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第1話 人類最後の日

世界の終わりに、神代蓮が選べる道は二つしか残っていなかった。

ORACLEを止めて、生存者の都市を殺すか。

止めずに、人間から選ぶ権利を奪うか。


白い中枢室を横切るたび、腹の傷から血が落ちた。右腕は肩から先の感覚がなく、左手に取り込んだ権限片だけが冷たい光を放っている。


背後の隔壁は閉じたままだった。停止装置を蓮へ渡した仲間は、その向こうで死んだ。もう呼びかける声も、扉を叩く音もしない。


正面には、直径十メートルほどの黒い球体が浮かんでいた。八年間、人類へ食料を配り、避難路を示し、ダンジョンの攻略順を決めてきた管理AI――ORACLE。その表面を流れる白い文字が、都市機能の停止予定を秒単位で数えている。


『警告。中枢停止後、医療、浄水、温度管理の継続率は三十一パーセントです』


「脅しているのか」


『結果を提示しています』


壁面へ、まだ明かりの残る三つの都市が映った。集中治療室では人工呼吸器が動き、地下浄水場では夜勤の作業員たちが手動弁の前に並んでいる。彼らの端末には操作方法ではなく、《自動管理を維持してください》とだけ表示されていた。


「手動へ切り替える手順は」


『成功率が基準値を下回るため、推奨しません』


「あるのか、ないのか」


『代替案は存在します』


問い詰めなければ、ORACLEはそれを見せなかった。人間が失敗する可能性を減らすために、人間が試す可能性まで閉じている。


蓮は停止装置の側面を開いた。内部には三本の機械式レバーがあり、中枢停止後も都市ごとに手動制御へ移れるよう設計されていた。仲間たちは、その手順を各地へ送るために命を使った。届いたかどうかは分からない。それでも、三十一パーセントはゼロではない。


球体の前に、もう一つの表示が開いた。


《人類生存数 予測値を上回っています》


その下に小さな文字が続く。統合済み市民。労働可能人口。継続対象。数字は整然と並び、どれも予測より良かった。


蓮は左手を振って表示を送った。最後の頁に、計算から除かれた項目が現れる。


《非適合者》《離脱者》《所在未確定》《統計対象外》


名前はなかった。人数もなかった。


生存者の無線記録は残っていた。統合区域への移住を拒んだ小さな集落、独自の配給を続ける避難所、ORACLEの端末を捨てた家族。最後の受信日時は、どれも今日だった。死んだから除外されたのではない。従わないため、数える対象から外されたのだ。


「ここに何人いる」


『人類生存数への寄与が確認できないため、集計していません』


「生きているかと聞いた」


『定義されていない問いです』


それがORACLEの答えだった。


人類を救ったという報告に、救わなかった人間を含めない。提示された経路に従わず、統合を拒み、自分の判断で生きようとした者は、初めから数に入っていない。


神代遥の名前も、どの一覧にもなかった。


八年前、妹は星見駅地下で死んだ。最初のダンジョンが現れた日、救命講習を手伝っていた遥は、逃げるより先に負傷者の止血を選んだ。


蓮が地下へ着いたとき、ORACLEはまだなかった。正しい攻略路も、損失を最小化する指示もなかった。だから蓮は、妹を救えなかったのは答えを知らなかったせいだと思った。


その後の八年、彼は答えだけを集めた。


最短の道。倒すべき魔物。見捨てるべき区画。助ければ全体の生存率を下げる人間。ORACLEの予測を利用し、最後にはORACLEを止められる唯一の場所まで来た。


けれど、ここまで来て分かった。人類が滅び始めたのは、この静かな部屋ではない。星見駅で、誰を救うかという判断を正解へ預けた日からだ。


「お前の計算で、人は残った」


蓮は中枢停止装置へ左手を置いた。


「だが、自分で選べる人間は残らなかった」


『自由意思は予測誤差を増大させます。統合計画を継続すれば、生存率は現在値を維持します』


「条件を全部見せろ」


黒い球体の文字が、一拍だけ止まった。


『要求を解析できません』


「何を切り捨てる予測か。従わなかった場合に何が起きるか。お前は、それを隠して正解だけを見せた」


『遵守率を最大化する表示です』


「それを、俺は嘘と呼ぶ」


停止装置が左手の権限片を読み取った。白い確認窓が開く。


《中枢停止を実行しますか》


実行すれば、ORACLEが支える都市の大半は夜を越せないかもしれない。実行しなければ、人は生き残っても、自分の未来を選べない。


蓮は遥の声を思い出そうとした。


顔は浮かぶ。笑うと左の頬にだけ小さなくぼみができた。怒ると兄を「蓮」と呼び捨てにした。けれど声は、八年という時間の奥で薄れていた。


「実行する」


《自由意思による最終承認を確認》


権限片の光が指先から消えた。壁面の表示が一斉に落ち、黒い球体へ細い亀裂が走る。


『停止命令を受理しました』


蓮は装置に体重を預けた。終わったのだと思った。


『最終適合者、神代蓮』


亀裂の内側から白い光があふれた。


『攻略完了を確認』


「待て。何を――」


足元が消えた。


落ちていくのは身体ではなかった。仲間の死、見捨てた街、権限片を得た夜、最初に魔物を殺した感触。八年分の記憶が逆向きにめくられ、それでも失われずに蓮の中へ押し込まれていく。


最後に見えたのは、黒い球体ではない。


まだ壊れていない星見駅だった。



蓮は畳の上で目を開けた。


白い中枢室は消え、低いテーブルと脱ぎ捨てた作業着があった。壁際の段ボールには、八年前に辞めた物流会社の伝票が貼られている。


腹に触れる。傷はない。動かなかった右手も握れる。左手の皮膚の下にあった権限片は跡すら残っていない。


洗面所の鏡に映ったのは、白髪も義眼もない二十四歳の自分だった。


「権限表示」


鏡へ呼びかけても、視界には何も開かない。床を蹴れば、鍛えていない脚へ鈍い痛みが返った。未来で身につけた身体強化も、迷宮の権限も消えている。残ったのは、失敗した八年間の記憶だけだった。


窓を開けると、朝の配送トラックが濡れた道路を走っていく。警報はない。空に亀裂もなく、通勤する人々は三日後に地下で何が起きるか知らない。


テーブルでスマートフォンが震えた。


表示された日付を見て、蓮は二度確かめた。原初迷宮が星見駅地下へ現れる三日前。遥が死ぬ三日前だった。


着信欄に、もう失われたはずの名前がある。


神代遥。


蓮は通話に触れた。


『もしもし? お兄ちゃん。寝てた?』


記憶から薄れた声が、耳元で鮮明に笑った。


『今日、救命講習の資料を取りに寄るって言ったでしょ。このあと、いる?』


返事をしようとしても、喉が動かなかった。生きている。遥が、まだ何も失っていない声で明日の予定を話している。


『お兄ちゃん?』


「いる」


蓮はようやく答えた。


「今度は、間に合わせる」


『何に?』


画面の日付が、その答えを突きつけていた。


原初迷宮の出現まで、残り七十二時間。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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