Episode12 第一の矢
激しい雨が、容赦なく街を叩きつけていた。
街外れの路地裏。石畳に溜まった水たまりが、貴族の足取りに合わせて跳ねる。
その男は、壁に背を預けるように身を隠し、荒い息を吐いていた。
高価な外套は雨に濡れて重く垂れ下がり、指先は恐怖で小刻みに震えている。
「誰か……誰か助けてくれ……!」
その声は、雨音にかき消されるように細く、情けなかった。
貴族たちの間では、ある噂が囁かれていた。特にこの街では、ただの噂では済まされないほど、具体的な目撃情報が積み重なっている。
1、赤い瞳を持つ黒髪の少女は、安寧へと導く。
2、黒い瞳を持つ赤髪の男は、裁きを下す。
3、それぞれの特徴を持つ二人組からは、決して逃れる事は出来ない。
それを聞いたある貴族は、社交の席でそう断じた。――奴らの正体は紛れもなく「愚者」だ、と。
――愚者。それは、魔女は本来、魔族と契約を結び、国と民を守る守護者として、その領土で静かに余生を過ごす存在だ。
ゆえに、最も忌み嫌われる禁忌は【死をもたらすこと】。たとえ相手が罪人であろうと、死刑人であろうと、魔女が直接、裁きを下すことは許されていない。
もし愚者であることが露見すれば、待っているのは即刻処刑。それほどの重罪だ。
この街に、その愚者が潜んでいる。そう知ったこの貴族は、胸の内で皮算用を弾いていた。
男は公開処刑にかけ、民衆の喝采と名声を得る。
女は生かし、奴隷として手元に置く。
――下劣で、短絡的で、救いようのない計画。だが、その計画は破綻した。
愚者は捕らえられるどころか、逆に男の前へと姿を現したのだ。恐怖に駆られた貴族は、背中も振り返らず逃げ出した。雨が降りしきる夜の街を、無我夢中で。
「どうして……どうしてどうしてどうしてっ! まだ……まだ死にたくない……」
喉を裂くような叫び。その時だった。
震える男の視界を、鮮やかな青が横切った。雨粒の中で淡く光る、一羽の蝶。不釣り合いなほど美しいその色に、男は一瞬だけ、現実を忘れて見惚れてしまう。
その耳元で、声がした。
「そんな必死になっちゃって、何を怖がってるの?」
ぞくり、と背筋が凍る。
瞬きを一つ。次の瞬間、目の前には、先ほどまでいなかったはずの少女が立っていた。黒い髪。赤い瞳。雨に濡れながらも、どこか楽しげな微笑み。
その表情は、まるで仮面のように感情が読めず、男の恐怖をさらに煽った。
「頼む……殺さないでくれ……! なんでも言うことを聞く……金でも、地位でも……!」
「えー、どうしよっかなー」
少女は顎に指を当て、わざとらしく首を傾げる。だが、次の言葉はあまりにもあっさりとしていた。
「でも~、もう遅いと思うよ?」
「そ、そこをなんとか――」
「だってさ、おじさん。もう――死んでるから」
「……へ?」
男の口から、どろりと血が溢れ落ちた。自分でも理解できないまま、視線をゆっくりと下げる。
胸元には一本の矢が深々と突き立ち、心臓を正確に貫いていた。周囲から血が溢れ、服にも滲み始めていた。その数秒後、男の意識は、雨音の中へと沈み――そのまま絶えた。
「今回の依頼も、大したことなかったね」
少女の背後から「えぇ」と落ち着いた声が返る。雨の中を、ゆっくりと歩み寄ってくる赤髪の男。その表情には、焦りも感慨もない。
「自分を守る術を知らない貴族は、楽で良い。ただ……時々、虫の様に逃げ回る連中もいるから、当たり外れはあるけどね」
「じゃあ、この男はハズレクジって事だね~。あーあ、可哀そー」
少女は亡骸の頭を優しく撫でる。
「依頼完了だ。報告書を出したら、今日は終わりにしよう。家に戻って、お風呂に入りたいな。雨のせいで、全身びしょ濡れ、身体も冷えてしまったよ」
「先に言っておくけどー、ヒバナはアザミちゃんと一緒に、お風呂にはぜーったいに入らないからねっ!」
「ちゃんと髪は洗えるのかい? 湯船に浸かる時は、まずは身体にお湯をかけて――」
「だーかーらー! 子ども扱いしないでって、いつも言ってるじゃんっ!」
二人の声は、雨音に溶けて遠ざかっていった。
そして――彼らは、何事もなかったかのように家へ戻った。
◇ ◇ ◇
「アザミちゃん、次入っていいよー……って、あれ? もう着替えたの?」
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、ヒバナが首を傾げる。
「僕は近くの温泉に行ってきたんだよ。君が出てくるのを待っていたら、確実に風邪をひくからね」
「なにそれ~。一人だけ贅沢するんだ、ずっるーい!」
頬を膨らませるヒバナをよそに、アザミは机に腰を下ろした。手には一通の手紙を持っていた。指先は紙の縁を押さえ、視線はすでに一通の手紙に落ちている。
「……ねえ。さっきから、ずっと真剣な顔してるけど、何を見てるの? 次の依頼?」
「まあ……そんなところだね」
アザミは一瞬だけ、視線を宙に泳がせた。
「それと……少し、昔のことを思い出していた」
「へー」
ヒバナは興味なさそうに、背伸びをすると、踵を返す。
「じゃ、ヒバナは先に寝るから。アザミちゃんの馴れ初め話とか、聞くのウンザリだしー」
「はは……それは酷いな」
「はいはい、おやすみー」
パタン、と軽い音を立てて扉が閉まる。
「……全く。あの子は誰に似たんだか」
誰にともなく呟き、アザミは再び手紙へと視線を戻した。そこには、簡潔な要件が記されている。【カトレア魔法学園の潜入調査を依頼する。詳細は、学園理事長より直接説明する】とだけ。紙の裏には、走り書きのような追記があった。それは依頼人の名前だった。
「今回の依頼は、長くなりそうだな」
アザミは部屋の灯りを消し、自室へと戻り、その日は深い眠りについた。
翌朝には、ヒバナに簡単な内容を伝え、身支度を整えると、セリオス共和国を目指し家を出た。移動は馬車で三日程の距離。道中は宿で一泊を繰り返し、目的地のカトレア魔法学園に着いた。
アザミはヒバナに「ここで待っていなさい」と一言を残し、学園の中へと進んだ。手紙には「臨時教員と言えば問題ない」と書かれていた。ここは問題なく、理事長室へと案内された。
「失礼します。初めまして理事長……いえ、こちらの方が正しいですね。お久しぶりです、アリイ・オハイさん」
「久しぶりじゃな、アザミ。相変わらず、目を開けてるのか分からん男じゃな」
「僕が細目なのは、昔から知っているでしょう……オハイさんも、お変わりなさそうで」
アザミとオハイは軽い挨拶を済ますと、二人は来客用のソファーに腰を下ろした。
「早速ですが、具体的な内容を、お聞かせ願えますか」
オハイは一拍置いてから話始めた。
「つい最近、訳あって学園から追放処分となった教員がおってな。アイツは妙な行動が多く……担当していた園芸部門で何をしていたのか。他に関係者がおらんか、調べてほしい」
「……それは、あなたが立場を利用すれば簡単な事だと思います。ですが、それが出来ないのには理由があるのですね」
オハイの表情は曇りを見せた。そして声が、わずかに低くなる。
「どうにも、この学園には……悪い未来が訪れるそうじゃ」
「それが……師匠からの伝言、いや予言ですか」
アザミは間を置く前に、即座に判断した。
「オハイさん。しばらく身を隠された方が良い。あなた彼らに目を付けられています」
「来月には故郷へ戻ると伝えておる。だから、お前を呼んだ」
「分かりました、僕らが責任をもって調査を行います」
「頼んだ。それと……紹介しておきたい子がおる。入ってくれ」
オハイが声を掛けると、扉が静かに開いた。
「失礼します」
現れた女性は、年若く見えるにもかかわらず、足音ひとつ立てずに部屋へと入ってきた。
背筋は淀みなく伸び、歩みは柔らかく、しかし寸分の無駄もない。呼吸は静かに整えられ、その存在は空気に溶け込むようでいて、確かな輪郭を持っていた。所作も研ぎ澄まされたものだった。
「この子の名は、サーベラス。門番と事務仕事を任せておる」
「お初にお目にかかります。以後、お見知りおきください」
「ワタシが不在の間、この子を自由に使ってくれ」
さらりと言われたその一言は、信頼というより、任せられるだけの力があるという前提を含んでいた。
そしてオハイは、ふと視線を部屋の隅へと向ける。
老獪な笑みを浮かべ、目を細めた。
「そろそろ顔を見せてくれんか。ヒバナよ。そこに居るのは分かっておる」
「……えー」
気の抜けた声と同時に、空気がわずかに歪んだ。何もなかったはずの場所に、揺らぎが生じる。
次の瞬間。ひらり、と。まるで舞台袖から飛び出すように、少女が姿を現した。
「なーんだ。あっさりバレちゃった」
黒い髪を揺らし、悪戯が失敗した子どものように肩をすくめる。
「せっかくのドッキリだったのにさー」
「ヒバナ!?」
アザミが思わず声を荒げる。
「外で待っていなさいと言っただろう……全く」
「えー、だってさー。一人で待っているなんて、つまらないじゃん」
反省の色は微塵もない。
「はっはっは」
オハイは、腹の底から愉快そうに笑った。
「その口調……アザミ、昔から、何一つ変わっておらんのう」
懐かしむような声音。
それは叱責ではなく、すべて承知の上での黙認だった。サーベラスは何も言わず、ただ静かにその光景を見守っている。
「ヒバナも大きくなったもんじゃ。ワタシの事は覚えておらんと、思うがのう。はっはっは」
――こうして、学園への潜入調査は、水面下で静かに動き出した。
夜の学園では、ヒバナが影のように歩いた。足跡を残さず、気配を殺し、学園そのものの呼吸をなぞるように調査を進めていく。
一方、昼の学園では、アザミが教師としてそこに在った。教員と生徒、その距離感や歪みを丁寧に掬い取り、関係性という名の地図を描いていく。
そうして、小さい情報を確実に掴む日々が、淡々と積み重なっていく。
二か月が過ぎた頃。学園に一人の編入生がやって来ると教員全員に伝えられた。担任以外は、それ以上の情報を得る事は出来なかった。
そして、その日の夜。学生寮の静寂を裂くように、小さな衝突が起きた。
「いたっ……ごめんなさい」
「チッ! 邪魔なんだよメスが!」
生徒同士の喧嘩だった。相手は二年生の女子生徒と、三年の男子生徒。
「……だから、ごめんなさいって謝ったでしょ」
「口の利き方がなっていないな。俺様はエーヴェルハルト家の長男だぞ? 分かってんのか?」
空気が張りつめる中、一部始終を目撃していたアザミは咄嗟に身を出した。
「こら、君たち。喧嘩はやめなさい」
「フローレンス先生っ!」
「周りも見ていますよ。それに……」
アザミは冷たい視線でエーヴェルハルトを睨んだ。
するとエーヴェルハルトは、一瞬だけ顔を合わせるも、即座に視線を逸らす。
「……クソがっ。覚えておけよ!」
捨て台詞を吐き、エーヴェルハルトは去って行った。
彼は、ルクスティア王国の貴族、エーヴェルハルト家の長男。他の教員たちから聞いていた反応とは違っていた。もしかすると……彼は僕の正体に気づいた可能性がある。
「ええ……フローレンス先生も、ありがとうございます」
「いえ、僕は別に大したことはしていませんよ。怪我が無くてよかったです、アイリスくん、それと……」
アザミはアイリスの隣にやってきた少女に目を向ける。この学園では見ない子だな。恐らく、彼女が編入生だろう。
「は、初めまして。カルミア・ジーニアス、です」
その名前を聞いて、アザミは驚いた。
ジーニアス、その性を持つ名を、彼は一人しか知らない。だが、その名は世界から消された。もしかして、彼女が……君が言っていた、少女なのか。
「あー編入生の! 初めまして、僕は生物学の担当をしています、アザミ・フローレンスです。よろしくお願いします」
「はいっ!」
「それにしても、困りましたね。ほぼ毎日の様に問題を起こして、身分を盾にするなんて……」
「……?」
「カルミアくん。この学園は身分で左右されない場所です。まあ、それが貴族にとっては、不満なのでしょう……」
アザミは一言だけを残し、その場を去った。
僕は貴族の連中からすれば、天敵でもあり、脅威。しかし、同時に憎悪を多く買っている。エーヴェルハルト家は僕が殺した貴族の中でも、最も新しい。正体を知られた以上、間違いなく復讐をしてくる。
彼女を巻き込むわけにはいかない。
なんとしても、彼女、カルミアくんを守らななければ。
この変数が時間を加速させた。後に、アイリスから初日の出来事を聞いた。アザミが一点見落としていた場所が、全ての鍵となった。
――ラクバクソウ。自己防衛機構を備えた植物が、学園の植物園に植えられていた。
「ただの植物園だと思い、調査を行っていなかったが……まさかこんなモノがあったとは」
アザミは実物を前に、思考を巡らせる。
植物園内の一角、何かの外周に近い区域だけを選ぶように植えられている。まるで――外からの侵入を拒むための壁だ。
偶然にしては、出来すぎている。前任者は、ただ植物を育てていたわけではない。その先に、隠すべき何かがある。
だが、目立つ行動はリスクが大きい。かといって、刺激すれば即座に反応する自己防衛植物を前に、二人だけで踏み込むのは無謀だ。作戦を練る必要がある。慎重に。確実に。
次にアザミは、カルミアとの接触を試みることにした。
それは調査のため――そして、もう一つ、個人的な理由からでもあった。
方法は単純だ。大量の資料を抱え、あたかも不注意でぶつかったかのように見せる。それだけで、会話のきっかけは生まれる。偶然を装うには、十分すぎるほどありふれた手段だった。
廊下の向こうから、カルミアとアイリスが並んで歩いてくる。
二人きり。周囲に人影もない。状況は整っていた。
――あまりにも、簡単すぎるほどに。
アザミは歩調をわずかにずらし、抱えた資料の束を調整する。狙いは、完璧な失敗。誰も疑わず、誰も傷つかない、ただの偶然。
そうして彼は、一歩、廊下へ踏み出した。
物事が進む中で、アイリスはアザミに問いかけた。
「それにしても……すごい量ですね」
「アイリスくん、気になりますか?」
「……拾っている時に、少しだけ目に入って。植物の資料ばかりだったので」
「見られてしまったなら仕方ありませんね。実は……園芸部門の顧問でありながら、僕は植物の知識に疎くて……空いた時間に、こうして勉強しているんです」
「てっきり……顧問の先生って、みんな専門家だと思ってました」
「あはは。まあ僕は、穴埋めみたいな存在ですからね」
そう答えながら、アザミは曖昧な笑みを崩さなかった。
それ以上踏み込まれないための、ちょうどいい距離。ちょうどいい嘘。
――僕は、教師ではない。
この学園に来た理由は、あくまでも潜入調査だ。教壇に立つこの身分も、信頼を得るための仮初の役割に過ぎない。
二人が部室を後にしたあと、アザミは机に残された資料へ視線を落とした。
植物の生態、購入履歴――ページをめくるたびに、違和感は確信へと近づいていく。
「僕は引き続き、ラクバクソウの生態を調べます。ヒバナは学生寮に戻ってください」
「アザミちゃ――じゃなかった。アザミせんせー、必死になりすぎ。息抜きも必要だと思うけどなー」
軽い調子の言葉に、アザミは手を止めることなく答えた。
「あまり時間が無いんだ。満月の夜までに、なんとしても情報を集めなければならない」
「……あっそ」
それ以上、ヒバナは何も言わなかった。
けれど、その背中にはわずかな不満と、理解が混じった色が滲んでいた。
そして、その日の夜。二人は、再び合流する。
「必要な情報は、すでにそれなりに集まっています。僕たちも準備が必要です」
「……あのさ。なんでこんな依頼、引き受けたの? これ、ヒバナたちの仕事じゃないでしょ~?」
一瞬だけ、フローレンスの視線が遠くなる。
「古い友人からの頼みだからね……断れなかった。それだけですよ。もっとも、大きな貸しは出来たけどね」
「ふーん……」
◇ ◇ ◇
満月の夜。街の灯りから少し外れた古本屋の奥で、アザミは依頼人と向かい合っていた。埃の匂いと古紙の手触りが、静けさをより際立たせている。
必要な情報は、すでに揃っている。学園内で確認された異変、園芸部門に残された痕跡、そして――表に出ていない兆し。
短いやり取りの末、二人は一つの結論に辿り着いた。
「相手の動きに合わせて、計画の相殺を狙う。僕は屋上から、彼女のサポートをする」
「私は上手い事、あの子を誘導すればいいのか。依頼人に仕事をさせるとは……昔から人を巻き込むのが得なようだな」
選ばれたのは、学園の行事のひとつ――特別講義の日。
外部から講師が招かれ、多くの来客が出入りする。相手も学園に侵入するには、この日を狙ってくると予想している。すでに、盤面は整っていた。
――そして迎えた、特別講義当日。運命の鐘の音が学園中に響き渡る。
それは非常時の合図でありながら、同時に――計画実行の合図でもあった。誰もが、それぞれの立場で動き出す中、学園の屋上には、生徒でも教員でもない視線が、静かにその様子を見下ろしていた。
「……なるほど」
低く、楽しげな声が漏れる。
「ここまで仕込んでいたとはな……実に面白いっ!」
影の中で、誰かが口元を歪めた。
その瞳が確かに舞台を捉える。表と裏が交わるとき、それは思いもよらない運命へと足を運ぶことになる。
「いいだろう。貴様らがどう動くのか――お手並み拝見と、いこうじゃないか」




