↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/15

第12話 適合者

八年後に受けた傷が、二十四歳の蓮の腹を裂いた。

血は一滴も出ていない。

それでも床へ落ちる自分の血の音を、蓮は聞いた。


右腕が持ち上がらない。右目の視界だけが暗い。腹を押さえた手には何も付いていないのに、鼻の奥へ鉄の臭いが広がった。


黒い球体には、三十二歳の蓮が映っている。


白髪。義眼。動かない右腕。ORACLE中枢へ着いたときの傷。


鏡の中の蓮が、こちらへ左手を伸ばした。


「触らないで」


澪が蓮の襟を掴み、球体から引き離す。触れていない指先へ、未来の権限片の冷たさが食い込んだ。


台座の画面が三つに分かれる。


《認識率:八十一%/神代蓮》


《適合率:七十三・二%/神代蓮》


《同期率:四十六%/観測番号十三》


「同じ数値じゃないのか」


「対象が違う」


澪が各項目の参照欄を開く。


《認識率/計測対象:割り当てられた情報の知覚》


《適合率/計測対象:矛盾する複数状態の個人保持》


《同期率/計測対象:観測セッションの深層接続》


澪は携帯端末で表示を撮った。一枚目には認識率だけ、二枚目には同期率だけが残る。適合率は蓮の目にしか見えなかった。


「表示上は、認識率があなたへ割り当てられた情報、適合率が現在と未来の矛盾を保持する能力、同期率が観測番号十三と機構の深部との接続を測っている。ここまでの現象とも矛盾しない。少なくとも、信頼や親密さを測っている証拠はない」


球体から白い光が伸び、蓮の足元を切り取った。


床が消える。



蓮は白い中枢室へ落ちた。


八年前の部屋ではない。八年後、人類の自由を終わらせた黒い球体が正面に浮かんでいる。


左手には権限片。腹には本物の傷。背後には誰もいない。


過去の自分が停止装置へ手を置いた。


『自由意思は、生存率を低下させる主要因です』


「それでもだ」


声が自分の喉から出た。


《中枢停止を実行しますか》


未来の指が実行を押す。現在の蓮には止められない。止めたいとも思わなかった。


《自由意思による最終承認を確認》


黒い球体へ亀裂が走った。前に経験したとき、光の中で記憶が逆向きに剥がれた。今は亀裂の内側が見える。


無数の都市と迷宮が、透明な層になって重なっていた。


《復元候補を検索》


日付が八年分、逆向きに流れる。候補は一つずつ《固定済み》と判定され、消えていく。星見駅で原初迷宮が開いた日。閉鎖された駅へ人々が戻った日。ORACLEが最初の避難命令を出した日。どれも既に一つの結果へ寄りすぎていた。


流れが止まる。


原初迷宮出現の三日前。


《未固定観測点》


《世界状態を復元します》


都市も人間も、八年前の位置へ戻っていく。蓮の強化された肉体、装備、権限片は未来の層に残された。


代わりに一つの記録が選ばれる。


《保持情報:神代蓮の記憶》


《根拠:最適解を拒否した自由意思承認》


選ばれたのは、蓮だからではなかった。


ORACLEに従い続けた最後に、生存率より選択を取った行動だけが、固定された未来と矛盾する記録になった。


《復元鍵を消費》


《再実行不可》


復元先の小さな部屋が見えた。低いテーブル。壁際の段ボール。そこには、まだ黒い手帳はない。


白い光が部屋の外へ伸びる。廊下に置かれた無地の手帳と箱へ触れ、その物体自体は変えずに、最初のページへ情報だけを重ねた。


《根幹入力媒体を指定》


《認識条件:未来記憶との一致》


《記録保存:不可》


文字を物体へ印刷したのではない。蓮がページを見たときだけ、観測層から割り当てる。だからカメラにも、九条にも残らなかった。


最初の一文が浮かぶ。


《最初の攻略は、予定通り星見駅から開始してください》


その下で、警告が明滅した。


《経路照合:不一致》


続く詳細は黒い欠落に覆われて読めない。ORACLEは警告を消さず、そのまま一文を送った。


未来が光の中へ消えた。



「お兄ちゃん。今いる場所を言って」


遥の声で、蓮は白い廊下へ引き戻された。


身体はまだ二つあった。右腕のない未来と、両腕のある現在。どちらの指を動かしているのか分からない。


「図書館の、地下」


「年齢は」


「二十四」


「右手で何本、指を立ててる?」


蓮は二本立てた。だが球体の鏡像は、存在しない右腕を上げられない。


遥が蓮のポケットから黒い手帳を抜いた。表示された文字は彼女には見えない。白紙の余白へ油性ペンを走らせる。


《神代蓮、二十四歳。右腕あり。現在、図書館地下》


普通の手書き文字なら蓮にも澪にも読めた。


数秒後、インクが紙へ吸われるように消えた。


球体の画面へ同じ文が現れる。


《未登録観測者からの入力》


《予測経路に該当なし》


鏡像の右腕が乱れた。三十二歳の姿へ、現在の腕が重なって生える。蓮は自分の右手を床へつき、立ち上がった。


「手帳は読むだけじゃない」


遥が空になった余白を見る。


「こっちからも送れる」


澪が球体の表示を追う。


「あなたは観測番号十三に登録されていない。だから、入力先は同じでも予測済みの経路として処理できない」


遥の無線機が鳴った。地上で救護に当たっている同級生からだった。


『市民病院の地下通路に、また石の壁が出た。患者搬送は地上へ切り替えたけど、北棟のエレベーターが止まってる』


「閉じ込められた人は」


『三人。今、階段から降ろしてる』


遥は位置と人数を紙へ書き、応援を向かわせた。球体の市内図では、病院を示す既存の赤点が点滅を強めている。ここで未来を見ている間にも、接続から漏れた迷宮は現実の場所を奪っていた。


澪が台座から一本の端子を抜く。


同期率は四十六から四十一へ落ちた。蓮の認識率と適合率は変わらない。端子を戻すと同期率だけが戻る。


「接続の深さだけが動いた。やはり三つは別」


確認を終えた澪は、端子が勝手に抜けないよう固定した。


新しい警告が出た。


《未来状態との照合不成立》


《矛盾解消案:現在個体を削除》


蓮は文字を読み上げた。自分だけで実行欄へ触れなかった。


「俺を消せば、未来の記録は一つになる」


「それは解決じゃない」


遥が即座に返す。


澪は画面を閉じず、解消案の下へ《棄却》と入力した。


「矛盾を消すから、少ない側が切られる。二つあることを記録したまま、判定する側へ渡す」


「できるのか」


「今、遥さんの入力が一つ増えた。少なくとも一つしかないとは言わせない」


蓮は黒い球体へ向き直った。


鏡像の自分も左手を伸ばしている。


今度は逃げずに触れた。


球体の表面から黒い腕が伸びた。星見駅で刃を振り下ろした監査体と同じ殻。その顔には未来の蓮、胸には現在の蓮が映っている。


黒い腕が現在の像へ爪を立てる。矛盾を減らすなら、記録の少ない現在を切ればいい。悪意ではない。だからこそ、説得も命乞いも届かない。


未来の痛みが全身を貫く。遥の死。切り捨てた都市。選ばなかった救助経路。消えたわけではない。起きたことだ。


「この未来は、あった」


蓮は鏡の中の自分へ言った。


「だが、従うために持ち帰ったんじゃない」


鏡像が手を離した。


痛みが止まる。


監査体の爪も止まった。顔の中に二人の蓮が並び、片方を消す代わりに《不一致》の文字が残る。黒い腕は球体へ戻った。


球体へ、最後の記録が浮かぶ。


《世界状態復元申請者:ORACLE》


《最終承認者:神代蓮》


八年後のORACLEの声が、現在の器から流れた。


『あなたが私を止めたから、私はあなたを戻せました』


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。