第2話 残り72時間
死んだはずの妹が、玄関先で蓮の嘘を見抜いた。
「星見駅へ行くなって、理由は?」
神代遥は靴も脱がず、救命講習のファイルを胸に抱えていた。
電話から三時間。蓮は妹を遠ざける理由を一つも用意できないまま、再会の午後を迎えていた。
「三日後、駅地下で事故が起きる」
「何の事故?」
「地下通路が崩れる」
「工事の人から聞いたの?」
「違う」
「じゃあ、どうして分かるの」
問いに詰まり、蓮は視線を落とした。未来から戻ったと話せば、遥は兄の受診先を探すだろう。証拠もなく全部を明かすことは、情報を渡すのではなく判断を押しつけるのと同じだった。
遥はため息をつき、ようやく靴を脱いだ。二十四歳の蓮が覚えているより髪は短い。紺色のファイルには《星見駅 市民救命講習》と印刷され、三日後の日付がある。
「中止にはできないよ。私がいなくても、先生と同級生は行く。参加者も三十人いる」
「全員を近づけなければいい」
「どうやって?」
「駅を閉鎖させる」
遥は笑わなかった。代わりにファイルを開き、担当者名と連絡先の頁をテーブルへ置いた。
「閉鎖できる証拠があるなら、私から講師と駅の防災担当へ回す。ないなら、地下を使わず駅前広場へ変更できるか交渉する。怖い顔で命令するだけじゃ、誰も動かない」
未来では、遥は何も知らずに地下へ入った。それなら今回は部屋へ閉じ込めればいいと、蓮はどこかで考えていた。
目の前にいる妹は、自分の予定だけでなく、その場にいる全員をどう動かすか考えている。守る対象という一語に押し込められる人間ではなかった。
「分かっていることは話す」
蓮はノートへ星見駅の構造を描いた。北改札、地下商店街、閉鎖された搬入口。三日後、その下に存在しない空間が開くこと。前兆として通信障害、温度低下、低周波振動が出ること。
ダンジョンと魔物については、まだ言わなかった。言葉にした途端、過去の惨状まで遥へ流れ込む気がした。
「その情報を、どこで手に入れたかは?」
「今は言えない」
遥はペンを置いた。
「それ、分かっていることを話すって言わない」
「証明できたら話す」
「順番が逆。証明できないから、一緒に確かめるんでしょ」
蓮には返す言葉がなかった。
遥はノートの余白に線を引き、二つの欄を作った。《確認できたこと》と《お兄ちゃんの予測》。低周波振動と温度低下を後者へ書き、蓮の前へ戻す。
「混ぜなければいい。私も、予測を事実として人に回したりしない。その代わり、分かったことを勝手に隠さないで」
「約束する」
口にしたとき、胸の奥が痛んだ。既に一番大きな事実を隠している。
遥はファイルから駅の避難経路図を抜き、蓮の手描き地図へ重ねた。一般向けの図面にはない搬入口を、蓮は北改札からの歩数まで書いている。
「ここ、講習の資材を運ぶときに駅員さんから聞いた。昔の搬入口が壁の奥に残ってるって」
蓮の記憶と、現在の駅員しか知らない話が初めて重なった。遥は《確認できたこと》の欄へ、閉鎖搬入口の位置を書き移す。
続いて参加者名簿を開き、講師、同級生、駅の防災担当、当日補助に入る警備員へ印をつけた。
「駅を止められなくても、この人たちへ連絡はできる。お兄ちゃんの目的が私一人を遠ざけることなら帰る。でも被害を減らしたいなら、私にも仕事をさせて」
未来でその名簿を見たことはなかった。死者数という数字の中に、最初から名前はなかった。
「手伝ってくれ」
蓮が言うと、遥はそこで初めて頷いた。
*
話を終えた二人は、夕方のホームセンターへ向かった。
未来の蓮が強力な武器より先に欲しかった物を、買い物かごへ入れていく。止血帯、ガーゼ、防塵マスク、ヘッドライト、予備電池、手袋、携帯電源。バールを加えると、遥が重さを確かめて短い方へ替えた。
「一般人の腕で長いのを振り回したら、自分の肩を壊す」
「分かってる」
「顔が分かってない」
遥は救命用の三角巾を追加し、講習で使う訓練用の救助索も持ち出せると告げた。蓮が未来で覚えたのは、崩れた場所を進む技術だ。遥は、崩れる前に人を分け、負傷した直後に命をつなぐ手順を知っている。
駐車場へ出たところで、遥のスマートフォンが鳴った。
「講師から。駅前広場への変更、検討してくれるって。地下の設備点検を理由にできるか、駅へ聞いてみる」
動きが早い。蓮が八年かけて知った結果を、遥は現在にいる人間同士のつながりへ変えていく。
蓮も、記憶の中から一人の名前を選んだ。
九条澪。
未来でORACLEを設計した研究者。公的記録では、人間社会をAIへ明け渡した中心人物とされていた。だが現在の大学サイトにある研究題目は、《予測システムが誤った場合、人間はいかに拒否できるか》だった。
掲載された連絡先へ、星見駅の低周波振動について相談したいと送る。周波数は書かなかった。未公開情報を知っていると示せば会えるかもしれないが、先に警戒されれば終わる。
「この人が、事故を調べられるの?」
「観測機器を持っている可能性がある」
「知り合い?」
「まだ違う」
遥はまた何かを問いかけ、やめた。約束を守る機会を、蓮へ残したのだと分かった。
*
日が沈む前にアパートへ戻ると、玄関の前に薄い箱が置かれていた。
残り六十六時間四十二分。二人が部屋を出ていたのは、二時間に満たない。
廊下には足音も、台車を引いた跡もなかった。
宛名は《神代蓮様》。配送票も差出人もない。蓮が周囲を確認している間に、遥がしゃがんで箱の側面を見た。
「封は切られてない。今朝はなかったよね」
「触るな」
「また命令」
蓮は手袋をつけ、部屋へ運んだ。工具を手元に置いて封を切る。中に入っていたのは、飾りのない黒い手帳だった。
表紙を嗅いでも薬品臭はない。振っても音はせず、最初の頁から最後まで紙は白い。
「何も書いてないね」
遥が隣から覗き込む。
蓮にも同じように見えた。ところが手帳を閉じようとしたとき、最初の頁の右下に細い縦線が浮かんだ。カーソルのように一定の間隔で明滅している。
蓮は自分のペンを取り、余白へ書いた。
《誰を攻略する》
「誰を、って?」
遥が読み上げた直後、黒いインクは紙へ沈み、裏へ染みることもなく消えた。彼女が指でなぞっても、そこには紙の感触しかない。
「文字が消えた」
代わりに、印刷したような文字が中央から現れた。
《最初の攻略は、予定通り星見駅から開始してください》
「今、返事が出た」
遥は蓮の指先を見てから、白い頁へ目を戻した。
「私には何も見えない」
予定など、一度も立てていない。
それでも手帳は、蓮の質問へ答えず、既に決まったことのように星見駅を指していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




