第8話 消えた研究所
切断された通話線から、遥の声が聞こえた。
『蓮、九条さん、返事して』
銅線は蓮の足元で終わっている。断面の先には、何もつながっていない。
「聞こえる。こっちは二人とも無事だ」
返事は届かなかった。遥は二人の名と図書館の住所を繰り返している。声は十七ヘルツの脈動が強まるたび近づき、谷に入ると遠ざかった。
九条澪が切断面へ計器を当てる。
「電気信号はない。録音すると低周波だけで、遥さんの声は残らない」
直接聞こえる二人。保存できない音声。外にいる遥は、こちらの声を認識していない。
澪は三つの結果を別々の欄へ書いた。
黒い手帳に、残り四十六時間四十一分が浮かぶ。
「表示がある」
「内容は」
蓮が時刻を告げると、澪は腕時計を確認した。誤差は二秒。彼女には手帳の数字が見えなくても、時間の経過は独立に確かめられる。
「先へ進む。通話線は持つ。声が戻ったら、位置を伝える」
蓮は切れた線を腰へ巻いた。役に立たないはずの端が、今は外界と残った唯一の因果だった。
*
百十二歩先で、白い壁へ古い案内板が埋まっていた。
途中で通路は、図書館の敷地を越えている。天井に車の振動はなく、方位磁針は一周ごとに北を変えた。白い床へ錆びた配管が食い込み、配管の先だけ一九七四年のコンクリートへ戻っている。
蓮は未来のORACLE中枢で数えた角を思い出した。三つ目を右へ曲がれば保守用昇降路があった。しかし目の前の三つ目は左へ折れ、壁の一部が黒く欠けている。似ているから使えるのではない。似ている部分ほど、記憶に引かれれば危険だった。
『国立境界認識研究所 第二区画』
文字は肉眼で読める。澪が撮影すると、写真には錆びた板だけが残った。蓮が名称を通話線へ読み上げた瞬間、遥の声が雑音へ崩れる。
『国立……何? もう一度』
三度伝えても、遥は同じところで聞き返した。音が欠けるのではない。研究所というまとまりだけが、意味にならない。
『名前は聞き取れない。でも、二人が百十二歩進んだことは分かる。切れた索の外側はまだ壁へ入ったまま』
遥は館内放送を借り、避難を終えた職員へ地下で見たものを一人ずつ書くよう頼んでいた。地下室はないと答えた者にも、否定した言葉をそのまま残させる。五枚目の記録が貼られたところで、外側の壁に髪ほどの亀裂が戻ったという。
『研究所の名前が分からなくても、二人がいる場所は記録できる。住所と歩数を続ける』
遥は見えないものを見たふりはしなかった。見えないまま、外から輪郭を狭めている。
案内板の先に記録保管室があった。
棚には一九七四年の研究日誌、職員名簿、磁気テープが並んでいる。原本は二人に読める。写真では表紙の機関名が消え、紙へ書き写した名称は部屋を出た途端に薄くなった。
澪は研究所名を略号に置き換えた。意味を保存できないなら、観測した順序と現象だけを残す。
同じ紙へ、案内板の固有名、図書館からの歩数、三回曲がった方向、十七ヘルツの振幅を並べて書く。保管室の外へ出ると固有名だけが薄れ、数字と方角は残った。撮影画像でも同じだった。
「場所全体が保存できないわけじゃない。機関を意味として結ぶ情報が対象になってる」
澪は断定を一段に留め、略号の横へ『固有名欠落』と記した。蓮が通話線へ略号と座標だけを読むと、遥は今度は聞き返さず書き取れた。
十二月十八日の日誌で、筆跡が乱れていた。
『観測番号一、認識集中を確認』
『外部職員十一名中九名が正門を認識せず』
『電話回線は正常。相手は当研究所の名称を意味として保持できない』
『封鎖を始めたのは我々ではない』
最後の行から先は、紙の繊維ごと黒く欠けていた。ライトを向けても反射がない。撮影画面では、欠落さえ消えて白紙に見える。
「破壊された記録なら、破損は残る」
蓮が言うと、澪は首を横へ振った。
「今確認できるのは、直接見た欠落が画像に保存されないことまで。研究所全体に広げるには、まだ足りない」
保管室の端末が起動した。
電源はない。緑色の文字だけが、暗い画面へ一行ずつ現れる。
『観測番号管理』
一から十二までの実験番号が並び、すべて終了と表示されていた。九条誠一の名は、観測番号一の「中心観測錨」欄にある。番号は人へ付けられたものではない。複数の観測者と被験者を束ねる実験単位だった。
最下段だけ表示が違う。
『観測番号十三 進行中』
澪が詳細を開く。
『被験者 神代蓮/九条澪』
『観測開始 星見駅/自由意思確認済』
『根幹接続条件 未設定』
『終了条件 未設定』
「始まってるのに、どこまで接続するかも、どう終えるかも決まってない」
蓮の言葉を、澪は記録しなかった。
「表示が現在更新された可能性もある。これは一九七四年から残った予言だと、まだ決められない」
彼女が端末の時計を探す間に、根幹接続条件の欄が変わった。
『適合者の自由意思による最終承認』
星見駅で、鏡の顔をした監査体が使った言葉だった。
*
廊下の奥から、片足を引きずる音がした。
蓮は棚から金属棒を抜き、入口の死角へ立った。今の身体では一度振れば腕を持っていかれる。澪は逃げ道を確かめ、『独立観測手順』とある磁気テープ、九条誠一の職員証、番号だけを刻んだ真鍮の識別片を鞄へ入れた。
曇った窓を、白衣の影が横切った。
扉が開く。
四十代ほどの男が立っていた。痩せた顔。細い眼鏡。袖を肘までまくった白衣。映像の九条誠一と同じ姿で、半世紀を経た痕跡がない。
澪は一歩も近づかなかった。
「九条誠一さんですか」
「その名を、外で誰から聞いた」
「家族の記録です。私は九条澪。あなたの孫にあたります」
誠一はすぐに喜ばなかった。澪の顔を確かめ、次に足元の切れた通話線を見た。
「外では、私に孫ができたのか」
「私が生まれる前に亡くなったと記録されています」
誠一の口元が僅かに歪んだ。
「なら、家族まで消さずに済んだ」
「何を封鎖した」
蓮が問うと、誠一は廊下の白い壁へ耳を当てた。
「答える前に確認します」
澪は誠一との距離を詰めなかった。
「日誌には、外部職員が研究所を認識できなくなったとある。あなたの実験が起こしたんですか」
誠一は目を逸らさない。
「接続を始めたのは私だ。止められなかった責任もある。だが、封鎖の経緯をここで話せば、来るものに追いつかれる」
祖父だから信じる、という余地を澪は与えなかった。誠一も、犠牲を善意で包もうとはしなかった。
遥の声が戻る。
『地下の住所を、五人が別々に書いた。壁に亀裂が出てる。そっちが戻ってきてるの?』
誠一が通話線を見下ろした。初めて、その顔に驚きが走った。
「外から、この場所を観測している人間がいるのか」
「俺の妹だ。九条と同じように、ここまで検証してきた」
「観測番号十三に、三人目は登録されていない」
「だから届く」
誠一は答えず、保管室の扉を閉めた。
「研究所が消えたんじゃない」
低い振動が床を揺らす。廊下の白い部分から、人の輪郭が一つずつ剥がれ出した。顔のない白衣。手には古い封鎖器具を持っている。
「多数の現実から切り離された。外から見れば、ここが消えたことになる」
「あんたから見れば?」
誠一は迫る影へ向き直った。
「消えたのは、外の世界だ」
端末が警告音を鳴らす。
『外部観測を検知』
『観測番号一、再開』
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