Episode8 おとぎ話の実現
冬の寒さも和らぎ、冷え切っていた大地や森にも、春の息吹が静かに近づいていた。
カルミアが育てている植物も、木々の枝先には淡い新芽が顔を覗かせている。まだ冷たさの残る春風が、次の季節の訪れを告げるように森を吹き抜けていた。
変わらない日常。
けれど、その中にはほんのわずかな期待と、不安が入り混じっていた。
「ねえ、トレニア……変、じゃないかな……?」
鏡の前に立ったカルミアは、落ち着かない様子でスカートの裾をつまんでいた。
淡い色合いの制服は身体にぴったりと合い、普段のロングコート姿とはまるで別人のようだ。
肩まで伸びた白銀の髪が制服によく映えている。
「とってもお似合いですよ! ご主人様!」
「えへへ……そう、かな。ありがとう」
トレニアの言葉に、思わず笑みがこぼれる。
今日から学園生活が始まる。……と言っても、ただ青春を楽しむために通うわけではない。
潜入調査。魔女として与えられた仕事なのだ。ちゃんと任務を果たさないと。
――まあ、それはさておき。新しい制服に新しい環境。そして初めて見る世界。胸が少しだけ高鳴る。
「あらぁ~! すっごく可愛いわぁ!」
「うへっ!?」
突然、背後から抱きつかれた。
「いつもの十倍……いや、百倍は可愛いわよ!」
「あ、アネモさん!? いつの間に……っ」
カルミアの頬が一瞬で赤くなる。
「もう、このまま連れて帰りたいくらいねぇ。ほら、ほっぺも可愛い……」
「や、やめてくださいぃ……!」
逃げようともがくカルミア。
その背後から、低く呆れた声が響いた。
「アネモ。世間話で時間を潰すほど、私は暇ではありませんよ」
「ロ、ロベリアさんまで……っ!?」
慌てて振り向く。
そこには腕を組んで立つロベリアの姿があった。
「あれ……? でも、扉は……」
「ああ。転移魔法だ。少々、気分が悪いがな」
ロベリアは僅かに眉をひそめ、こめかみを押さえる。
「ロベリアさん、意外と酔いやすい体質だったんですね~。まあ、私は平気ですけどっ!」
アネモは得意げに胸を張った。
転移魔法。移動は便利だが多くの魔力を消費するため、稀に魔力酔いを起こす人もいる。
そんな会話をしていると、遅れてトレニアが頭を下げた。
「デルフィニウム様、プランダ様。ペディランサス以来ですね!」
「あら~トレニアちゃん。やっぱり、いつ見てもメイド姿は最高ね!」
「ありがとうございます!」
トレニアとアネモが楽しくおしゃべりをしている一方で。カルミアは気まずい空気に取り残されていた。
「あの……今日は、どういった御用で……?」
「そう固くなるな。お前に、ある物を渡しに来た」
「……私に?」
ロベリアはカルミアの前まで歩み寄ると、ふっと腰を落とした。
そして、彼女の首元へ手を伸ばす。
「えっ?」
指先が首元に触れた瞬間、ひやりとした感触が走った。それを持ち上げると、胸元から現れたのは小さな黒紫色の魔石だった。
「これは……魔石ですか?」
「オハイさんと私で作った魔石の首飾りだ」
ロベリアは淡々と説明する。
「それにはアレと同じ魔法の術式を組み込んである。一度しか使えないが、自分の身の危険を感じたら躊躇なく発動させろ」
そして、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……私からの贈り物だ」
「――!」
思いもよらない言葉に、カルミアの胸がきゅっと締めつけられる。
「ロ、ロベリアさん……ありがとうございます……っ!」
首元へそっと手を添える。
深々と頭を下げるカルミア。その横から、アネモがにこにこと顔を覗き込んだ。
「私は手作りクッキーを持ってきたわよ! 移動中に一緒に食べましょう♪」
「はいっ!」
カルミアの顔がぱっと明るくなる。
ほどなくして、家の前には一台の馬車が用意された。革が軋む音。馬の鼻息。朝の静かな森に、普段とは違う音が響いている。
カルミアは馬車を見つめながら、そっと指を握りしめた。
これから始まる新しい生活への期待と不安。その両方が、胸の中で入り混じっていた。
「学園の近くまでは同行しますが、そこから先はご自身で向かって頂きます」
御者台から穏やかな声が降ってくる。
「は、はいっ……」
馬車の御者を務めるのは、アネモの使い魔――リヴィアだった。
いつ見ても気品のある立ち振る舞いと凛々しい姿に、カルミアは思わず見入ってしまう。
「じゃあ……行ってくるね」
そう言って、見送る二人へ小さく手を振った。同時に馬車がゆっくりと動き始める。カルミアとトレニアは、互いに見えなくなるまで手を振っていた。
「先に行ってしまいましたね。ところで――私たちの馬車は、いつ頃来るんでしょうか?」
「……お前、何言ってるんだ?」
「はい?」
トレニアは、ふと隣を見る。
「私たちの馬車は来ない。学園に行くのはカルミアだけだ」
「つまり、私はお留守番ですか?」
「当たり前だ。お前が学園へ行ったところで、大騒ぎになるだけ――」
「そんな! あんまりですっ!」
間髪入れず、冷酷な返答。
「私、命に代えてでもご主人様をお守りするって……決めているんです!」
必死に胸を張るトレニア。
しかしロベリアは、ちらりと一瞥を向けただけだった。
「寮生活にはなるが、休日には戻ってくるだろ。それまで、この埃くさい小屋でも念入りに掃除でもしてろ」
「寮生活!? 私、そんな話聞いてませんー!」
「だろうな。事前に話していたら、収拾がつかなくなる。よかったな」
「そんなぁぁぁ! ご主人様ぁぁぁ~っ!」
トレニアの叫びが、森中に響き渡った。
――その頃。馬車は静かに森の中を進んでいた。
柔らかな土を踏んでいた車輪の振動が消え、均等に敷かれた石畳の感触が馬車の床越しに伝わってくる。
「カルミア様。まもなく森を抜けます」
御者台から、リヴィアの穏やかな声が届く。
「この先は、セリオス共和国。国境の橋になります」
「……セリオス共和国」
その名を小さく口にしながら、カルミアは窓辺へ身を寄せた。
初めて足を踏み入れる国。ロベリアさんから聞いた話では、魔法が当たり前のように使われている国らしい。実際には、どんな場所なのだろう。
不安よりも先に、小さな期待が胸の中で膨らんでいく。
そして――。馬車が石畳の橋へ差し掛かった瞬間、視界が一気に開けた。
「……わぁ」
木々の隙間から漏れていた陽光が、遮るものなく湖面へ降り注いでいる。
青く澄んだ水面は光を反射し、まるで無数の宝石を散りばめたかのように輝いていた。
「ここはいつ見ても、綺麗な湖よねぇ~」
アネモが窓の外を眺めながら、お菓子をつまむ。カルミアも無言のまま同じ方向へ視線を向けた。
「ねえ、カルミアちゃん」
「はい?」
アネモが窓の向こうを指差す。
「湖の中央に、塀で囲まれた場所があるでしょう?」
「……あ、小さな島みたいな」
「そう。そこから天を衝くように伸びている、大きな鉄の塔」
湖の中央。石壁に囲まれた小さな陸地から、一本の巨大な鉄塔が空へ向かって伸びている。
「あれが、カトレア魔法学園を象徴する時計塔よ」
「この距離からでも見えるって……相当大きいんですね」
「ふふっ。驚くのはまだ早いわよ?」
アネモは楽しそうに笑った。
「そろそろ街に入るわ。カルミアちゃん、空を見ていて」
「空……?」
言われるまま、カルミアは顔を上げた。
「――っ」
その瞬間。
カルミアの目が、大きく見開かれた。
人が――飛んでいる。
「うまくできないよ!」
「こうやるんだよ!」
杖に跨り、自由に空を飛び交う人々。
目線を落とせば、重たい荷物をいくつも宙へ浮かせて運ぶ者。火属性魔法でかまどに火を灯す者。魔法を使って掃除をする者。
街の至る所で、当たり前のように魔法が使われている。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。
「――ここが、セリオス共和国」
魔法と人間が共存する国。
それは、カルミアが今まで知らなかった世界だった。
「すごいわよねぇ。魔法と人間が共存する国って」
アネモが嬉しそうに笑う。
「カルミアちゃん?」
呼ばれて振り向く。
アネモの表情が、驚きに変わった。
「ちょっと、どうして泣いてるの!?」
「え……?」
言われて初めて気づいた。カルミアの頬を、一筋の涙が伝っていた。
自分でも、なぜ泣いているのか分からない。
ただ――目の前に広がる光景を見ていると、胸の奥が熱くなる。
人々の笑い声。魔法の音。穏やかな暮らし。
かつて誰かが夢見たものが、確かにここにある。
「だ、大丈夫ですっ! なんでもないですっ……!」
カルミアは慌てて袖で涙を拭った。
けれど、胸の奥から湧き上がる感情は、消えなかった。
――この国では、魔法が脅威として恐れられていない。人々の暮らしを支えるものとして、当たり前に存在している。
まるで、誰かが描いた夢が、時を越えて形になったかのように。
◇ ◇ ◇
――よく聞きなさい、カルミア。
「なに、お父さん?」
幼い頃の記憶。
父は優しい声で、少し遠くを見るような目をしていた。
「魔法は、使い方次第で人を殺す脅威になる」
幼いカルミアは、黙って父を見つめる。
「でも反対に、人々の暮らしをより豊かにする希望にもなるんだ」
「暮らしを……?」
「ああ」
父は優しく微笑んだ。
「お父さんは、いつかそれを実現させるのが昔からの夢なんだ」
「お父さんの夢?」
「ああ――カルミア。いつかお前にも見せてやるからな。お父さんの夢を――約束だ」
◇ ◇ ◇
「……アネモさん」
「ん?」
カルミアは、もう一度だけ窓の外を見つめた。
そして小さく笑った。
「私……この街、とっても気に入りました」
「ふふっ」
アネモも嬉しそうに頷く。
「カルミアちゃんなら、そう言うと思ったわ」
馬車は賑やかな街並みの中を進んでいく。
カルミアは窓の外を眺めながら、胸の奥で静かに呟いた。
――ねぇ、お父さん。あの時の約束、ちゃんと果たせてるよ。
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