第7話 境界認識実験
救助索が、壁の向こうから三度引かれた。
続いて遥の声が途切れ、館長の声だけが有線通話へ割り込む。
『君たちは、そこで何をしているんだ』
蓮は継ぎ目を失った壁へ手を当てた。救助索も銅線も通っている。遥は数メートル先にいるはずなのに、返事がない。
「星見市立図書館の地下です。館長さんが開けた機械室の奥にいます」
『地下に機械室はある。しかし、奥は基礎だ。私は誰と話している?』
九条澪が蓮の肩を押し、通話器へ近づいた。
「九条澪です。館長さんの手元に、三人分の記録票があります。読まずに、まず見えたものを説明してください」
しばらく紙を探る音がした。
『住所と署名はある。だが、入室先の欄が白い』
蓮たちが扉へ入る前、三人の筆跡で埋めた欄だった。
「保存内容が削られてる」
澪は断定せず、記録帳へ時刻と現象だけを書いた。残り四十七時間二十二分。
通話器が擦れ、遥の声が戻る。
『館長さんに地上へ戻ってもらった。別の職員二人を呼んで、住所、階段の数、壁の印を別々に書いてもらう。私も十分ごとに読み上げる』
「忘れ始めたら離れろ」
『忘れた人を置いて逃げない。二人こそ、索から手を離さないで』
命令ではなく、役割の確認だった。蓮は腰の結び目を確かめた。
通話の向こうで、遥は二人の職員を別々に廊下へ立たせた。一人は地下まで十二段と答え、もう一人は十三段と答えた。意見は違っても、階段があるという認識は重なる。遥は一致しない数を直さず、それぞれの紙を別の壁へ貼らせた。
『どちらかに揃えたら、見えなかった方の記録を消すかもしれない。違ったまま残す』
館長が使った鍵には「地下機械室」と刻まれていた。文字を声に出してもらうと、白くなっていた記録票へ「地下」の二字だけが戻った。誰かが独立に見直すたび、消去が止まる可能性がある。遥は地上の職員にも電話をつなぎ、図書館の住所から順に確認させた。
蓮には、壁の外に杭を打ち込まれているように思えた。救助索だけではない。違う目で同じ場所を確かめる行為そのものが、二人を町へ結びつけている。
澪は二本の救助索へ異なる間隔で結び目を作り、内側から長さを測った。遥も外側で同じ作業をする。直接測った長さは三人で一致したが、携帯動画では索が壁の手前で切れていた。物体は通っている。通過した事実だけが映像へ残らない。
「切れた映像を見て、索そのものが切れたと判断しない。媒体ごとの結果を混ぜないで」
澪の注意を、蓮は自分の記録にも書き足した。未来の地図を事実そのものとして扱ってきた自分へ向ける言葉でもあった。
*
光源のない白い明るさが、観測室の中央へ滲み出した。
影が消えた。机の下もブラウン管の裏も、同じ明るさで見える。蓮は八年後の迷宮で、こうした光の中へ入るたび人数を数え直していた。出口を見失う者がいたからだ。当時は適性不足と呼ばれ、ORACLEの分類に従って隊列から外した。
見えない者がいた事実を、蓮は知っていた。
ただ、世界の側が情報を分けているとは考えなかった。
「十七ヘルツ、変調してる」
澪の計器では、一定だった波形に細かな山が増えていた。通話器越しに数値を伝えると、遥の計器にも同じ周期が出た。ただし外側の振幅は半分以下だった。
「場所で強さが変わる。信号自体は銅線に乗って外へ出てる」
澪が言い終えたとき、古い映写機のリールが回った。
電源線は切れている。フィルム室も空だ。二人は触れず、同時に距離を取った。
壁へ一九七四年の観測室が映る。
白衣の研究員が七人。中央の椅子には、手首を固定された男が座っていた。彼だけが何もない壁へ顔を向け、扉が開いている、と訴えている。
二人の研究員が同じ位置で足を止めた。残る五人は壁を叩き、首を振る。
映像の隅ではブラウン管が波形を描いていた。十七ヘルツ。現在の計器と山の間隔まで重なる。
「再生映像じゃない可能性がある」
澪は携帯を壁へ向けたまま言った。
「根拠は」
「波形が今の信号と同期してる。それだけ。映像の時刻までは証明できない」
蓮も携帯を構えた。撮影画面には、白い壁と回転する映写機だけが映っている。研究員も椅子も保存されない。
「声は?」
蓮が通話器へ問う。
『二人の声と映写機の音だけ』と遥が答えた。『そっちで誰か話してるの?』
映像の場面が変わった。
最初に記録札が映った。『主任研究員 九条誠一』。続く生年月日は、澪が家族資料で確認していた祖父のものと一致した。
細い眼鏡の男が黒板へ二行を書く。
『境界は存在しない』
『認識が境界を作る』
偶然で退けられる余地が一つ消える。
誠一は研究員へ向けて話していた。
『一人の観測を正解にすれば、それ以外の現実は誤差になる。見えないものが消えたのではない。我々が、消す側になる』
講義はそこで途切れた。
映像の誠一が、正面を向く。
蓮が右へ動くと、視線が追った。誠一の背後にいた研究員たちは、誰もこちらを見ない。
『澪』
録音ではない声が、蓮の耳元で鳴った。
澪は返事をしなかった。唇を結び、机の上から二枚の記録カードを取る。一枚を蓮へ押しつけ、自分は背を向けた。
「見たこと、聞いたことだけ。相談しないで書いて」
蓮は誠一の視線、呼ばれた名、黒板の二文を書いた。澪も書き終え、二枚を同時に裏返す。
一致していた。
携帯動画には白い壁。録音には十七ヘルツを可聴域へ変換した低い脈動だけ。遥には名前も講義も届いていない。
「直接認識は二人。保存不可。外部の認識者には割り当てなし」
澪は祖父という語を使わず、条件を記録した。ペンを置くまで、指先の震えだけは止まらなかった。
*
十六台のブラウン管が一斉に点灯した。
『独立観測一致を確認』
『同期率:19%』
数字は、同じ現象を別々に見て、別々に残した直後に上がった。その一致が原因か、接続が先に深まった結果かはまだ証明できない。それでも、次に試す条件は得られた。
最奥の壁へ、白い縦線が走った。
線は左右へ開き、継ぎ目のない通路を現した。古いコンクリートへ、未来のORACLE中枢で見た白い素材が食い込んでいる。蓮の身体は出口を探せと告げた。記憶にある中枢なら、この先の右手に保守路がある。だが、見えている壁の欠け方も通路の幅も違う。
黒い手帳に文字が浮かぶ。
《扉の先を確認してください》
「指示は?」
澪に問われ、蓮はそのまま読み上げた。
「従う理由にはならない。でも、戻る扉は消えた。先に出口か制御部があるかを検証する」
二人は救助索へ新しい結び目を作り、壁際へ残した機材の位置を遥に読み上げた。澪が通路へ温度計を差し入れ、蓮が鋼製の留め具を境目に噛ませる。三十秒待っても、通路も索も消えない。
『こちらでも索は見えてる』
遥の声を確認してから、蓮は一歩入った。澪が続く。
背後で留め具が折れ、白い扉が閉じ始めた。
二人が壁際へ飛び退くより早く、二本の救助索と通話線が通路側へ切断された。切り口は焦げても裂けてもいない。初めからその長さだったように滑らかだった。
通話器の向こうで、遥が二人の名を呼び続ける。
最後の隙間から、観測室に二脚の椅子が現れるのが見えた。
機械音声が訂正する。
『観測室ではありません』
椅子の前の画面へ、二人の名が浮かぶ。
『ここが、実験室です』
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