き出してきた。
「し、主様! 回避を! あれは因果を貫く一撃——」
シルフィアが悲鳴を上げる。
だが、俺は避けない。避ける動作(フレーム消費)すらもタイムロスだ。
チリンッ。
まただ。
番人の放った音速の刺突は、俺の頭上のフライパンに触れた瞬間、パチンと弾けるような音を立てて霧散した。
いや、違う。フライパンに当たった攻撃が「当たったこと自体をキャンセル」されたのだ。
「……え?」
シルフィアは、その瞬間を間近で目撃した。
本来なら、フライパンごと男の頭を粉砕しているはずの衝撃。しかし、あのお方は眉一つ動かさず、ただ頭に鉄ナベを乗せたまま、後ろ向きに走り続けている。
(……分かった。分かってしまった。あのお方が被っているあの黒き円盤は、物理的な盾ではない。あれは、『拒絶の理』そのものなのだ)
シルフィアの脳内で、急速に「深読み」が加速する。
(番人の一撃は、確かにあのお方の頭部へと到達していた。しかし、あの円盤に触れた瞬間、攻撃の『存在理由』が書き換えられたのだ。あのお方が被っているのは、神の理すら届かぬ『絶対不可侵の領域』……! ああ、なんという尊大で、孤独な構え……!)
「よし、今のノックバック(攻撃を受けた反動)を利用して、さらに加速。いいぞ、番人。ナイスアシストだ」
俺は独り言を呟きながら、番人の攻撃を受けた反動を、バック走の慣性に上乗せ(ダメージ加速)した。
加速はさらに増し、俺たちは森の最深部を、弾丸のような速度で逆走していく。
「……主様。あなたは、あえて敵の攻撃を誘い、その殺意すらも自らの『力』に変えたというのですか……?」
シルフィアの声には、もはや恐怖ではなく、狂信に近い敬畏が混じっていた。
「ああ? 効率がいいからな。被ダメ(ダメージを受けること)は加速のリソースだ」
(被ダメージは、加速のリソース……!)
シルフィアは震えた。
普通の人間にとって、傷つくことは死への恐怖だ。しかし、この男にとっては、世界の悪意ですら「自らを進めるための糧」に過ぎないというのか。
「お、出口が見えてきたな。……あー、やっぱり配置されてんのか、固定イベント(強制戦闘)」
森を抜ける唯一の関所に、重装甲を纏った兵士たちが立ち塞がっているのが見えた。
本来なら、ここで「通行証」を見せるか、隠密で通り抜ける必要がある。
「止まれ! 何者だ! 暗黒の森から後ろ向きに走ってくる不審者など——」
「(話しかけられると会話ウィンドウ(拘束時間)が発生するな。強引に『オブジェクト判定』で押し通るか)」
俺は立ち止まらず、懐から初期装備の「ひのきの棒」を取り出すと、それを進行方向の地面に突き立てた。
そして、その棒の先端に自分の足先を引っ掛けるようにしてジャンプする。
ガガガガガガッ!!
「な、なんだ!? 身体が震えている……!?」
シルフィアが驚愕する。俺と棒の当たり判定が重なり、物理演算がパニックを起こして俺の身体を「あり得ない方向」へ弾き飛ばそうとしている。
ズバァァァン!!
「不審者、確保——えっ!?」
兵士たちが武器を構える間もなく、俺たちは彼らの頭上を、まるで空間を飛び越えるようにして一気に飛び越した。
『ひのきの棒・ジャンプ(通称:棒高跳びバグ)』。
着地と同時に俺は、背後で呆然としている兵士たちには目もくれず、そのまま後ろ向きで坂道を下り始めた。
「……主様。今の、は……?」
「ただのショートカットだ。真面目に向き合ってたら日が暮れるからな」
(……真面目に向き合っていたら、日が暮れる。……そうか。主様が見ているのは、私たちが見ている『矮小な現実』ではないのだ)
シルフィアは、あのお方が頭にフライパンを乗せ、後ろ向きで走り続ける理由を、自分なりに結論づけた。
(前を見て走るということは、過去に縛られ、未来の不安に怯えるということ。しかし、あのお方はあえて『背後』を見ることで、すでに過ぎ去ったもの、終わったものを見据えている。そして、フライパンという『虚無』を被ることで、世界の一切の干渉を断ち切っている……)
「あのお方は……世界の『結末』だけを見ているのだ……」
シルフィアが涙を流しながら呟く。
俺はそんな彼女の顔を「(あ、こいつ酔ったかな? 乗り物酔いのデバフ入るとタイムロスなんだけどな)」と心配そうに見つめるだけだった。
「よし、もうすぐ最初の拠点(始まりの街)だ。あそこのショップにアイテム売って、まずは金策(ゴールド稼ぎ)から始めるぞ」
俺は「始まりの街」の門が見えてきたところで、頭のフライパンを鳴らして気合を入れた。




