第3話 未来を信じない研究者
九条澪のモニターでは、星見駅地下が十七ヘルツで脈打っていた。
数値は未公開で、研究室の外へ出した者はいない。
「この周波数を、どこで知ったんですか」
原初迷宮が現れるはずの時刻まで、残り六十時間十八分。
古びた大学研究棟の一室で、神代蓮は未来のORACLE設計者と向かい合っていた。
九条は三十歳前後に見えた。白衣の袖を肘まで折り、寝不足の目で蓮と遥を交互に見る。未来の記録に残る冷たい肖像とは違い、机には飲みかけの缶コーヒーと、何度も修正した測定計画が積まれていた。
未来の教科書は、彼女をORACLE開発の中心人物と記した。人間社会の管理権限をAIへ渡した科学者。蓮はその名前を、妹を殺した迷宮と同じ重さで憎んだことがある。
いま九条を消せば、あの未来は生まれないのか。
浮かんだ考えを、蓮は捨てた。証拠も選択肢も示さず、一人を危険因子として切り捨てる。それでは中枢で止めたはずの計算と変わらない。まず、目の前の九条が何を知り、何を選ぶ人間なのか確かめる必要がある。
「メールには低周波振動としか書かなかったはずです」
蓮は答えず、画面の波形を見た。十六・八から十七・二ヘルツの間を揺れ、五秒ごとに細い山が立っている。原初迷宮の入口が形成される直前と同じ形だった。
「十七ヘルツ前後。発生源は固定されず、地下通路に沿って移る」
九条の指がキーボードから離れた。
「推測で当てられる範囲を越えています。所属は」
「物流会社です」
「聞いているのは勤務先ではなく、データへの接触経路です」
言葉の曖昧さを通さない。蓮が未来の記録から想像したより、厄介で、信用できる反応だった。
遥が救命講習のファイルを机へ置いた。
「三日後、駅地下で事故が起きる可能性があると兄から聞きました。駅へ伝えるには、根拠が必要です。私たちに見せられない情報なら、九条先生から報告してもらえませんか」
「事故の種類は」
「兄は崩落と言っています。私は確認していません」
遥は約束どおり、予測と事実を分けた。
九条はファイルの日付と参加者名簿を確認した。三十人の受講者、講師二人、学生スタッフ四人。名前の横には緊急連絡先がある。
「少なくとも、被害の対象と連絡経路は実在する」
九条は名簿を返した。
「ただし、振動と崩落の因果は未確認です。駅へは異常振動として報告できます。崩落を断定して避難させることはできません」
蓮には遅すぎる判断に思えた。けれど、未来でORACLEが行ったのは、その逆だった。条件のある予測を確定事項として示し、人間へ従わせた。
「検証する方法はある」
蓮は星見駅の地図を開き、北改札から六十メートル先を指した。
「次の強い振動はここへ出る。残り時間が六十時間になった時だ」
「根拠は」
「出せない」
「では予測として記録します。外れた場合も消しません」
九条は新しい画面を開いた。現在の測定値、蓮の予測地点、期限、許容する誤差を入力する。
「地点は半径五メートル。時刻は前後一分。この条件でいいですか」
蓮は頷いた。未来では、同じ順番で異常が移動した。最初の三日だけは、人の選択で変わらないと考えていた。
遥は駅の防災担当へ電話し、大学で地下振動を確認していること、九条から正式な測定結果を送ることを伝えた。全面閉鎖は断られたが、搬入口周辺の設備点検と、講習会場を地上へ移す検討は始まった。
蓮が未来知識で場所を示し、九条が測り、遥が現在の人間を動かす。三人の役割が初めてかみ合った。
残り六十時間八分、波形の山が崩れた。
予測時刻にはまだ八分ある。発生源を示す光点が北へ飛び、蓮の指定した地点を通り過ぎた。そのまま駅中央の真下で二つに分かれる。
「止めろ」
蓮は画面へ手をついた。
「機器は正常です」
九条が別系統のセンサーを呼び出す。大学の装置だけではない。鉄道会社が公開している地盤計、工事会社の振動記録、市の地下水位計。三つが同じ時刻に異常を拾っていた。
彼女はさらに実験台の加振器を停止し、窓際の予備センサーへ切り替えた。研究棟の電源由来なら波形の位相がずれるはずだが、十七ヘルツの山は同じ間隔で続く。原因は大学の装置ではない。
未来の記憶にはない動きだった。
「予測地点の通過は確認。時刻は八分早い。現在の発生源は予測範囲外です」
九条は結果を読み上げ、蓮の記録へ《一部一致・重要な不一致》と付けた。
「兄の話が当たったんですか」
「いいえ。知り得ない情報を持っていた可能性は上がりました。未来の挙動を正しく予測できることは証明されていません」
遥が蓮を見る。
「外れた理由は?」
「分からない」
八年間、蓮は分からないまま動くことを恐れ、ORACLEの答えを使った。今は答えを持って戻ったはずなのに、最初の検証で崩れた。
九条が光点の軌跡を地図へ重ねた。点は現在の地下通路と一致しない。だが蓮には、何度も歩いた原初迷宮の第一層に見えた。ただし、通路の幅も分岐の数も記憶とは違う。
蓮は記憶の線を透明なシートへ描き、現在の駅図へ載せた。北側の半分は重なる。中央へ行くほどずれ、未来にはなかった環状路が測定点から浮かび上がった。
「今の構造と違う」
「今の、という言い方をするんですね」
九条は問いたださず、その言葉の横へ時刻だけを付けた。蓮が答えを濁した事実も、後で検証できる形にするつもりだった。
「これは地下構造を調べている」
「何が、ですか」
「分からない」
九条は追及せず、その言葉も記録した。
「分からないなら、分からないまま範囲を狭めます。残り六十時間八分までに変えた条件は何ですか」
蓮は黒い手帳を鞄から出した。表紙も紙も、九条と遥には見えている。頁の文字は蓮にしか見えない。
「数時間前、これが届いた。星見駅から攻略を始めろと書いてある」
九条は白い頁を撮影し、画像を拡大した。
「私には白紙。画像も白紙。遥さんは」
「同じです」
「文字があるという神代さんの申告だけが保存できる。現時点では証拠ではありません」
「それでいい。記録してくれ」
九条が時刻を添えた。信じてはいない。それでも、捨ててもいない。
*
予測時刻を過ぎると、駅側から部分封鎖の連絡が入った。搬入口と北側通路を設備異常として閉じ、地下商店街は営業を続ける。遥は講師へ地上開催への変更を伝え、名簿の全員から返信を集め始めた。
九条は振動の移動先を追い、蓮は未来の地図との差を書き出した。現在の行動が未来を変えたのか、別の何かが蓮たちへ反応したのか。どちらもまだ仮説だった。
振動源は止まらなかった。二十分から四十分おきに場所を変え、そのたび未来の通路とのずれが増した。三人は駅側へ更新を送りながら九時間近く測定を続けた。
残り五十一時間三十二分、モニターが一度だけ暗転した。
九条が電源を確認するより先に、黒い画面へ白い文字が現れる。
《協力者との接触を確認》
《第一観測開始時刻を更新》
《第一観測まで 00:32:00》
蓮と九条が同時に画面を読んだ。
「何が表示されています?」
遥だけが、何も映っていない黒い画面を見ていた。
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