第19話:無限後退跳躍と、重力からの解脱
欠けた茶碗のオーバーフローによって開かれた白銀の扉を抜けると、そこには天高くそびえる巨大な螺旋階段が待ち受けていた。
王城地下宝物庫から、王城の地上階層へと続く『試練の大階段』。
大理石で造られたその階段は、見上げるだけで目眩がしそうなほどの長さを誇り、頂上は霞んで見えない。
「主様、ここは王族の霊廟も兼ねた神聖なる階層。踏み入る者の魂の重さを量るため、一段登るごとに凄まじい重圧がのしかかる仕掛けとなっております」
シルフィアが階段の最下段を見つめながら、緊張した面持ちで短剣の柄を握り直す。
(この大階段、普通に登ると重力デバフがどんどん蓄積して歩行速度が極端に落ちるんだよな。頂上までまともに歩かされたら、優に二十分は無駄にすることになる)
俺はシルフィアの警告を聞き流しながら、階段の最下段に立ち、クルリと背を向けて階段に背中を向けた状態になった。
「主様? なぜ背を向けられるのですか。上はあちらですが……」
(斜面に対する当たり判定と、後方ジャンプの移動処理が同時に発生した時、このゲームの物理演算は一時的な速度計算のエラーを起こす。それをフレーム単位で連続入力すれば、マイナスの移動速度が無限に蓄積されていく)
俺は階段に背を向けたまま深くしゃがみ込み、後方へのジャンプボタンを連打し始めた。
タァンッ、という跳躍音が鳴る。
空中に浮いたコンマ一秒の瞬間に、俺はさらにジャンプ入力を重ねた。
着地判定が斜面に触れるか触れないかの極限のタイミングで、システムの処理を騙して跳躍を上書きしていく。
タンッ、タタンッ、タタタタタタタタタタッ!!
「……え?」
シルフィアの視界で、信じられない現象が起きた。
俺の身体が、階段に背を向けたしゃがみ姿勢のまま、空中で激しくブレ始めたのだ。
重なったジャンプの音声がバグを起こし、一つの濁音となって空間を震わせる。
俺の身体にはすでに、通常の移動限界を遥かに超える莫大なマイナスベクトル(後方への推進力)が溜まっていた。
(よし、速度蓄積カンスト。行くぞ!)
俺が最後のジャンプ入力を確定させた瞬間。
ギュオォォォォォォォォォォォンッ!!!!
俺の身体は、音の壁を突き破るような凄まじい衝撃波を撒き散らしながら、後ろ向きの姿勢のまま、巨大な螺旋階段を猛烈な速度で駆け上がっていった。
いや、駆け上がるという表現すら生ぬるい。大理石の階段の斜面を、摩擦を無視した砲弾のように滑り上がっているのだ。
「あ……あああ……っ!」
下に取り残されたシルフィアは、螺旋階段を凄まじい振動と共に昇っていく俺の残像を見上げて、その場にへたり込んだ。
(主様は……この大階段に敷かれた重圧の呪いを、完全に否定されたのだ!)
シルフィアの脳内で、俺のシュールすぎるバグ挙動が、またしても壮大な神話の1ページへと書き換えられていく。
(王族が定めた試練など、あの方にとっては一瞥の価値もない。ゆえに背を向けた。そして、大地を踏みしめることすら拒絶し、空を這うように昇っていく。現世の重力も、王の権威も、あの方の歩みを一ミリたりとも縛ることはできないのだ!)
あまりにも異次元な上昇。それは彼女の目には、肉体の制限を捨て去り、神の領域へと解脱していく絶対者の姿そのものだった。
「待っていては駄目だ……私も、あの方の影を追わなければ!」
シルフィアは震える足に鞭を打ち、俺のパーティーメンバー引き寄せ処理が発動する前に、自らの足で螺旋階段を駆け上がり始めた。暗殺者として鍛え上げた脚力を限界まで引き出し、重力デバフに血を吐きそうになりながらも、決して歩みを止めない。
(主様が切り拓いたこの無重力の軌跡……せめて私だけは、その意味を噛み締めながら登らねばならない!)
一方その頃、俺は大階段の頂上にある巨大な木製の扉に、音速を超えた後ろ向きのスピードで激突していた。
ズバァァァァァンッ!!
「よし、階段スキップ成功。タイムロスは三秒ってところか」
王城の地上階層。絢爛豪華な大回廊の赤い絨毯の上に、俺は無傷で(HP1のまま)着地した。
背後の木製の扉は、俺の多重衝突バグによる尋常ではない運動エネルギーをぶつけられ、蝶番ごと吹き飛んで粉々になっている。
俺がインベントリの整理をしながら数分待っていると、息も絶え絶えになったシルフィアが、階段の下から這うようにして到着した。
「はぁっ……はぁっ……主、様……」
「遅いぞNPC。まあいい、ここからがいよいよ本番だ」
俺は頭のフライパンの位置を直し、王城の煌びやかな大回廊を見据えた。
どこからともなく、重厚な金属の擦れる音が近づいてくる。王城の正規ルートを守護する、この国で最も強固な障害。
王国最強の盾との理不尽な遭遇戦が、ついに火蓋を切ろうとしていた。




