第五話 忘れ去られたい王太子の婚約者 Sideミテル
「何故、私が、トロイ殿下の婚約者にならなければならないのですか…」
王家からの強い要望を受け、断ることは不可能だったとはいえ、母以外の家族が国外逃亡すら視野に入れて反対してくれていた。
それなのに、母マリアの説得により、ミテルは、トロイの婚約者に据えられてしまった。
「お母様も、ご存じだったではありませんか……」
ミテルが、幼い頃からサトイに恋していることは、リメンバー公爵家の者なら使用人まで知っている事実だった。
しかし、厳格な家で育ったマリアは、貴族令嬢が家の為、国の為に為すべきことが何なのかを叩き込まれて育った人間だった。
今でこそ、子沢山の仲良し家族として有名なリメンバー家だが、先代の当主は男尊女卑の強い人間で、新参者のマリアを手酷く痛めつけた人物でもあった。
それでも、実家の伯爵家が援助を受けている手前、先代が当然馬車の事故で死ぬまでは、我慢に我慢を重ねてきた過去がある。
「もし、仮に、貴女がトロイ殿下と婚約しなかったからといって、サトイ様が貴方を愛してくださるわけではないのよ」
この時のミテルとサトイの繋がりは、同じ年頃の子供達が集められた茶会で、誤って池に落ちた彼女をたまたまサトイが助けただけだった。
当時から魔法に長けた彼が、浮遊魔法をミテルにかけ、池の中から浮き上がらせた場面は、その場にいたもの全てを驚かせた。
しかも、彼は、遠く離れた席に座ったまま、それを成し遂げたのだ。
ミテルは、心を込めてお礼の手紙をしたためた。
しかし、返事は、明らかに代筆だった。
いくら公爵令嬢と言えども、軽々しく王族の子息と交流することなど許されていない。
残念だが、サトイは、ミテルのことを覚えてすらいないだろう。
「でも……王太子妃教育では、サトイ様ともお会いすることが多くなると思います。この気持ちを隠しきれるとは思えません……」
まだ、八歳のミテル。
どんなに聡明で大人びていたとしても、恋しいと思う人をやすやすと忘れてしまうことなど出来ない。
しかも、この婚約を受け入れれば、逆にサトイとの関わりが増えてしまうのだ。
「ミテル……そんな貴女に、秘密の魔法を教えるわ」
マリアが、実家の母から教わったという魔法は、記憶を選んで消すものだった。
貴族として生まれたからには、己の好き嫌いだけで結婚はできない。
そして、婚家に入ってしまえば、実家にも帰れず、針の筵ということも多い。
そんな中、密かに母親は、娘だけに教えるのだ。
耐えられないほどの辛さに見舞われた時に、自身を救ってくれる忘却魔法を。
世のすべての母が、出来るわけではない。
しかし、歴代魔力量の多さを誇るマリアの一族は、母が嫁いでいく娘にしてやれる最後の愛だと信じ、口伝で伝えてきた。
それ程までに、貴族として生きる女性は、辛く苦しい人生を歩まされ続けてきたと言ってもいい。
特に、王家に輿入れするとなると、世継ぎのために側妃も受け入れなければならない。
正直、普通の人間なら精神を壊されても不思議ではない魔窟なのだから。
「お母様は、サトイ様への恋心を忘れろとおっしゃるの?」
「貴女が、辛ければ、そうすればいいわ」
「………分かりました」
こうして、サトイへの思いを忘れ、ミテルは、トロイの婚約者になった。
しかし、人間の感情とは、そう簡単には行かない。
会う機会が増えてしまうと、忘れても、忘れても、ミテルは、何度もサトイに恋してしまう。
そして、いつしかサトイまでもがミテルに向ける温かな眼差しを向けるようになっていく。
口にせずとも伝わる互いの思い。
「こんなはずではなかったのに……」
既に後戻りできない王太子妃への道を歩み始めてしまったミテルは、後悔と絶望で毎夜枕を涙で濡らした。
それでも、日中は、少しでもトロイをまともな道に引き戻そうと必死に足掻く。
口うるさく指導するほどに彼との距離が広がっていってしまい、本末転倒な状況に、また落胆する。
こんな日々を繰り返していたある日、突如彼女にとっての救世主が舞い降りる。
「聖女様が、降臨されたのね…」
トロイに殴られそうになった恐怖よりも、自分の代わりを務めてくれる人間が現れたことに歓喜する。
たとえサトイと結ばれることは不可能であったとしても、心の中で慕い続けることは可能だ。
元王太子妃候補を嫁に迎えようという者もいるかもしれない。
しかし、家格的に大公以外は皆リメンバー家よりも下。
無理強いされるような嫁ぎ先に行かされることもないだろう。
興奮状態の生徒達が歓声を上げるのを聞きながら、ミテルは、全身の力が抜けるのを感じた。
このまま座り込んでいれば、誰かに踏みつけられることも起こり得るだろうが、足に力がはいらない。
ずっと緊張状態に耐えてきたことで、解放された時の安堵感が、逆に何が何でも立とうとする気力を奪っていた。
そんな彼女に手を差し伸べたのは、恋してやまないサトイだった。
ミテルの体に手を回すと、力強く引き上げて立ち上がらせる。
そして、手を握ると、聖女に向かって走る生徒達とは逆方向に向かって歩き出す。
「サトイ様……我らも、聖女様を迎え入れる準備をしなければ……」
「ミテル、もういいんだ。君は、十分頑張った。聖女が降臨すれば、王太子妃の座は自動的に彼女へと移ることは知っているね?」
王太子妃教育の中で、聖女に関しての記述は幾つもあった。
このような場合は、潔く身を引くようにと書かれる文字を見ながら、何度、聖女が現れることを願ったことだろう。
質問に頷きで答えると、フワリとサトイの口の端が上がった。
それは、見惚れるほどの笑顔。
「君は、今この瞬間をもって、王太子妃の任を解かれる。これは、婚約の際に署名させられた婚約届にも明記されていることだよ」
「そうなのですか?」
「あぁ、私が、君に嘘を言ったことがあるかい?」
王太子の婚約者になってからというもの、唯一信じられたのはサトイの言葉だけだった。
誰もが、あわよくば未来の王妃に取り入ろうと作り笑いと信憑性の薄い噂話を持ち込んでくる。
常に冷静に、受け入れられぬよう細心の注意を払い続けることの、なんと苦痛なことか。
ただ、サトイだけは、心を許して他愛も無い話をすることができた。
彼を信じずして、誰を信じるというのだろう。
中庭の外れまで来た時、ミテルは、一度だけ後ろを振り返った。
「皆が、私たちのことを忘れてくれたら、どんなに良いことかしら」
「忘れて欲しいのかい?」
「えぇ、私には、貴方様と家族以外は、煩わしいもの以外の何ものでもありませんもの」
この時、ミテルは、気づいていなかった。
忘却魔法が、己自身以外にも掛けることができる魔法なのだと。
彼女の深い願いは、期せずして、国全土を覆い尽くす程の成果をみせた。
何故なら、手を繋ぐサトイから供給される魔力が、それを成すだけの力をミテルに与えたからだ。
こうして、この場から去った2人は、誰にも追跡されることなく王城をあとにした。




