第4話 原初迷宮
残り五十一時間七分。星見駅地下の床が、十七ヘルツで揺れていた。
未来の記憶では、この場所が壊れるのは五十一時間後だ。
それでも黒い手帳には、《第一観測まで七分》と表示されていた。
北改札側の通路には規制ロープが張られ、閉鎖搬入口の周囲を駅員が封鎖している。九条澪の報告で実現したのは、設備点検を名目とする部分閉鎖までだった。地下商店街では開店準備が始まり、始発から増えた通勤客が黄色いロープを迷惑そうに避けていく。
「振幅、研究室で測った時の四倍」
九条は携帯測定器を両手で支えた。研究室の画面に出た表示について駅側へ説明したが、機器に保存されたのは暗転した時刻だけだった。文字は蓮と九条の記録にしかない。
「七分後に何が起きるかは、まだ不明です。点検区域を広げる根拠にはできませんでした」
「十分だ。北側に人がいないだけで違う」
蓮はそう答えたが、黒い手帳の残り秒数から目を離せなかった。
神代遥は駅前広場へ移す救命講習の機材を、講師と一緒に地上へ運び終えていた。いまは地下へ戻り、駅の設備主任と商店街の店主へ避難先を説明している。
「警報が鳴ったら、北へ行かないで西の地上出口へ。エスカレーターが止まったら、搬入用の斜路を使ってください」
設備主任が腕時計を見る。
「大学の先生には悪いが、振動だけで商店街全部の開店を止めるわけにはいかん。七分経って何もなければ規制を縮める」
蓮は男を責められなかった。未来の記憶を持たない人間に、見えない迷宮を理由に生活を止めろとは言えない。
黒い手帳の表示が、一分を切った。
蓮はバールを握り直した。未来で得た身体強化はない。防具も、仲間も、権限片もない。あるのは短いバールと、外れ始めた記憶だけだ。
「三十秒」
九条が時刻を記録する。
遥は周囲へ届く声で、西出口の位置をもう一度案内した。何人かが足を止め、駅員たちも規制ロープの外へ移る。
表示がゼロになった。
床から振動が消えた。
静かすぎる一秒のあと、地下全体が持ち上がった。
タイルが波打ち、柱の案内板が落ちる。照明が連続して破裂し、地下商店街のシャッターが途中まで降りた。悲鳴と警報が重なる。
蓮の足元を、黒い亀裂が走った。
「西へ! 走るな、押すな!」
遥の声が警報を割った。設備主任と駅員が規制ロープを外し、人の流れを西出口へ向ける。事前に閉鎖した北側には誰もいない。蓮たちが動かした現実が、確かに犠牲を減らしていた。
だが、中央の天井が崩れた。
設備主任が子供を突き飛ばし、落ちた案内板の下敷きになる。遥が人の流れに逆らって戻り、首元と胸へ手を当てた。
「呼吸なし。脈なし。頭部損傷」
遥は顎を上げて気道を確保した。それでも呼吸は戻らず、頸動脈にも触れない。頭部の損傷と、近づく崩落音を確かめ、唇を噛んで立ち上がった。安全を確保できない場所で心肺蘇生を始めれば、救助する側まで動けなくなる。
「ここでは蘇生を続けられない。歩ける人は西へ。そこの二人、この子と腕を切った女性を連れて」
死んだ一人の前に留まって、生きている全員を巻き込まない。選ばなければならないことと、人間を数から消すことは違う。遥は男の顔へ自分の上着をかけ、名札にある氏名と確認時刻をスマートフォンの音声記録へ残した。
「蓮、西出口が塞がった!」
煙の向こうで、九条が叫ぶ。
未来では、そこに幅三メートルの保守通路があった。最初の崩落でも残り、百人以上が地上へ逃げた道だ。
蓮が先頭に立ってシャッター脇を抜けると、通路は白い石壁で途切れていた。扉の跡も継ぎ目もない。
「そんなはずはない」
背後に、逃げてきた人々が詰まる。蓮の正しい避難路が、全員を行き止まりへ連れてきた。
「お兄ちゃん、斜路はこっち!」
遥が商店街の厨房へ飛び込み、従業員用扉を開けた。講習機材を運ぶときに使った搬入路だ。現在の駅を知る遥の経路は、蓮の未来地図にない。
蓮は自分の記憶を捨て、遥の指示に従った。
「九条、最後尾を頼む。動ける人は壁側、けが人を中央へ!」
搬入用の斜路を上る途中、背後で大きな破砕音がした。九条の白衣の袖が裂け、右前腕から血が流れている。彼女は傷を押さえながら人数を数え、斜路へ入った者と残った者を照合していた。
子供が一人いない。
設備主任が助けた少年だった。
*
蓮は地下へ戻った。
少年は崩れた柱の陰で泣いていた。その先で黒い亀裂が円を描き、駅の床を別の空間へ置き換えている。
石造りの階段が、光の届かない下層へ続いていた。未来で最初に見た入口より広く、位置も形も違う。それでも、壁へ刻まれた同心円だけは覚えている。
原初迷宮。
全てのダンジョンの起点が、予定より五十一時間早く開いた。
階段の下から、硬いものが石を踏む音がした。
現れた影は、未来の第一層にいた四足の魔物ではない。二メートル近い黒い殻の身体。長い両腕の先が刃のように薄く、顔の位置には光を返さない鏡がはめ込まれている。
鏡には、蓮だけが映っていた。
二十四歳の顔へ傷が増え、右目が濁り、髪が白くなる。中枢室へたどり着いた三十二歳の蓮が、鏡の奥から現在の自分を見返した。
『適合候補を照合』
声は怪物の口からではなく、壁と床を震わせて響いた。
「お兄ちゃん!」
遥が斜路から戻り、少年へ駆ける。彼女の視線は黒い怪物を通り抜け、階段へ向いていた。
「そこから離れろ! 左だ!」
「何がいるの?」
黒い刃が少年へ振り下ろされる。
遥は見えない敵を探さず、蓮の指示を選んだ。左へ滑り込み、少年の服をつかんで床を転がる。刃が一瞬前まで二人のいたタイルを砕いた。
九条が遅れて戻り、怪物へ測定器を向ける。
「私には見えます。映像は――残っていない」
「記録は後だ。遥と子供を上へ」
蓮はバールを構えた。未来の低級個体なら、最初の踏み込みの後に右側が空く。振り下ろしを誘い、関節へ打ち込む。
怪物は踏み込まなかった。
鏡に映る八年後の蓮が先に同じ構えを取り、攻撃の軌道を示す。こちらの選択を見てから、黒い刃が逆方向へ走った。
バールが中央から切断された。刃先が蓮の頬を浅く裂く。
勝てない。未来にいなかったからではない。未来の判断を読まれている。
蓮は残った柄を投げ捨て、怪物へ背を向けた。少年を抱えた遥の後ろへ回り、九条と三人で斜路を上る。
追跡する足音はなかった。
振り返ると、鏡の怪物は階段の前に立ち、逃げる蓮を映し続けている。殺すことではなく、蓮が何を選ぶかを見るために刃を振るったように。
鏡の中の三十二歳の蓮が消えた。
『攻略者を確認』
少年を抱く遥にも、声だけは聞こえた。彼女が足を止めずに問い返す。
「誰が、誰を攻略するの」
地下の全てのスピーカーが、同じ低い声で答えた。
『観測開始』
『自由意思を確認』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




