第6話 最初の攻略者
黒い手帳の二ページ目、《観測対象》の欄に妹の名前だけがなかった。
《第二観測点へ移動してください》
残り四十八時間三十七分。数字は、蓮が読み終えるあいだにも一つ減った。
「星見市立図書館。地下を指定してる」
第一観測点は星見駅だった。黒い手帳は、十七ヘルツの発生源が北西へ移った先を次に示している。
蓮が読み上げると、九条澪は手帳へ顔を寄せず、方眼紙に線を引いた。神代蓮、文字を直接認識。撮影画像、白紙。九条澪、神代遥、手帳本体のみ認識。
「表示されない二人を、ひとまとめにしないで」
澪はペン先で自分と遥の名を分けた。
「私は駅の画面を見た。遥さんは見ていない。認識者、媒体、場所、保存できたか。少なくとも四つは別に記録する」
遥が自分のスマートフォンを机へ置いた。駅前で集めた証言が、時刻順に並んでいる。
「黒い階段を見た人が七人。声だけ聞いた人が十一人。どっちも知らない人が三十四人。連絡先も、本人の許可を取って残した」
救護を続けながら集めた数だった。蓮が地下で見たものより、遥が地上で拾った食い違いの方が多い。
「私の名前がないなら、外にいる役は私がやる」
遥は迷わず言った。
「二人だけで地下へ消えたら、誰がいたことを証明するの」
蓮は反論を飲み込んだ。守るために遠ざける。それをしないと約束したばかりだった。
*
図書館の閲覧室には、朝の斜光が差していた。
子供が絵本を戻し、受験生がペンを走らせている。星見駅で死者が出てから三時間も経たないのに、町の日常は止まらない。
蓮は八年後の市街図を頭の中で重ねた。図書館は避難所にも補給所にも指定されず、攻略者向けの地図にも地下区画はなかった。存在しなかった、と言いかけてやめる。自分が使った地図に載っていなかった。それ以上は、まだ言えない。
澪は書架の間を歩きながら、床へ小さな振動計を置いた。数値は十六・八、十七・一、十六・九を往復する。人の耳には低すぎる振動が、一定の間隔で床を叩いていた。
「駅で拾った波形と位相が同じ。音ではなく、何かを運ぶための信号かもしれない」
「何を運ぶ」
「そこは未確認」
澪は即答し、断定を切った。
振幅は北側の書庫へ近づくほど強くなった。遥が先に受付へ戻り、駅周辺の地下異常を調べていること、床下から規則振動が出ていることを職員へ説明した。半信半疑だった館長の顔色は、書庫の棚が目に見えて揺れたときに変わった。
利用者が避難し、館長立ち会いで地下機械室が開けられた。
古い配管の奥に、設計図にない空洞があった。公開されている建築台帳では、そこは厚さ二メートルの基礎になっている。施設名も部屋番号もない。
「記録が消された証拠にはならない」
澪は図面と壁を見比べた。
「改築時の記載漏れでも説明できる。今は、空間があることだけ」
蓮は壁際へしゃがんだ。コンクリートに一本、爪ほどの黒い線が走っている。手を近づけると、駅地下で亀裂が開いた直前と同じ冷気が指へまとわりついた。
線は蓮の目の前で長方形を描いた。
錆びた鉄扉が現れる。
澪は既にカメラを向けていた。遥は、二人が見つめる壁を見たまま動かない。
「扉、なんだよね」
「見えないのか」
「壁しかない。けど、二人の目線は同じ高さ」
澪が撮影画面を確認した。映っているのも壁だけだった。彼女は動画を止めず、扉の輪郭へ赤いチョークを引く。
蓮には鉄の上に線が残った。遥の画面では、チョークがコンクリートをなぞっている。
「直接認識は二人。映像保存は不可。チョークそのものは三人とも見える」
澪が記録する横で、遥は訓練用の救助索を蓮の胴へ結んだ。もう一本を澪へ、有線式の通話器を二人の襟元へ固定する。無線が切られても、銅線なら物理的につながる。
壁の手前には、館長の許可を得て紙の記録票を貼った。年月日、図書館の住所、地下機械室、入った二人と外に残る一人の氏名。遥は同じ内容を館長にも読み上げてもらい、別々の筆跡で署名を取った。
「同じ文章を写すだけじゃ、独立した証言にならない」
澪の指摘に、遥は三人それぞれへ扉の位置を言葉で説明させた。蓮は鉄扉、澪は冷気を伴う長方形、遥はチョークで囲まれた壁と記した。見えていないことまで、消さずに残す。
蓮が錆びた取っ手を引くと、鉄扉は内側へ開いた。遥の撮影画面では、蓮の右腕だけが壁へ肘まで沈んでいる。澪は映像を保存し、同じ動作を自分でも試した。二人の腕は映り、扉だけが映らない。入る前の検証結果を、遥が記録票へ書き足した。
「十分ごとに時刻と名前を答えて。返事が途切れたら引く」
「壁の向こうで引けるのか」
「試してから入る」
遥は索の端を扉の位置へ押した。彼女の手は壁で止まる。だが蓮が受け取ると、索だけが鉄扉の輪郭へ半分沈んだ。
物体にも、通過を許される側がある。
*
扉の先は、埃と湿気の溜まった観測室だった。
蓮が三歩進んだところで索を引く。外から二度、確かな応答が返った。
『神代蓮、聞こえる?』
「聞こえる。九条も一緒だ」
『残り四十七時間二十八分。館長さんにも、二人が地下へ入った時刻を書いてもらった』
遥の声は雑音を含んでも明瞭だった。
壁際にはブラウン管とアナログ計器が並び、どれも電源を失っている。机上の記録紙だけが、五十年以上の湿気を逃れたように乾いていた。
澪が手袋をはめ、一枚目を開く。
『境界認識実験 第一報』
主任研究員、九条誠一。
澪の指が名前の上で止まった。
「祖父と同姓同名」
「本人か」
「写真と生年を照合するまで保留。私は会ったことがない」
言葉は平静だったが、紙を押さえる指にだけ力が入っていた。
次の記録には、十七ヘルツの波形が焼き付けられていた。被験者には存在しない扉が見え、七人の観測者のうち二人だけが同じ位置を指した。映像には壁、音声には開閉音。蓮たちが今行った検証と、条件まで一致している。
記録日は一九七四年七月十九日。波形の下には「搬送信号」とだけあり、運ばれる情報の欄は黒く欠けていた。澪が紙を傾けても、光は黒い部分から返らない。撮影すると欠落そのものが消え、何も書かれていない余白になった。
「紙では欠落が見える。写真では、欠落した事実まで保存されない」
澪は結果だけを記録し、穴の正体には名前を付けなかった。
紙の余白に、青いインクで一文が残っていた。
『人間が世界を観測する、という前提を破棄する。情報を割り当てているのは世界の側である』
「五十年前に、ここまで」
蓮の声へ、通話器の向こうから遥が割り込んだ。
『待って。壁の線が消え始めてる』
救助索が強く引かれた。蓮は反射的に巻き取る。索は動く。通話も続いている。澪は入口へ赤いチョークで時刻を書き、写真を撮った。
写真には、数字だけが残らなかった。
部屋の奥で、壊れたはずのスピーカーが鳴った。
低い振動が足裏から骨へ上がる。澪の計器が十七・〇を示したまま振り切れた。
『観測番号一』
古い男の声だった。機械の滑らかさはなく、呼吸と迷いが混じっている。
『中心観測錨を確認。攻略を開始してください』
誰が、何を攻略するのか。
蓮が問うより先に鉄扉が閉じた。
外からは壁にしか見えないはずの場所を、遥が拳で叩く音がする。
救助索だけが、継ぎ目の消えた壁を貫いていた。
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