第二章 公爵家の離れにて
「……それで、今夜もこちらにいらっしゃるのですか?」
甘い声が、夕暮れの離れに響いた。
「もちろんだよ、クラリス。君に会いたくて仕方がなかった」
ヴィクトルは、目の前の少女の手を取った。
クラリス・フォン・ベルンシュタイン。
伯爵家の令嬢であり、現在は公爵夫人のもとで行儀見習いとして働いている。
年齢は十八歳。
儚げな顔立ちと、潤んだ瞳。
清楚な印象のある顔立ちに似合わずスタイルはいいものの、どこか自信なさな態度で地味な印象のおとなしい令嬢。
――というのが、社交界での評判だった。
「でも……アリシア様に申し訳ありませんわ」
クラリスは、そう言いながらもヴィクトルの肩に頭をそっと寄せる。
その豊満な胸が、ヴィクトルの逞しい腕にあたりやや変形する。
ヴィクトルはその柔らかな感触に、身体の一部が熱くなるのを感じつつ、そっとクラリスの肩を抱き、優しい声で応える。
「彼女のことは心配しなくていい。あれは家同士の都合で決まった婚約だ」
「でも、あんなに仲がよろしいのに……」
少し下を向くことで見える、クラリスの白く細い首筋と柔らかで深い谷間に落ちる髪が、ヴィクトルの更なる熱を誘う。
「仲がいい? あれは演技さ。侯爵家の事業を手に入れるため、都合よく振る舞っているだけだ」
ヴィクトルは鼻で笑った。
「私は本当に愛する女性と結婚したい。君とね」
クラリスの頬が赤く染まる。薄く涙を浮かべるその顔は、確かに社交界の評判通り儚げで頼りなく、庇護欲と支配欲に駆られる。
「ヴィクトル様……」
二人の距離が縮まる。
その柔らかな唇が軽く合わさって、その後何度も何度も重ね合わせる。
薄くあいた唇の重なる時間が長くなるとともに、2人の息は弾み、そしてひとつ、またひとつと衣服が乱れ、生まれたばかりの姿に近づいていく。
その様子を。
離れの入り口から、三人の人物が見つめていた。
一人は、ローゼンベルク侯爵家の執事。
一人は、公爵家の家令。
そして、もう一人は――。
「……まあ」
アリシア・フォン・ローゼンベルクだった。
彼女は、にっこりと微笑んだ。
「これは、ずいぶんと楽しそうですこと」
その声に気付いたヴィクトルの顔から血の気が引いた。
「ア、アリシア……!?」
「ヒャッ」
クラリスは悲鳴を上げ、ヴィクトルの背後に隠れ、その身体をヴィクトルが脱いだシャツで覆いながら告げる。
「ち、違うのです、アリシア様! これは、その……!」
「違う?」
アリシアは首を傾げた。
「では、何をなさっていたのかしら? 行儀見習いのお勉強?」
「そ、それは……!」
クラリスはその後の言葉を紡ぐことができなかった。
「なるほど。公爵家では、婚約者以外の男性と二人きりで抱き合うことが、淑女教育の一環なのですね。勉強になりますわ」
アリシアは柔らかな貴族の微笑みを浮かべながら、冷たい口調で告げる。
執事が咳払いをし、家令はそっと瞳を閉じた。
ヴィクトルは顔を真っ赤にして怒鳴る。
「黙れ! お前に何がわかる!」
「……あら」
アリシアの微笑みが、すっと消えた。
「わたくし、今、何かおかしなことを申し上げました?」
「お前との婚約は、もう終わりだ!」
ヴィクトルは、クラリスの肩を抱き寄せた。
「私はクラリスを愛している!
この公爵家の後継者としてしか私を見ていないお前とは結婚しない!婚約を破棄する!」
静まり返った部屋にその言葉が響く。
「……え」
「聞こえなかったのか? 婚約破棄だ!」
繰り返すヴィクトルの言葉に、アリシアは見開き、その後うつむいた。
その細い肩が、ほんの少しだけ震える。
――ああ、かわいそうに。
その場にいた誰もが、そう思った。
長年愛し合っていたはずの婚約者から、突然の裏切り。
結婚式の準備も、招待状も、ドレスも、すべてが整いかけていたというのに。
彼女の深い哀しみに同調するように、静かな時間が過ぎていく。
そして。
「……ふふっ」
小さな笑い声が漏れた。
「……え?」
ヴィクトルが眉をひそめる。
アリシアは顔を上げた。
その口元には、誰も見たことのないほど晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「承知いたしましたわ」
「……は?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
そして彼女は告げる。
「ヴィクトル様。わたくし、あなたと結婚しなくて済むことを、心より嬉しく思いますわ」
「な……っ!?」
「では、ごきげんよう」
アリシアは優雅に一礼した。
「どうぞ、お二人でお幸せに」
そのまま踵を返す。
扉の向こうへ消える直前、彼女は執事にだけ聞こえる声でささやいた。
「予定どおり、第一段階終了ですわね」
「……はい、アリシア様」
執事は深々と頭を下げた。
残されたヴィクトルは、ぽかんと口を開けたままだった。
彼はまだ知らない。
自分がたった今、何を手放したのかを。




