207.つないだ手と生きる世界
セーフエリアでの待機は三十分程度のことだった。すぐにグロウモスの討伐が終わったという知らせが届いて、ほどなく黄金の麦穂のメンバーが揃って迎えに来てくれた。
「ジーナがそこらじゅう焼き払ってくれたから、もう心配はいらないよ。あれだと蛹の残骸だけでなく周辺の卵も全滅したんじゃないかな」
「と言っても、少しやりすぎですよ。途中からグロウモスの討伐より延焼を防ぐのに魔法を使っていた気がします」
「悪い悪い。でも虫系の魔物は繁殖力が高いから、見えているうちに焼き払っておいた方があとあと楽だからね」
「もう、困った人ですね」
そう言ってはいるものの、ジェシカもジーナのそうした魔法の使い方には慣れているらしく、頬に手を当てて苦笑を漏らしている。
「風の魔法で周辺を探索したけど、もう問題になるような魔物は近くにはいないはずだ」
「そうは言っても、グロウモスの群れと行き当たったのも予定外のことだったからな。念のため、今夜はセーフエリアで過ごした方が良いかもしれない」
ウォーレンの報告にライアンは慎重な意見を見せるけれど、それにはカイラムからストップがかかった。
「すでにテントを建てたのだし、貴殿らが安全だという判断があるなら問題ない。このセーフエリアとやらも非常に重要な場所なのだろうが、二度とないチャンスかもしれない。ダンジョンでの夜を過ごさせてもらいたい」
元々第四階層にはそれほど危険度の高い魔物が出るわけでもなく、グロウモスも群れになると厄介だが、心身が弱っている状態でもない限り健康な冒険者にはそれほど手応えのある生き物ではないとされている。
貴人の警護として万全を期しておきたいというライアンの判断は尤もなものだが、カイラムには受け入れがたい様子だった。
「しかし……」
「あの、できたら……私も元のテントに戻りたいです」
「オーレリア?」
基本的にこうした場でオーレリアが自分の意見を口にするのは珍しいことだ。かなり勇気が必要だったし、警護の迷惑になると思うと緊張で口の中がひどく乾く。
ウォーレンもここでオーレリアが意見を言ったのが意外だったのだろう、不思議そうな表情をこちらに向ける。
ダンジョンが決して安全な場所ではないとわかっていて、それでも来ると決めたのは自分だった。付き合いの深い黄金の麦穂のメンバーが全員で警護にあたってくれるという心強さもあったし、実際に足を踏み入れてみれば彼らのエスコートのおかげで、ダンジョンの不思議で魅力的な部分ばかりを見せてもらっていたと思う。
でもこのセーフエリアはなんだか怖い。
これまで自分は全く違う世界に生まれ変わってしまったのだと思っていた。付与魔術の術式が前世で使っていた漢字と同じものであるというのは不思議だったけれど、どういう理由でそうなっているのか調べる手立てなどあるはずもなく、いつの間にか自然と受け入れていた。
「ライアン、主賓の二人がこう言っているし、周辺に危険がないのは確認済みだ。ギルドからのオーダーは安全に、かつ満足いくようにダンジョン内の探索をサポートするというものだ。ここで夜を明かして明日の朝そそくさと帰るんじゃ、折角の探索が後味の悪いものになるんじゃないか?」
「まあ、元々第四階層はそんなに危険なところではないし、不測の事態も収まったし、いいんじゃない?」
ウォーレンに続きアルフレッドがそうとりなしてくれたことで、ライアンもやや渋い表情を残しつつ、頷く。
「……確かにダンジョンの中で神経質になりすぎても仕方がないな。夜の警備をもう少し手厚いものにして、周辺の警戒をより強いものにすれば問題ないだろう」
「さすがリーダー。収穫したものもベースに置きっぱなしだもんな。一応見張りは残してきたけど、すこし目を離したらスライムに掻っ攫われてたなんて笑い話にもならないし、とっとと戻ろうよ」
ジーナが明るく言ったことで、その場にいた人々の空気がふっと和らいだ。
元々荷物はほとんど持たずに移動したため準備することもなく、カイラムとオーレリアの体調についてライアンから軽く質問があっただけで、すぐにベースに戻ることになる。
行きと同じ道程を戻るだけだが、黄金の麦穂のメンバーが全員何事もなく戻ってきたこともあり、帰りの道中はずっと気が楽なものだった。
それでもいろいろと考えてしまい黙り込んでいるオーレリアに、ウォーレンが軽く肩に触れて注意を引く。
「オーレリア、そこに石が出ているから、気をつけて」
「あっ、ありがとうございます」
魔物的な危険はなくても、王都の街中のように整備された道を歩いているわけではない。気をそらしたままでは木の根に足を取られたり、うっかり草で肌を傷つけたりすることもあるだろう。
「あの、ウォーレン、我儘を言ってしまってすみません」
あの場所から離れたくて、警護を請け負っている彼らに負担を増やすような頼みをしてしまったことが、今さらじわじわと罪悪感を煽ってくる。
「俺たちはいいけど、大丈夫? 何か無理をしてない?」
それなのにウォーレンの緑の瞳には、こちらを慮り気持ちに寄り添おうとしてくれる色しか浮かんでいなかった。
まだ気持ちが揺れているのを感じる。自分の臆病さが嫌になる反面、気遣ってくれているウォーレンに、じんわりと胸が温かくなった。
「……また手を繋いでもらってもいいですか?」
その申し出に、ウォーレンは驚いた顔をしたけれど、勿論と言って手を差し伸べてくれる。
「すみません」
「大丈夫。オーレリアが転んだりしたらそっちのほうが心配だし」
明るく言ってくれるウォーレンに微笑んで、軽く、握ってくれた手を握り返す。
グローブに包まれたその手は大きくて、力強い。どこに行ってもこの手を握っていれば引き戻してくれると思える、そんな手だ。
子供の頃、前世を懐かしんで何度も一人で泣いたことがあった。
前世の優しかった家族と、平和で危険のない便利な世界での暮らしに戻りたくて、どれだけ手を伸ばしても届かないそれに何度も絶望して。あれほど望んだ前の世界とこの世界の交差が、どうしてこうも怖く感じるのだろう。
――今は、違うから。
自分が生きているのはこの世界だ。大事な人たちがいて、振り回されることも多いけれど好きな仕事をして、たくさんの人に助けられている。
オーレリア・フスクスが、紛れもなく今の自分なのだ。
「オーレリア、さっきも少し話したけど、ギルドが今夜のためにいい肉を用意してくれているんだ。王宮にも卸している牧場から取り寄せた、すごくいい肉でね」
ウォーレンの声に顔を上げると、彼は前を向いていて、目は合わなかった。
けれどしっかりと、オーレリアの手を握ってくれている。
彼の視線を追うように前を向けば、先頭を進むライアンの明るい金髪、その後ろにカイラムとセラムが何か低い声で会話していて、その両隣にはジーナとジェシカがついている。
そこにウォーレンとオーレリアが続き、後ろはアルフレッドとエリオットが殿を務めてくれている。
人数分の足音、低い声での会話、歩くたびに草に触れるときの音や感触。そういったものが急に戻ってきた感じがして、今までどこか、心ここにあらずだったのを自覚する。
「それは、とても楽しみですね」
「うん、厚切りに塩を振ってステーキにしただけで十分美味しいんだけど、じっくりと焼いた野菜と一緒に薄切りにしたものを何枚かパンに挟んで、こう、ガブリと行くのもすごく美味しいんだ。貴族の食卓では出ない食べ方だから、俺なんかは逆にそちらのほうが贅沢に感じるくらいなんだけど、今日はテノヒラタケがたくさん採れたから、それと合わせても絶対美味しい!」
明るい口調が誰のためのものか、その優しさが誰に向けられているのか、ちゃんと理解することができるくらいには、ウォーレンのことを知っている。
すう、と息をすると、ようやく肺が膨らんで深く呼吸することができた。
「テノヒラタケの美味しい食べ方、前に教えてくれましたよね。バターでじっくり焼いて塩を振ったらすごく美味しいって。あれも試してみたいです」
「それもしよう! あと、「レトルト」のシチューをいくつか持ってきたから、温めてそれに入れるのをやってみたかったんだ。テノヒラタケはダンジョンから持ち出せないから……」
ウォーレンの返事に笑って、答えて、また彼が美味しい提案をしてくれて。
そうしているうちに、体の芯が冷えるような気持ちはだんだん薄れていって。
しっかりと手をつないだまま、ベースへの道をゆっくりと、進んでいった。




