208.心地よい距離と揺れる炎
パチンと、薪に使っていた木が高い音を立ててはじける音が響く。
ダンジョンの中はいつでも一定の明るさを保っているけれど、地上ではとっくに夜半を過ぎた時間だ。カイラムとオーレリアは夕食を終えてとっくにテントの中に設えたベッドで眠りについている。
ギルドが派遣した先遣隊やカイラム個人の護衛もいるため、寝静まったところを忍び寄ってくるスライム除けの不寝番は必ずしも必須ではなかったものの、不測の事態に備えて黄金の麦穂から交代で二人ずつ夜番につくことになった。
「こうしてダンジョンの中で火を焚くのも久しぶりだな」
ウォーレンがそう漏らすと、夜番の相方を務めるアルフレッドは、小さな金属製のやかんを火にかけながらそうだねと素っ気なく応じる。
やがてコーヒーの良い香りが周囲に漂い出した。
「夕飯を腹いっぱい食べたから、どうにも眠くていけないや。前はこんなことなかったのに、現場を離れていると勘が鈍るもんだね」
去年の夏に最下層の踏破を果たして以降、ライアンとエリオット以外のメンバーがダンジョンに潜るのはこれが初めてである。黄金の麦穂は比較的準備期間を長く取るパーティだが、最後に潜ってから一年も間が空くのは、さすがに初めてのことだった。
「俺もちょっと鈍っている感じがするよ。一応鍛錬は続けているんだけど、ダンジョンの空気から離れすぎたかもしれない」
「僕はてんでダメだね。最近書類仕事が多かったから体力も落ちている感じがする」
実際、今後黄金の麦穂が第一線の冒険者パーティとして活動を再開することがあるのか、今でも先行きは不透明なままだ。
それに対して以前のような焦燥をあまり感じなくなってしまっている自分にも、少しばかり危機感を覚えないでもない。
以前は王都に縛り付けられ自由を奪われている感覚がひどく疎ましかった。それから逃げるためなら仲間たちとすべてを捨てて中央大陸からすら出奔しても構わないとすら思っていた。
けれど、この一年でずいぶん色々なことが変わった。
随分と色々な葛藤もあったけれど、時々弟たちと会うこともできるようになった。望まぬ結婚を回避することができて、何よりオーレリアに巻き込まれるようにいろいろな問題に直面し、それを解決していく日々は決してダンジョンの冒険に劣ることのない刺激的な日々だ。
もし今同じ選択を突きつけられても、きっと自分は迷った挙句、ここに残ることを選ぶだろう。
そうやって少しずつ変わっていく中心には、いつもにんじん色の髪をした女性がいた。
アルフレッドがコーヒーを注いだカップを差し出してくれる。どんな状況でも快適な衣食住はできるだけ削らない方がいいというのがアルフレッドの信念だ。おかげでダンジョンの中でまるで紳士クラブで飲むような本格的なコーヒーを味わうこともできる。
「オーレリア嬢は大丈夫そうだった?」
まるで心を読まれたかと錯覚するようなタイミングでそう聞かれて、思わず体をこわばらせてしまう。ライアンとはまた別の意味で目ざといアルフレッドは、ニヤリと少し意地悪そうに口角を上げて笑う。
「セーフエリアへの移動の間か、避難している時に、何かあった?」
ウォーレンがそれを聞きたいと思っていたのは、アルフレッドに読まれていたようだ。アルフレッドは赤く焼けた枝を軽くかき混ぜると、少し考えるように間を置いた。
「僕が見ている範囲では、変わったことはなにもなかったはずだ。道中怪しい気配はなかったし、セーフエリアまでもスムーズに移動できた。ただ、セーフエリアについた直後に様子がおかしくなって、それからずっと何かに動揺しているように見えたよ」
「そうか……」
アルフレッドがそう言うなら、少なくともその異変が起きた理由はオーレリアにしか分からないものなのだろう。
おそらく、自分が一緒にいてもそうだったのではないだろうか。
いつもと同じように振る舞おうとしながら、空色の瞳には強い不安が滲んでいるようだった。視線で自分やジーナやジェシカを追いかける様子が気がかりだったし、それなのにいつもと変わらないように見せようとしている姿は、痛々しくさえ感じさせた。
――月下桃を食べていた時は楽しそうにしていたのに。
何がオーレリアを不安にさせているのか。そう正面から尋ねたいと何度も思ったけれど、オーレリアは慎重で臆病な面がある。二人きりならともかく、周りに人も多い状態で聞いてもきっと気持ちを萎縮させるだけだろう。
「ワインを用意してくれていて助かったよ。オーレリア、お酒は好きだから」
少しペースが速いのは気になったけれど、アルコールが入ったことで少し気持ちがほぐれたのだろう、テノヒラタケのバター焼きを美味しいと言って、レトルトを絶賛していたカイラムに礼儀正しく微笑んで礼も告げていた。
疲れが滲んでいる様子だったから早めに休ませてやりたかったけれど、一人になるのを嫌がるように、中々テントに戻ろうとはせず、結局カイラムが休むと言い出すまでベースの人の中に留まろうとしていた。
ちゃんと眠れているだろうか、明日体調を崩したりしなければいいけれど。そんなことばかり、心配になってしまう。
「そんなに気になるなら、今からテントを訪ねて聞いてみたらどう? 婚約者なんだし、別にそれもいいんじゃないか。僕はこのまま起きているし、夜番を抜け出しても文句は言わないよ」
「できるわけないだろ、そんなこと」
オーレリアとの婚約は形だけのものだ。いや、たとえそうでなかったとしても、未婚のうちに夜のテントを訪ねて二人きりになるなんて、オーレリアの評判にひどい傷がつきかねない。
成人し、社交界に出入りするようになった女性は基本的に結婚相手を探しているものだし、婚約だって必ずしも結婚まで行き着くとは限らない。
恋愛は比較的寛容に認められているものの、一線を越えるとなれば話は別だ。
自分との婚約期間を終えた後、オーレリアが新しく結婚相手を見つけたとき、その評判はひどく尾を引くことになるだろう。
そう考えると、どっと気が重たくなる。
オーレリアと過ごすのはとても楽しい。美味しいものを食べて、ビールやワインを傾けながら他愛もない話をして笑い合っていると、自分の胃を痛めているような問題はすべてつまらないことのように思える瞬間もある。
彼女のおかげで、ずっと疎遠だった弟たちとも時折話をする時間を持つことができるようになった。
彼女が困っていたら真っ先に頼られたい。アリアには敵わないと思わせられる瞬間も多いけれど、自分だからこそ守れる部分もあるはずだ。
自由に彼女の思うままに新しいものを作って、それが広く受け入れられ、たくさんの人を助けていく様子をずっと隣で見ていたいと思う。
時々アリアが心底羨ましいと感じてしまうほどだ。
いつか自分が今の位置から降りて、他の誰かが彼女を守っていく未来が来るかもしれない。そう考えるだけで嫌な気持ちになってしまうし、そんな自分を身勝手だとも思う。
「オーレリアは時々、俺たちと全然違うものを見ている気がする」
一緒に過ごしていると、オーレリア自身はごく普通の善良で少し臆病な、けれど好奇心の強い女性だ。彼女を奇矯に感じたことは一度もないし、その控えめだけれど他人に対する優しさを失わない性質をとても心地よく感じる。
けれどそうした彼女の一面とは裏腹に、彼女は自分たちが見えているものとはまるで違う視点でこの世界を見ている。そう感じる瞬間も確かにあった。
けれどそれは決してウォーレンにオーレリアを遠くに感じさせるものではなかった。むしろオーレリアの気質と相反するそうした面のギャップが、オーレリア自身を戸惑わせているような気さえする。
もっと理解して助けになりたい。それがオーレリアにとって負担になるならば、何も気づかないふりをしてこれまで通り力になれるところで支えていられたらと思う。
「結局、俺は勇気がないんだろうな」
オーレリアはウォーレンが踏み込んでほしくない部分に、決して強引に足を踏み入れようとはしない。その距離感が心地よいと思っているからこそ、自分もオーレリアに踏み込むことができずにいる。
今の心地よい関係を崩したくない。
けれど、それに甘んじていつか失くしてしまうことも恐ろしい。
なにがプラチナランクの冒険者だと、自嘲したくなってしまう。
「まあ男女のことにあれこれ口を出すのも野暮ってもんだけどさ。たったひとり、この人だと思う人に出会えたら迷わない方が良いと僕は思うよ。何度も袖にされていても懲りない、情けない男からの忠告だけどね」
アルフレッドが冒険者ギルドの職員であるケイトに執心なのは有名な話だし、何度も口説いてはけんもほろろに断られているのも知っているが、本人は少しもくじけた様子をみせない。
「かっこいいな、アルフレッドは」
「僕の話聞いてた? 連敗続きの何がかっこいいのさ」
「俺は、一回断られただけで怖くなりそうだ。それどころか、困った顔をされただけで怯む自信がある」
「……うん、仲間のよしみで、今のは聞かなかったことにしてあげるよ」
呆れたように言われて、それきり会話は途切れた。
時々、薪が爆ぜる音だけが静かな空気の中に響く。
勇気を持たなければならない。心地よい距離に甘んじるだけでなく、今あるものを壊すことになるかもしれなくても、そうしなければいつか本当にオーレリアの隣にいる権利を失くしてしまうのだろう。
焚火の揺れる炎を眺めながら、それが遠い未来のことだなどと、誰にも言えはしないのだと思い。
握った拳に、知らず、力がこもっていた。




