190.姉妹と旅立ちの日
週末の王都は久しぶりに灰色の雲が切れて、青い晴れ間が覗いていた。
中央区の石畳の道はあちこちに水たまりができているけれど、この時期に引っ越しをするなら、天候に恵まれたと言うべきだろう。
その日、朝早くからウィンハルト家を訪れアリアの引っ越しの手伝いをしていたオーレリアだったが、それもそろそろ終わりが見えてきたので、休憩を取ることになった。
「持って行く荷物なんて大してないと思っていましたけど、いざ引っ越しとなると案外バタバタするものですね」
応接室で温かいお茶を飲みながら、アリアはしみじみと言った。
「でも晴れて良かったです。そろそろ本格的な夏ですね」
晴れた分だけ気温も上がっているけれど、ウィンハルト家の応接室には去年試作で作ったのとは別の、新しいエアコンがすでに設置されていて、今も涼しい風を室内に送っている。
そろそろ夏呼びの雨も終わる頃で、そうなると王都は一気に夏の様相を呈するようになる。すでにいくつかエアコンの設置の依頼が舞い込んでいて、この夏はその付与に出向くことになるだろう。
涼しい風の中で温かいお茶を傾けるのは、何とも言えず贅沢な気分である。
「オーレリアが手伝ってくれて助かりました。これならスムーズに拠点に移動できそうですね」
「次は荷物を開いて片付けが待っていますけどね。これが意外と大変なんですよ」
初めて王都に引っ越して来た時は古ぼけた革の鞄ひとつに収まるだけの荷物しかなかったオーレリアだが、鷹のくちばし亭から今の拠点に引っ越した時は荷物が多少増えていて、当時は周辺がバタバタしていたこともあり、それなりに片付けが大変だったのを思い出す。
「まあ、そちらはゆっくりやることにします。当面は寝床があればいいくらいの気持ちで」
生粋の貴族の令嬢であるアリアだが、こういう部分は実にたくましい。ベッドもシンプルなものを新調してすでに拠点に運び込まれているため、持っていく物は僅かな家具以外は夏の衣類、少量の本と、ほとんどがアウレル商会に関する資料といった具合である。
午後には荷運びの馬車が来る予定なので、それまでに荷物をまとめる必要があったが、すでに大半は終えているし、オーレリアが運び出す木箱に【軽量】をかけたのでスムーズに進むだろう。
「本当に本はほとんど残して行くんですか? 部屋にあるのは、アリアの好きな本ばかりだと言っていましたが」
元々図書館に司書として勤めていたアリアの部屋には、個人で所蔵する本もたくさん並べられていた。それらのうち、商売に関わるものやオーレリアの興味のある魔物素材や付与に関する書籍以外、そのほとんどはこの家に残して行くことになるらしい。
お気に入りのものを手放すのは惜しくないかと心配するが、当のアリアはけろりとしたものだ。
「はい、気に入っているのは本当ですが、個人で持つには少し多すぎますから。どうせお嫁に行くにしても残して行くことになったはずですし、手放すいい機会だと思うことにします」
それに、これから使う本はちゃんと選別しましたしと笑っている。
現在拠点の空き部屋のうち、ひとつはジェシカの所有していた本を収めた図書室のようになっているのでそこに移したらどうかという話もあったけれど、それでも全てを収めるのは難しく、ほとんどは残すことに決めたらしい。
そんな話をしていると、応接室にアリアの姉であるレオナが入室してくる。
「アリア、あなた、ドレスはあれしか持って行かないの? クローゼットの中身、ほとんど残っているじゃない」
「お姉様、そもそもそんなに運び込むことはできませんよ。引っ越しする部屋は今よりずっと狭いんですから」
自分一人の荷物はそれほどいらないからと続けると、レオナは頬に手を当てて、でもねぇと心配げにこぼす。
「どれもあなたの気に入っていたドレスじゃない。ほら、アクアマリンに染めた夜会用のあれなんて、仕立てた時にあんなに喜んでいたし、また着たくなるかもしれないわよ」
「必要なら新調しますし、それに私だって、いつまでも娘時代のドレスばかり着ているわけにはいきませんよ、お姉様」
「あら、生意気だこと」
そう言いながら、レオナの表情はこれから家を出る妹に対する心配が強く浮いている。
「出て行く娘の荷物です。売るなり寄贈するなり、後の処分はお姉様にお任せします」
本だけでなく、ドレスもその多くは拠点に運び込む木箱に詰められることなく、それらの荷物はウィンハルト家の私財として、適宜家を継ぐレオナが処分するのだという。
元々服が好きで本が好きなアリアのことだ。多くを手放すのは寂しくないかと、心配になってしまうほどだ。
「完全に社交の必要がなくなるわけではありませんが、いつまでも貴族の家の娘みたいに振る舞うのはよくありませんしね。そこのところはちゃんと考えていますから、見守ってくださいな」
「あなたは昔から、言い出したら聞かないものね」
やれやれと言うようにレオナは微笑む。遠慮のないやりとりは姉妹の絆を垣間見せ、少しそれが羨ましく感じるほどだった。
「オーレリアさん、この子は気が強くてわがままなところがあるから、オーレリアさんにも苦労をかけることがあると思うけれど、どうか見捨てずによろしくお願いします」
「ちょっと、お姉様、やめてくださいよ」
「ふふっ、私の方こそアリアに見捨てられないように、もっともっと頑張りますね」
「もう、オーレリアまで!」
頬を膨らませるアリアに笑って、昼食はウィンハルト家でいただき、最後の片付けをしているうちに荷運びの馬車が到着する。
運ばれていく木箱はたったの五箱で、それらが運び出されても足繁く通っていたアリアの部屋は少しものが減ったように感じるだけで、ほとんど変化は見られないように思えた。
アリア自身はケロリとしているように見えるけれど、彼女がこれまで生きてきた中で手にした多くの物を手放して、新たな道を歩もうとしているのだと実感させられる。
それに深く関わっているオーレリアも、アリアの選択を後悔しないようにと、改めて身が引き締まる思いだった。
「お姉様、馬車を出してくださってありがとうございます」
荷物が運び出された後、アリアとオーレリアはウィンハルト家の馬車で拠点に向かうことになった。
これまでは当たり前に手配してもらっていたウィンハルト家の馬車に乗るのも、きっとこの先機会はなくなるのだろう。
「他人行儀なことを言わないのよ、アリア。あなたが私の妹であることには何も変わりはないのだから」
そんなアリアに、見送りのレオナは苦笑を漏らす。
「あなたもせめてお父様とお母様が在宅の日に出ればよかったのに」
「お二人はいつも忙しくなさっているじゃないですか。家を出ると言っても同じ王都で暮らしているんですから、会いに来ますよ」
そう言うアリアに、レオナは優しい瞳を向ける。
「私もこれから次期伯爵として地盤を固めていかなければならないし、とても忙しくなるでしょうから、あなたの部屋はそのまま置いておくわ」
「お姉様?」
「どうせアウレル商会はこれからも稼ぎ続けるでしょうし、あなたが自分の屋敷を買ったらまとめて引き取りに来てちょうだい」
その言葉にアリアは言葉を詰まらせ、うつむいてしまう。レオナはそんな妹に、頬に手を当てて、困ったように笑っていた。
「本当にあなたときたら、生意気で頑固で気が強い、でも私の可愛い妹だわ」
アリアは乗りかけていた馬車から飛び降りると、レオナに駆け寄って、小さな少女のようにぎゅっと抱きついた。
「……これまで、いっぱい、たくさん、ありがとうございました、お姉様」
「あなたが決めた道を、後悔のないように頑張りなさい」
「はい」
「その上で、ここはあなたの実家なのだから、いつだって帰ってきなさいね。オーレリアさんも」
「ありがとうございます、レオナさん」
改めて馬車に乗り込むと、アリアは窓からわずかに身を乗り出して、遠ざかるウィンハルト邸を見続けていた。
門の前で妹を見送るレオナは、馬車が見えなくなるまで手を振り続ける。
連日の雨が途切れ晴れ間から明るい陽光が差し込む、夏の王都のある一日。
とある貴族の家から娘がひとり旅立ったのは、そんな日だった。




