189.香とお茶と恋愛小説
中央区に入り、王城近くの大通りで馬車を止めたセリムは、御者に少し待っているようにと告げて軽やかに座席から飛び降りる。
すでに半ば夕闇に沈みかかっている街は、等間隔に設置された明かりが道を照らしていた。この街灯と呼ばれるシステムはカイラムが殊の外気に入っているもので、ぜひザフラーンにも輸入したいと言っているが、原料はダンジョンから産出される魔力の結石のようで、全く同じままザフラーンに導入するのは難しいだろう。
夜道を明るく照らしているせいか、王都の大通りは非常に治安がいい。日が落ちても人通りが絶えることはなく、数人の冒険者風の女性が楽しげな声をあげながら堂々と歩いてさえいる。
勿論光の当たらない路地裏にはそれなりの危険が潜んでいるのだろうけれど、活気があり、一日の仕事を終えた人々が帰路を急ぎ、または食事にありつこうと移動する、そんな時間だ。
中央大陸の男性が好んで身に着けるフロックコートを着用しているセリムは、その容姿と相まって街の中に完璧に溶け込んでいる。西大陸では何かと目立つ見た目であったけれど、中央大陸に移動してからは特異な目を向けられることもなくなり、その利点を大いに利用していた。
結晶の光は数年で自然と消えてしまうらしいが、魔力さえ注入すれば再び輝きを取り戻すというし、魔力結晶を使わずとも似たようなものを作ることは可能だろう。
こういうものがあり、それがどのような結果を生むのか――机上で考えることと実際にこの目で見ることは全く別物だ。後者にはより説得力があり、最短距離で再現するのに非常に役に立つ。
そんなことを考えながら軽やかな足取りで目的の店に辿り着く。そろそろ閉店の時間だが、幸いまだ内側には明かりがついていた。
「おや、サミュエルさん、こんばんは」
ドアを開けると、そろそろ馴染みになった書店の店主が声をかけてくれる。親の後を継いだらしく、まだ若い、セリムとそう年の変わらない男だ。
「やあ、まだ開いていて助かったよ。何か面白そうな本は入ったかな」
「そうですねえ、今週は結構下取りが多かったので新しいものがいろいろ入ってますよ。そっちの棚にあるので良かったら見ていってください」
「こんな時間に悪いね」
「サミュエルさんも手放したい本があったらいつでも持ってきてくださいね」
「ありがとう。増える一方だから今度そうさせてもらうよ」
レイヴェント王国に来て約八ヶ月。この書店にはこまめに出入りしていたので、すっかり常連のようになっている。
こちらでも本はとても高価なものだが、一般人でも買うのが難しいというほどでもなく、たまの贅沢ならば手が出せる範囲の値段である。
富裕層は女性でも難なく読み書きをするというし、実際数は少ないが女性が好むような物語も刊行されている。この書店も新しい本を売るだけでなく買取も行っており、値をつけてまた新しい購買者に橋渡しをするという役割も果たしている。実際この書店の蔵書の六割ほどは古本で、誰もそれを気にしたりはしていない。
新聞の隅に連載されている小説をまとめた本や詩歌集、哲学書に学者の論文をまとめたものまで様々だ。特に女性に人気があるのは恋愛小説で、物心ついた時からザフラーンで暮らしていたセリムには、当初非常に強烈な分野だった。
何しろ、夫を亡くした女が莫大な財産を受け継ぎ、それゆえ様々な男たちに求婚されて再婚相手に誰を選ぶかという内容や、うら若き令嬢が燃えるような恋に落ち、華やかな貴族の暮らしの何もかもを捨てて田舎の牧場主のもとに嫁ぐというような、ザフラーンでは到底ありえない、不道徳とされるような内容が非常にロマンチックなものとして受け取られているのだ。
正直いまだに戸惑うことは多いものの、それだけに面白いとも思う。妻や娘を家長の所有物として扱う習慣は中央大陸にも深く根差しているのに、反面で女性たちは動きにくいドレスを軽やかなものにし、商売や社交の中心に進出しつつあり、結婚相手すら女性の意思が選択のひとつに入りさえするらしい。
こちらでも駆け落ちは重罪ではあるものの、相手の男の腕を切り落とすほどのものではないので、ザフラーンに比べたらやはり軽微な罪なのだろう。
「サミュエルさん、またその棚ですか」
「ああ、いや、一度読んでみると結構面白くてね」
店主のからかうような声に苦笑を漏らす。立派な身なりをした紳士がこの手の棚の前で足を止めるのは、それなりに目立つ行為らしい。
「案外、紳士の愛好家もいますよ。まあ皆さん、ちょっと気まずそうですがね」
「そうだね、私も妻や娘には知られたくないかな」
中央大陸でも、男性がこのような内容の本を手に取るのは男らしくないとされるのは理解できるようになった。所詮は女子供の好む甘ったるいお菓子のようなものという位置づけなのだろう。
セリムも何冊か読んだことがあるが、恋愛や遺産相続、再婚などを取り扱ったものも多く、到底セラフィナに見せられるような類の内容ではなかった。
「令嬢の甘い午睡」といういかにもなタイトルの本を手に取り小脇に抱え、「新時代の商取引と今後の展望」「中央劇場公演演目一覧」と手に取っては重ね、ふと気になるタイトルを見つけて足を止める。
「エディアカラン全層踏破記録」
去年の夏に踏破されたばかりの王都のダンジョンの探索記録をまとめたものらしい。
思えば三国目に訪れる王国としてレイヴェント王国を選んだのも、大陸の中でも最大級とされるダンジョンが二度目の踏破をされたという噂をセリムが耳に挟んだことが大きかった。
踏破した冒険者パーティの名は黄金の麦穂。先ほどまで会っていたグレミリオン侯爵と同席していたジーナとジェシカは、そのメンバーである。
セラフィナの「友人」の婚約者が黄金の麦穂のパーティの一員であることは知っていたし、その友人が主宰しているアウレル商会が今やほぼまるごと黄金の麦穂を囲い込んでいることにも調べはついていた。けれど今日だけでメンバーの半分に会えるとは予想外だった。
その本も重ねて――『令嬢の甘い午睡』を一番下にして――会計を済ませる。紙袋に入れられたそれらを受け取って馬車に戻り、そのまま王宮に向かう。
与えられた私室に戻り、フロックコートを脱ぎすててザフラーンの体を締め付けない、ゆったりとした服に着替えると、ほっとする。見た目は中央大陸に溶け込むとしても、自分はやはりザフラーンの人間であると感じるのはこういうときだ。
従者に湯を持ってくるように伝え、香炉に精神を安定させる香を入れて火をつける。すぐに湯が届いたので、手ずからカームティと乾燥させたミントを淹れてゆっくりと抽出し、砂糖をたっぷりと入れたものを傾けるとようやく全身から力が抜けた。
「少し、緊張したかな」
見舞いの品はそれぞれ気に入られた様子だったし、会話も弾んで、多少わざとらしいほどにこちらが気を遣っていると示して見せたので、あちらの溜飲も多少は下がっただろう。
カイラムがセラフィナの友人に威圧的な態度を取ったという話を聞いた時には、まあそんなこともあるだろうという程度の認識だった。
帝国は皇帝の権限が強すぎて、基本的に貴族や豪族の長といったその他の権力者の力は非常に強く制限されている。皇族は常に至高の存在として崇められ、皇族自身もそのように振る舞うことを求められるため、他者に対して威圧的な態度を取るのはごく普通の習慣だ。
カイラムもこの二年でずいぶん柔和な態度を身につけたけれど、中央大陸の女性と接する機会はそれほど多くなかったので、そもそも経験値が足りていない。相手からすれば問い詰められた、詰問されたと感じるような喋り方でもしたのだろう。
だが相手がこの国の高位貴族の婚約者であり、その高位貴族は訳ありの元王族となれば話は別だ。セラフィナがこの国に嫁ぐかどうか、それが確定するまではことを構えて好ましい相手ではない。
皇帝の一族が他者に詫びるなどあってはならないことだが、従者が気を利かせて見舞いという形にするならば問題はない。
セリムが個人的にオーレリアに興味があったということもあった。セラフィナの友人ということで彼女の周辺についてはひととおり調査は済んでいたが、知れば知るほど面白い存在だ。
現在レイヴェント王国の王都で最も話題の多いアウレル商会の主宰。次々と革新的な商品を生み出し、流行を作り続けている。
そうした話は調査書の上で知っていたことであり、平民の身分で高位貴族の婚約者に納まっているということもあって、触れれば切れるような恐ろしい女傑を想像していたが、実際に会えばなんとも人の良さそうな、素朴で朴訥な田舎娘のような印象だった。
以前遠目で見た時は美しいドレスに身を包み髪を結い上げて流行の化粧を施していたが、今日の姿がおそらく素なのだろう。
考えてみればセラフィナが気に入った相手だ。典型的な貴族の女や、損得のみを考える卑しい商人をそばに置きたがるはずもない。
婚約者であるグレミリオン侯爵はやや手ごわい感じがしたものの、彼の弱点がオーレリアであることは明らかだった。同じく、商会の共同経営者であるアリアは随分な食わせ者に思えたけれど、やはりオーレリアに強いこだわりを持っているように思える。
オーレリア・フスクスのもっとも強力な武器は、その人脈ということなのだろう。
順当にいけば、今日持参した見舞いの品の話を次回オーレリアはセラフィナに振るだろう。セラフィナも兄と友人が確執を持つことを好むはずがないので、見舞いの品の礼をするという名目でカイラムとの私的な時間を作ろうとするはずだ。
そこで改めて浄水の技術について、どこから着想を得たのか、商業ギルドに属していないザフラーンに対しどの程度の条件で技術供与の取引が可能かといった話もできるはずだ。
それこそ商業ギルドを通せばいいようなものだが、ザフラーンでの商取引は中央大陸に比べ非常に属人的であり、その技術を管理する人間の人となりも丸ごと含めて商いの対象となる。
良からぬ思惑をもって近づいてきた相手から差し出された基幹技術を、うまうまと手中にするようでは、西大陸の太陽の化身たる皇帝陛下に顔向けができない。回りくどいことが嫌いなカイラムであるが、ザフラーンの皇族の一人である以上、そうした習慣を外すことは難しい。
「いいお茶と、あちらの興味を引くようなものの用意もしておくか」
ひとりごち、スパイシーな安楽の香の香りに浸り、セリムは購入した本の入った紙袋を漁る。適当に引き抜いたそれは令嬢の甘い午睡とタイトルの入ったもので、ぱらりとそのページをめくり始めた。




