Episode12 第一の矢
――数ヶ月前。
激しい雨が、容赦なく街を叩きつけていた。
街外れの路地裏。石畳に溜まった水たまりが、逃げ惑う男の足元で次々と跳ねる。
男は壁に背を預け、荒い息を吐いていた。
高価な外套は雨を吸って重く垂れ下がり、震える指先からは、もはや貴族としての威厳など欠片も感じられない。
「誰か……誰か、助けてくれっ……!」
絞り出した声は、激しい雨音に呑まれて消えていく。
最近、貴族たちの間では、とある噂が囁かれていた。この街に《《愚者》》が潜んでいる、と。
これを耳にした一部の貴族は、胸の内で皮算用を始めていた。
男なら公開処刑にかければ、民衆の喝采と名声を得られる。女なら生かして捕らえればいい。奴隷として手元に置けば、さぞ面白いだろう。
下劣で短絡的で、救いようのない計画。
――だが。その計画は、始まる前に破綻した。
「どうして……どうして、どうして、どうしてっ!」
男は走る。振り返ることすらできない。
「まだ……まだ死にたくない……!」
喉を裂くような叫び。
その時だった。
視界の端を、鮮やかな青が横切った。
「(……なんだ今のは? 青い……蝶?)」
雨粒の中を、一羽の蝶が舞っている。
青く透き通った翅。その姿は、この土砂降りの夜にはあまりにも美しかった。男は一瞬だけ見惚れてしまう。
――だから、気づかなかった。すぐ耳元に声が届いたことに。
「そんな必死になっちゃって……何を怖がってるの?」
「――っ!?」
男の背筋を冷たいものが走った。驚きのあまり、足を取られ、その場で派手に転んでしまう。
しかし、男は痛がる素振りを見せる間もなく、後ろを確認する。そこには先ほどまで誰もいなかった場所に、一人の少女が立っていた。
黒い髪。赤い瞳。雨に濡れた身体。それでも、少女は楽しそうに笑っていた。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。それが、男の恐怖をさらに煽った。
「た、頼む……!」
男はその場に膝をついた。
「殺さないでくれ……! なんでも言うことを聞く! 金でも、地位でも……!」
「えー、どうしよっかなー」
少女は顎に指を当て、わざとらしく首を傾げる。
そして――。
「でも~……もう遅いと思うよ?」
「そ、そこをなんとか――」
「だってさ、おじさん」
少女は、にっこりと笑った。
「もう――死んでるから」
「……へ?」
どろり。
男の口から血が溢れた。
「……あ……?」
何が起きたのか理解できない。
震える手で胸元へ触れる。そこには一本の矢が深々と突き刺さっていた。心臓を、正確に貫いている。
「な……んで……」
男の身体がゆっくりと崩れ落ちる。雨音だけが妙に鮮明だった。そして男の意識は、その雨音の中へ沈んでいった。
「今回の依頼も、大したことなかったね」
「……えぇ」
少女の背後から、落ち着いた声が響く。雨の中を、ゆっくりと歩いてくる赤髪の男。
その表情に焦りも、罪悪感もない。
「自分を守る術を知らない貴族は、楽でいい。ただ……時々、虫のように逃げ回る連中もいるから、当たり外れはあるけどね」
「じゃあ、この男はハズレくじってことだね~」
少女は倒れた男の頭を、まるで慰めるように優しく撫でた。
「あーあ。可哀想に」
「依頼完了だ。報告書を出したら、今日は終わりにしよう」
赤髪の男――アザミ・フローレンスは空を見上げる。
「家に戻って、お風呂に入りたいな。雨のせいで全身びしょ濡れだ。身体も冷えてしまったよ」
「あっ! 先に言っておくけどー」
少女――ヒバナがぴっと指を立てる。
「ヒバナはアザミちゃんと一緒に、お風呂にはぜーったい入らないからねっ!」
「ちゃんと髪は洗えるのかい?」
「洗えるよ!」
「湯船に浸かる時は、まず身体にお湯をかけて――」
「だーかーらー!」
ヒバナが頬を膨らませる。
「子ども扱いしないでって、いつも言ってるじゃんっ!」
二人の声は、激しい雨の向こうへ遠ざかっていった。 そこに残されたのは一人の貴族の亡骸だけだった。
◇ ◇ ◇
「アザミちゃん、次入っていいよー……って、あれ?」
風呂上がりのヒバナが、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら首を傾げた。
「もう着替えたの?」
「僕は近くの温泉に行ってきたんだよ」
アザミは机へ腰を下ろしていた。
「君が出てくるのを待っていたら、確実に風邪をひくからね」
「なにそれ~!」
ヒバナは頬を膨らませる。
「一人だけ贅沢するんだ。ずっるーい!」
「温泉くらいで贅沢と言われてもね」
「むぅー」
ヒバナは不満そうに唸る。
そんな彼女を横目に、アザミは机の上へ置かれた一通の手紙へ視線を落とした。
「……ねえ。さっきから、ずっと真剣な顔してるけど。何を見てるの? 次の依頼?」
ヒバナが覗き込む。
「まあ……そんなところだね」
アザミは一瞬だけ視線を宙へ泳がせる。
「それと……少し、昔のことを思い出していた」
「へー」
ヒバナはそれ以上興味を示さなかった。大きく伸びをすると、踵を返す。
「じゃ、ヒバナは先に寝るね」
「もう寝るのかい?」
「アザミちゃんの昔話とか、聞くのウンザリだしー」
「はは……それは酷いな」
「はいはい、おやすみー」
パタン、と奥の扉が閉じる。
「……全く。あの子は誰に似たんだか」
独り言をこぼし、再び手紙へ目を落とす。そこには簡潔な要件だけが記されていた。
――カトレア魔法学園の潜入調査を依頼する。詳細は、学園理事長より直接説明する。
そして紙の裏には――依頼人の名と別件が、走り書きのように記されていた。
「……今回の依頼は、長くなりそうだな」
アザミは手紙を折りたたむ。そして、その夜は眠りについた。
――翌朝。アザミはヒバナへ依頼の概要を伝えると、二人で身支度を整え、セリオス共和国へ向けて家を出た。
目的地まで、馬車で三日ほど。二人は道中の宿で一泊を繰り返しながら、目的地を目指した。
そして、ついにカトレア魔法学園へ辿り着いた。アザミは校門の前で足を止める。
「ヒバナ。君はここで待っていなさい」
「えー。こんな息の荒いお馬さんと一緒にいろって言うの?」
「もちろん」
「ひっどーい! じゃあヒバナが、あんなことや、こんなことになっても良いっていうの?」
「……どこで覚えたんですか、そんな言葉。とにかく、ここまで待ってなさい。すぐに戻ってきますから」
ヒバナの抗議を背に、アザミは一人、学園の中へ入っていった。
幸い、手続きに問題はなかった。案内された先は理事長室。
「失礼します」
扉を開ける。
「初めまして、理事長――」
そこで言葉を切る。
室内にいた人物を見て、アザミは目を細めた。
「……いえ。こちらの方が正しいですね」
穏やかな笑みを浮かべる。
「お久しぶりです、オハイさん」
「久しぶりじゃな、アザミ」
理事長――アリイ・オハイは、懐かしそうに笑った。
「相変わらず、目を開けておるのか分からん男じゃのう」
「僕が細目なのは、昔からご存じでしょう」
アザミは苦笑する。
「オハイさんも、お変わりなさそうで」
二人は軽く挨拶を交わすと、来客用のソファへ腰を下ろした。
「早速ですが、具体的な内容をお聞かせ願えますか」
「そうじゃな」
オハイは一拍置いた。
「ここ最近、学園内で不可解な現象が続いておる。主に機密情報の紛失。備品の紛失、植物の異常な枯死。そして、失踪事件。今までこんな事はなかったんだがのう……」
「失踪事件の方は、騎士団に調査依頼は出さなかったんですか?」
「身内以外の調査依頼は出来ないと。個人情報の漏洩がなんちゃら……もう鬱陶しくてのう。だから、彼女に協力を要請したんじゃ。その結果……《《悪い未来》》が見えた、と返って来た」
「その彼女ってまさか……師匠の事、ですか?」
「理解が早いのう」
「未来の良し悪しは、師匠の十八番ですから。それはそうと……僕にはそれらの調査を、お願いしたいってことですね?」
「そういうことじゃ」
アザミはしばらく考えた。そして、すぐに口を開く。
「分かりました。でも、一つ良いですか?」
「なんじゃ?」
「学園内の情報であれば、ご自身の権限で調査された方が早いのでは?」
「ちと別件があってな。手が欲しかったんじゃ。それに――お前以外に、信用できる教員はおらん」
「……分かりました」
アザミは頷いた。
「僕らが責任をもって調査を行います」
「頼んだ」
オハイはそう言ってから、扉へ視線を向けた。
「そろそろ顔を見せてくれんか」
老獪な笑み。
「ヒバナよ。そこに居るのは分かっておるぞ」
「……えー」
気の抜けた声。次の瞬間――。
何もなかったはずの空間が、わずかに歪んだ。
ひらり。
まるで舞台袖から飛び出すように、一人の少女が姿を現した。
「なーんだ。あっさりバレちゃった」
黒い髪を揺らし、悪戯が失敗した子どものように肩をすくめる。
「驚かそうと思ってたのに」
「ヒバナ!?」
アザミが思わず声を荒らげる。
「外で待っていなさいと言っただろう!」
「だってさー、一人で待ってるなんて、つまらないじゃん」
「……全く」
ヒバナは悪びれもせず笑う。
「はっはっは!」
オハイが腹の底から笑った。
「その口調……アザミ、お前も昔から何一つ変わっておらんのう。ヒバナも大きくなったもんじゃ」
オハイは目を細めた。
「ワタシのことは覚えておらんと思うがのう」
こうして――。
カトレア魔法学園への潜入調査は、水面下で静かに動き始めた。
◇ ◇ ◇
――二か月が過ぎた頃。
ある日、学園内の教員全員へ、一つの通達が伝えられた。近日中、新たな編入生が学園へやって来る。名前は――カルミア・ジーニアス。
この名を聞いた時、アザミの表情は固まった。その名を持つ人間を彼は一人しか知らない。
これが手紙に記載された、もう一つの依頼でもあった。
そして――あの日の夜。彼は初めて目にした。
「は、初めまして。えっと……今日から編入して来ました。カルミア・ジーニアス、です」
「あー君でしたか! 初めまして。僕は生物学を担当している、アザミ・フローレンスです。よろしくお願いします」
アザミは何事もなかったかのように笑った。
「――あ、すみません長話してしまって。食事前ですよね、ごゆっくりお過ごし下さい」
守らなければ。それが、彼女のためなのか。それとも、遠い過去の約束のためなのか。僕はいずれ、大きな岐路に立たされるだろう。




