藍を染める火花③ 〜一枚だけの浴衣〜
昭和38年
呉服店の朝は、今よりずっと忙しかった。
「お母さん、これ、どう?」
フミコが、反物を広げて母親に尋ねる。
「いいんじゃない?」
「そろそろアタシも浴衣欲しいなぁ。ねえ、お父さん作ってくれないかな?」
「無理だろうねぇ。ウチのお父さん、ガンコだから」
「なんで?」
「あの人ね、店を始めた時から『着物は着るもんじゃない、売るもんだ』っていう、よく分からない信念を持ってるのよ」
「ふーん」
「私だって、父さんに作ってもらったことないんだから」
「え〜!こんなにお店に着物も浴衣もあるのに?」
「そう」
「じゃあ、アタシも無理かぁ……」
まだ幼いフミコには難しい言葉はわからなかった。だが、自分の父親のことはなんとなくわかってきていた。
「ねえ、お父さんは?」
「いるよ」
「どこ?」
「裁ち台」
フミコが店の奥に駆けていく。
そこには、父・太郎が座っていた。針を持ち、黙々と布に向かっている。
「お父さん、何作ってるの?」
「浴衣」
「誰の?」
「お前の」
「……私?」
フミコは目を丸くした。
「なんで?」
「父親が娘の浴衣を作ったって、悪いか」
「悪くないけど……」
「なら黙って着ろ」
「うん」
フミコは緩む口元を抑えながら、素直に返事をした。
太郎は、不器用な人だった。仕事では布のわずかな違いも見逃さないのに、娘に対しては言葉が少ない。だから、針を持つ手だけが、父親の気持ちを語っていた。
ある日。
太郎が浴衣を差し出した。
「ほらよ」
フミコは両手で受け取った。
藍色の生地。
そこに、小さな花火が散っている。
「……綺麗」
「そうか」
「これ、お父さんが柄を選んだの?」
「ああ」
「花火柄?」
「ああ」
「なんで?」
「お前、花火好きだろ」
「……うん」
「これ着てたら、花火になれるからな」
フミコは浴衣を胸に当てた。
「今年の花火大会、行こうよ」
そう言うと、太郎は少し困った顔をした。
「店がある」
「また?」
「夏は忙しい。浴衣を買ってくれたお客さんの着付けもある。」
「じゃあ、来年」
「来年も同じだ。」
「じゃあ10年後」
「その頃には、お前が店を手伝ってる」
「えー」
「呉服屋の娘だからな」
「じゃあ、一生花火見られないじゃん」
「店の前から見えるだろ」
「それじゃ近くで見たことにならないよ」
フミコは頬を膨らませた。
太郎は笑った。
「いつか行けるさ」
「ほんと?」
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
その夜。
フミコは、その浴衣を着た。
鏡の前で何度もくるりと回る。
「どう?」
「……似合ってる」
「もっと言って」
「似合ってる」
「もう一回」
「しつこい」
太郎は口元が一瞬緩んで、またすぐに仏頂面に戻った。
その晩、フミコは店の前に立った。
遠くの空で、花火が上がった。
――ドン。
小さな音だった。
店の屋根の向こうに、ほんの少しだけ花火が見える。
金色の光が夜空に広がり、細い火の筋が無数に垂れていく。
まるで、夜空から金色の雨が降っているようだった。
「お父さん」
「なんだ」
「いつか、もっと近くで見たいね」
「ああ」
太郎は遠くの花火に目を細めながら返事をした。




