6話 アトリエ
アトリエに着くと、ベックは一室の扉を開けて天井を指さした。
「ほらね。ぼんやり空眺めたい時はいいけど、大雨が降った時は結構大変なのよね。この扉の隙間にタオルとか詰めたりしてさ」
ケラケラと笑ったベックは、紙袋を小さな卓の上に置くと、「珈琲でいい?」と壁際の小ぶりなキッチンに向かった。
ワカバは言われるままにソファに座り、部屋を見回した。
家具は極端に少ない。それでも、筆や絵の具や、他にもワカバには判らないあらゆる道具が並べられたり、棚に収められていた。
いくつかのキャンバスが壁に立てかけられている。
ソファの正面には部屋を横切るようにカーテンが引かれ、その奥に部屋があるのだと、めくれた端から見える薄暗がりで判る。
ワカバはそっと歩み寄ると、カーテンの中を覗き込んだ。
暗い部屋は、窓からの月の光に照らされている。
壁に吊るされた大きなキャンバスに、色が溢れていた。
パチリと音を立てて部屋に灯りが点った。
キャンバスの中の色彩が鮮やかさを取り戻す。
「今その絵で悩んでるの」
「え、これで完成じゃないの?」
ベックは目を瞬いてから、ふっと笑った。
「そうなのよねぇ。完成したように見えるかもだけど、俺にとってはまだあと一つ何かが足りない。それを模索中。最初に考えてたイメージとは離れていっちゃってさぁ」
ベックはマグカップのひとつをワカバに手渡すと、鞄から取り出したスケッチブックを手にキャンバスの前に置かれた椅子に腰掛けた。マグカップを床に置き、パラパラとスケッチブックを捲る。
その隣にしゃがみ込んだワカバは、そっとベックを見やってから、言った。
「あの……ごめんなさい」
一拍遅れてワカバを見たベックが、首を傾げる。
「え、何が?」
「完成してるって決めつけたこと。私だって、研究途中にそれで完成だって言われたら嫌だもの。勿論、研究に関しては判りやすい結果があるものだけど、自分の中で課題がある内に『それで十分』って言われたら嫌だし」
目を瞬いたベックは、ふぅんと唸った。
「研究ってことは、ワカバは研究者……それか技術屋さんか」
「……あっ」
口を噤んだワカバに、ベックは口を尖らせると、何事もなかったかのように再びスケッチブックを捲り始めた。
「まだ模索中の〝何か〟を見つける為に、今日は色々と見て回ってたの。スケッチだけのつもりだったのが、つい色なんかも付けちゃったりして」
パラパラと捲られる絵に目を落としたワカバは、感嘆の声を上げた。どれも生き生きとして、まるですぐ目の前で動き出しそうだったからだ。
「すごいね……。私は芸術にはあまり詳しくないんだけど……でも、それでも何というか、力を感じるっていうか。って、芸術が判ってない私に言われても意味ないか」
しょんぼりとするワカバにクスリと笑ったベックは、鉛筆を取り上げると、空いたページに何やら鉛筆を走らせ始めた。
「んーん。褒めて貰えて嬉しいよ。どんな絵だって、見る者を拒んだり、選んだりしないものだって俺は思ってる。だから、ワカバが『すごい』って思ってくれたなら、これは凄い絵。そんな風に描けて俺も嬉しい。──ほら、出来た」
ベックはスケッチブックを掲げて見せると、その横から顔を覗かせた。
「どう?」
空いたページに描かれた絵を見たワカバは、驚きに目を見開いた。
「わ、私だ……!」
そこには繊細なタッチでワカバの姿が描かれていた。
「すごい……こんなに短時間で?」
「まぁ、スケッチだし」
ふふ、と笑ったベックは、床からマグカップを取り上げると、旨そうに珈琲を飲んだ。何かを探すようにスケッチブックに目を落とし、突然パッと顔を上げる。
「あ、そうだ。パンも食べようよ。ザリーの所のパンはかなーり美味しいんだから」
いそいそと紙袋を取りに行ったベックは、紙袋を開いて「どれがいい?」とワカバに訊いた。
中にはシンプルなものから、果物を使ったもの、凝った細工のパンが詰められていた。しかし、それのどれもが少しずつ不格好だった。
ワカバと同じように紙袋の中を覗きながら、ベックが鼻歌混じりに言う。
「昔、ザリーの店の看板とか内装に絵を描いたことがあってね。それからこうやって売るにはちょっとっていうパンを分けてくれてるんだ。此処らに住んでる奴等はパンの見た目なんて気にする奴らは居ないと思うけど……。ザリー達の矜持なんだってさ。まぁ、こうやって俺に分けてくれる為の口実みたいなもんだと思ってる。あ、このシナモンのパンはすっごい美味しいよ。え、食べない? シナモン嫌い? 気遣ってるの? ──じゃあ」
ベックはシナモンパンを半分に割ると、ワカバに差し出した。
「半分こ」
差し出されたパンを手に取ったワカバは、何処か温かい気持ちになって微笑んだ。その様子に、ベックが釣られたように笑う。
「はぁ、それにしても驚いたぁ。この辺りは危険地区だって知られてるから、よっぽどのことがなければ女の子一人で歩いてたりしないよ。チェリィみたいに顔が知れ渡ってたら一人で歩いてても、まぁって感じだけど。ま、何事もなくてよかったけどね。ああいう奴等には関わらないのが一番。俺も腕を折られる訳にいかなかったし。〝何か〟を諦めきれなくて、水の入ったバケツ持ってフラフラしててよかった」
ベックは手を開いたり閉じたりして見せる。
「腕……そうだね。絵描きは腕を大切にしなきゃだもの」
「まぁ、いざとなったら口なり足の指なりで筆を持って描くつもりだけど──」
口を尖らせたり、足を持ち上げて見せたベックは、ワカバの顔を見て目を見開いた。慌てたように体を揺らす。
「あれっ、ごめん。もっと格好良く助ければ良かったかな。あれだよ、勿論、人命の方が大切で、だけど俺にとっては腕が大切で。あそこで争うよりも逃げた方がいいっていうか……というか俺で敵うかな。いや、一応筋肉ってものはある訳だし」
ベックの様子に、自身が泣いていることを知ったワカバは、堪え切れなくなった。涙はボロボロと零れ出す。
「ごめん……あの時怖かったなって思ったら急に涙が出てきたみたい。あんなこと……初めてで」
ベックは近くの小棚からタオルを取り出すと、ワカバの前に差し出した。ちゃんと洗ったやつだから、と付け加える。
「こっちこそ、ごめん。あんなことあって平気な子が居る訳ないもんね」
ベックはワカバに伸ばした手を途中で止め、代わりに紙袋を持ち上げた。
「こういう時は甘いもの。この果物が乗ってるのはチェリィスペシャルっていって、中にクリームが入ってるの。美味しいよぉ」
明るく言うベックに、ワカバはクスリと笑った。涙を拭い、手を差し出して首を傾げる。
「じゃあ、半分こ。だね?」
チェリィスペシャルを手にしたベックが、目を瞬いてから笑う。
「そうね。半分こ」
半分こにしたチェリィスペシャルは、甘くて、少しだけ酸っぱくて、それでも幸せな甘みがいつまでも残るような味だった。
目を覚ましたワカバは、天井を見つめながら眉根を寄せた。
──いやいやいや……。
あまりのことに流されてしまっていたが、これは重大な過去への干渉だ。
そう考えて、その考えを頭の隅に押しやる。
行くべき場所も、戻る場所もない。いや、戻るならば〝現在〟だ。しかし、それはワカバ一人では成すことが出来ない。
干渉すべきではない、という思いに囚われて、今何が出来るのかを考えられないのは好ましくない。
ひとつ息を吐いてから体を起こしたワカバは、ソファで眠っていたことに気が付いた。
──確か、昨日はベックと遅くまで話してて、それで……。
ワカバがソファから下りると同時に、ベックがアトリエのカーテンを捲って部屋に入って来ると、笑顔を向けた。
「おはよー」
しかし、ワカバはすぐに返事を出来なかった。
「ベック……その顔」
「顔?」
のろのろと鏡の前に立ったベックは、「ああ」と怠そうにしながら言った。
「昨日はワカバが寝た後に閃いちゃってさぁ。さっきまで描いてたの。絵を描く時は大体こうだから気にしないで」
そう言いながら、ふぁと欠伸をして、湯を沸かす。ガリガリと頭を掻いて、おまけ程度の大きさの冷蔵庫を開けた。
「朝ごはん……パンの残りがあるか。それでいい?」
「あ、う、うん……」
ベックは紙袋からパンを取り出すと皿に移し、ワカバの前に置いた。
「珈琲は牛乳入れたかったら冷蔵庫にあるよ。お砂糖も」
ふらふらと部屋を行き来しながら、ベックは欠伸を繰り返す。
「あの……寝た方がいいんじゃない?」
ワカバの言葉に、ぴた、と足を止めたベックは、その場で小さく頷いた。
「確かに。寝よう」
そう言って、部屋の隅に丸まっていた毛布を取り上げると、それにくるまるように床に横になった。
戸惑うワカバの前で、ベックは寝息を立て始める。
唖然としてその様子を見つめていたワカバは、ハッとして立ち上がった。
「え、ちょっと……床で寝るなんて体に悪いよ」
そう言いながら、自身もよく机で突っ伏して寝ていたことを思い出したワカバは、ふるふると頭を振り、ベックの肩を揺すった。
ぼんやりと思い出していた。
昨夜、アトリエで寝入ってしまったワカバを、ベックはソファへと運んでくれたのだった。あまりの眠さにされるがままにしていたが、思い出してみて恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じていた。
ベックはどれだけ揺すっても起きなかった。
ワカバは眠るベックの体をソファの側まで引きずった。上背はあるが、随分と細身のせいか、ワカバの腕でもずるずると引きずることが出来た。後はソファの上に持ち上げるだけ、という段階で寝返りのようなものを打ったベックがワカバの足の上に頭を落ち着けると、気持ちよさそうに鼻を鳴らし、再び寝息を立て始めた。
「……あの、えーと」
硬直していたワカバは、ベックの寝顔を見る内、何処かこそばゆい気持ちになって、ベックの体に毛布を巻き付け直した。卓の上のマグカップを取り上げ、程よい温度になった珈琲を飲む。
じんわりと苦みが広がって、気分が落ち着いていく。
カーテンの掛けられていない窓から、朝日が町を照らしているが見えた。
見覚えがあって、でも何処か馴染みのない町。
自身が置かれた状況に、ワカバはふいに笑い声を漏らした。
子供時代の婚約者と生活を共にし、彼を残して家を出て来たというのに、今度は見知らぬ男のアトリエに居る。しかも、何故か膝枕までしている。
ベックはまるで子供のような顔で眠っていた。
──有り得ないことばっかり。
あまりに考えられないことの数々に、ワカバは声を殺して暫し笑った。
うっすらと滲む涙を拭い、だいぶ高く昇った朝日を見やる。
生きていかねば。一体、どれくらい此処に居るのかは、判らないけれど。




