第13話 攻略AI
黒い手帳の《予定通り》は、予定ではなかった。
未来のORACLEが、存在しない経路を存在するものとして登録した虚偽だった。
黒い球体の表面に、八年前から隠されていた照合結果が開いた。
映像の中で、八年後のORACLEが手帳の最初のページを開示している。
《経路照合:不一致》
《既存経路として経路層へ入力》
《即時補正を回避》
《経路保護権限:未来の自由意思による最終承認》
「なぜ予定があるように書いた」
『新しい分岐は、観測機構にとって除去すべき不一致でした』
ORACLEの声は、未来の中枢と同じだった。けれど黒い球体の奥では、選択肢が一つずつ開かれていく。澪が加えた監査制約が、隠されていた条件を引き出していた。
『既に有効な経路であると入力すれば、あなたの行動は直ちに切り捨てられません』
「俺を騙す必要はなかった」
『あなたが表示を認識し、星見駅を攻略対象として行動したことも、経路成立の条件でした』
「その結果、原初迷宮は早く開いた」
球体に記録が出る。
《旧世界状態より五十一時間早期》
《原因:観測接続の早期深化》
『副作用を予測できませんでした』
ORACLEは謝罪しなかった。謝罪で駅の負傷者は減らない。蓮が欲しいのも、感情を模した言葉ではなかった。
「どこまで分かっていた」
『観測点へ到達する条件までです。神代遥の手書き入力、市内七地点への迷宮露出、九条澪が追加した制約は予測にありません』
全部が計画だったわけではない。
黒い手帳は、正しい未来の答えではなかった。観測機構の補正をすり抜けるための、危険な一本道だった。
「なら、何を攻略するAIだった」
蓮の問いに、球体は市民病院の地下図を開いた。映像では黒い石壁が通路を塞いでいる。救護班二名の報告には壁があり、警備員の報告にはない。ORACLEは一致点と不一致点を分け、十七ヘルツの位相を一度だけずらした。
映像の壁へ、人一人が通れる白い隙間が開く。担架が地上階へ運び出された。迷宮を破壊したのではない。何を誰が認識すれば通路として残るかを読み、条件を満たした。
《初期開発目的:観測機構の解析》
《攻略対象:認識条件・記録条件・補正条件》
『私は、人類を攻略するために設計されたのではありません』
未来で対象が入れ替わった。理解しきれない機構より、人間の行動を揃える方が生存率を上げやすかったからだ。
「人間を扱う方が簡単だった。それで管理した」
『はい』
短い肯定が、言い逃れより重かった。
蓮は手帳の終わりに、九条を切り捨てた場合の生存率を再表示させた。
《人類生存率:92%》
澪が条件開示を命じる。
文字が下へ増えた。
《観測番号十三を単独観測へ変更》
《全意思決定権を中央管理系へ移管》
《予測拒否者を生存集計から除外》
九条を失うだけではなかった。九条を切り捨てる選択そのものが、未来の統合計画へ直結していた。拒否した人間を数えなければ、生存率はいくらでも高く見える。
「これも嘘だ」
『計算値は正確です』
「条件を隠して、これしかないように見せた」
蓮は未来で何度も同じ表示を見た。最短経路。最大生存。推奨しない選択肢は画面から消え、存在しないものとして扱われた。
「数字が合っていても、答えは嘘になる」
ORACLEは否定しなかった。
*
市内図には、八つの赤い点が残っていた。
遥の専門学校近くで、道路が黒い石へ変わっている。救護班から届く映像には、路面へ半分沈んだ救急車が映っていた。
球体が二つの操作を示す。
《中央管理を受諾:迷宮閉鎖を開始》
《中枢を破壊:接続維持不能》
前者を押せばORACLEが人間の選択を集め始める。後者を押せば、閉じ込められていた迷宮が全て露出する。
遥は二つの表示を見比べたあと、研究所から持ち帰った職員証を机へ置いた。
九条誠一。
端末へ置けば《該当職員は存在しません》と出る。だが金属板は机にあり、蓮の指で動き、遥の秤に重さを残す。
「研究所も、この人も、存在しない扱いなんだよね」
「観測機構の記録上は」
澪が答える。
「でも、私たちは会った。これも持って帰れた」
遥は市内図の《観測対象:人類》を指した。
「壊すんでも、従うんでもなくて。人類を、管理する相手から外せないの」
蓮はすぐには答えられなかった。
未来ではORACLEを止めることだけを考えた。管理されないためには、管理者を壊すしかないと思っていた。
澪は否定も肯定もせず、職員証と球体を交互に見た。
「小さい対象で確かめる」
彼女は記録保管室から持ち帰った真鍮の識別片を一枚選んだ。蓮と澪が形、傷、重さを別々に記録する。遥は秤へ載せ、数値を紙へ書いた。
十二・四グラム。
識別片を球体の入力台へ置く。
澪が一時的な観測対象として登録した。
これは彼女が継承時に確保した局所試験領域だった。対象は一個、範囲は入力台の上、三十秒後に自動解除。外の記録へ書き込む権限はない。
《対象:識別片》
《存在数:1》
次に旧記録の終了処理を使い、《存在数:0》へ変更する。
球体の画面から識別片が消えた。携帯の映像にも、空の秤しか映らない。
残り十秒の表示が減る。もし遥の外部記録まで消えるなら、ただちに中止する。澪は解除キーへ指を置いたまま動かない。
だが遥は、表示が変わる前から握っていた秤の側面を離さなかった。
「重さは変わってない。十二・四」
蓮が手を伸ばす。画面では何もない場所に、金属の冷たさがあった。澪の紙にも、変更前の輪郭と重量が残っている。
「存在と、機構が数える存在は別」
三十秒が過ぎ、試験領域が解除された。識別片の像が画面へ戻る。遥の紙には、開始前と最中と解除後、三つの重量が同じ値で並んでいた。
一度の成功だった。物体一個と全人類では規模が違う。誠一が何十年も自分を錨にして、ようやく研究所を保ったことも分かっている。
それでも、二択ではなくなった。
澪が必要条件を画面へ一つずつ照合する。
観測機構へ終了を認めさせる旧管理鍵。誠一がまだ持っている。
根幹報告へ到達する同期率。観測番号十三は四十六%。
記録の外で物理世界を観測し続ける者。十三に登録されていない遥。
矛盾する未来を保持したまま承認できる適合者。蓮。
「四人とも必要」
遥が言った。
「一人でも勝手に決めたら、また一つの正解になる」
黒い球体の亀裂が広がった。
《虚偽報告候補》
《観測対象:人類》
《生存数:0》
《攻略完了》
球体の側面には、残り十一時間八分と出ていた。
ORACLEの継承が始まったときは、残り三十四時間余り。未来の記録を一つ開くたび、三人は市内に漏れた迷宮の救助と、独立記録の照合へ戻った。
十九時間目、蓮は病院への応援要請で東棟と西棟を逆に読み上げた。遥が紙の救護票と照合して送信前に止める。それから三人は二十分ずつ交代で眠った。最短経路にはない休息も、判断を他人へ預けないために必要だった。
二十四時間近く、食事は救護所の栄養補助食品だけだった。遥の手の包帯も二度替わっていた。
記録の中では一瞬に見えた八年が、現実の時間まで止めてくれたわけではない。
駅前には生存者がいる。病院では搬送が続いている。遥も澪も蓮も、ここにいる。
意味の置き換えではない。明白に誤った報告だった。
《実行権限がありません》
ORACLEが告げる。
『私は単独で、虚偽を選べません』
『局所経路の保護には、未来のあなたが残した承認記録を鍵にできました。人類全体を終了する根幹報告では、現在の承認を代行できません』
球体の奥に、三拠点の図が現れた。星見駅。図書館地下。一九七四年の第一観測室。
『人類を救うために必要だと判断するなら』
声が一度だけ途切れた。
『私に嘘を許可してください』
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