藍を染める火花② 〜古き織物、新しき焔〜
平成8年、夏。
夕暮れ前の呉服店には、まだ昼間の熱が残っていた。
開け放した格子戸から風が入ってくる。
風鈴が、ちりん、と鳴った。
店の奥では、扇風機が首を振りながら、ぬるい風を畳の上に送り続けている。
「サブキチ」
「んー?」
「ちょっと来なさい」
「今?」
「今」
「暑いんだけど」
「だから何?」
サブキチは、店の奥からのそのそと出てきた。
まだ13歳。日に焼けた腕。短く刈った髪。
夏休みだというのに、宿題にはほとんど手をつけていない。
「何?」
「これ」
フミコが、畳の上に一枚の浴衣を広げていた。
「浴衣?」
「そう」
「誰の?」
「私の」
「母さんの?」
「そうよ」
サブキチは、浴衣を覗き込んだ。
藍色の生地。
そこには小さな花火の柄が散っている。
「古そう」
「古いわよ」
「いつの?」
「ずっと昔」
「どれくらい?」
「あなたが生まれるずっと前」
「めっちゃ古いじゃん!」
「だからそう言ってるでしょう」
「なんで怒るんだよ」
「怒ってないわよ」
フミコは笑った。そして、浴衣の袖をそっと撫でた。
「これはね」
声が少しだけ柔らかくなる。
「私のお父さんが作ってくれたの」
「じいちゃんが?」
「そう」
「じいちゃんって、浴衣作れたの?」
「ウチは呉服屋よ」
「ああ、そうだった」
サブキチは、浴衣をもう一度見る。
「でも、母さんも作れるじゃん」
「作れるわよ」
「じゃあ、なんでじいちゃんが作ったの?」
「……私が娘だったからじゃない?」
「何それ」
「親って、そういうものなのよ」
「分かんない」
「あなたは13歳だから、まだ分からなくていいの」
フミコは笑った。
「あなたのおじいちゃんはね、家族のために服を仕立てることが、ほとんどなかったの」
「なんで?」
「お客さんのために作るのが仕事だったから」
「じゃあ、これだけ?」
「そう」
フミコは浴衣を見つめた。
「私のために作ってくれたのは、これ一枚だけ」
サブキチは黙った。
藍色の生地。
小さな花火。
ところどころに、長い年月を感じさせる細かなほつれがある。
「……大事なんだ」
「うん」
「そんなに?」
「そんなに」
「じゃあ、着ないの?」
「着ないわ、もうボロボロだもの。」
そう言いながらも、フミコは浴衣を優しく撫でる。
「そっか。」
サブキチもその様子を見て、それ以上は言葉を続けなかった。
「そうだ、明日は晩飯いらない。」
「あらどうして?」
「花火大会行って来る。」
「あらいいわね、行ってらっしゃい」
フミコは浴衣を桐箪笥にしまいながら相槌を打つ。
「誰と行くの?もしかして女の子?」
「違うよ!花菱」
「あなた達仲いいわね。」
「うん」
「宿題は?」
弾んでいたサブキチの声が落ちる。
「帰ってからやる」
「本当に?」
「やるって」
「昨日もそう言ってやらなかったでしょう」
「今日はやる」
「信用できないわね」
「母さん!」
フミコは笑った。
「気をつけて行ってきなさい」
「うん」
「だからさ、今年は父さんと行って来なよ。」
「行かないわ。」
「え?」
「私は店から見るわ」
「せっかく近くで、祭りもやってるのに?」
「いいのよ」
「なんで?」
フミコは少し黙った。
「……昔から、花火大会の日は店が忙しいの」
「そうなの?」
「ええ」
「じゃあ母さん、一回も花火大会行ったことないの?」
「あるわよ」
「いつ?」
フミコは浴衣の袖を握った。
「……ずっと昔に、一度だけ」
「一度?」
「そう」
それ以上は言わなかった。
サブキチは不思議そうな顔をしたが、すぐに立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる!」
「はいはい」
「母さん」
「なあに?」
「その浴衣、着たら似合うと思うよ」
「……ありがとう」
サブキチは照れくさそうに笑って、店を出ていった。
格子戸が閉まる。
フミコは一人になった店の中で、浴衣を見つめた。
「……お父さん」
小さく呟く。
「今年も夏が来たわよ」
風鈴が鳴った。
ちりん。
その音に重なるように、遠くから祭り囃子が聞こえてきた。
「おーい、サブキチ!」
通りの向こうから声がする。
「遅いぞ!」
「待てよ、花菱!」
サブキチが走っていく。
そこにいたのは、派手な金色の浴衣を着た花菱だった。
「何だよ、その格好」
「普通だろ」
「祭りなんだから浴衣着ろよ」
「持ってねえよ」
「お前、呉服屋の息子だろ」
「関係ないだろ」
「じゃあ将来、何になるんだ?」
「知らねえ」
「呉服屋継ぐんじゃないの?」
「まだ13歳だぞ」
「俺なら継ぐけどな」
「お前、うちの店継ぐ?」
「いいの?」
「嫌だよ」
「何だよそれ!」
二人で笑った。
祭りの会場は、すでに大勢の人で賑わっていた。
赤い提灯が並び、屋台から煙が立ち上っている。
「腹減った」
花菱が言った。
「さっき食っただろ」
「フランクフルトじゃメシにならねえよ。」
「焼きそば食おうぜ」
「マジかよ?」
「祭りといえば焼きそばだろ」
「昨日も家で食ってたって言ったじゃん」
「昨日は祭りじゃない」
「じゃあ何だったんだよ」
「腹が減ってた」
「そりゃそうだろうよ。」
二人は焼きそばの屋台へ向かった。
「おっちゃん、2つ!」
「はいよ!」
鉄板の上で麺が踊る。
ソースの焦げる匂いが、鼻をくすぐる。
「うまそう」
「熱いから気をつけろよ」
「いただきます!」
花菱が勢いよく箸を入れる。
「あっつ!」
「だから言っただろ」
「熱い!」
「当たり前だろ」
「水!」
「自分で買えよ!」
二人は笑いながら焼きそばを食べた。
「なあ、サブキチ」
「ん?」
「お前の母ちゃん、今年も店から見るの?」
「ああ」
「花火、好きなのにな」
「好きなの?」
「知らないの?」
「知らない」
「俺の母ちゃんが言ってたぞ。お前の母ちゃん、昔から花火大会の日になると、ずっと店の外を見てたって」
「……そうなの?」
「たぶん」
サブキチは箸を止めた。
「母さん、花火好きなんだ」
「知らなかったの?」
「知らない。」
「いつも父さんとしか花火大会来ないし。」
空が少しずつ暗くなっていく。
祭りのざわめきが大きくなる。
「そろそろ始まるぞ」
花菱が言った。
「行こうぜ」
「うん」
二人は焼きそばの最後の一口を食べ、川沿いへ向かった。
夜空が深い紺色に変わった。
川の向こう。
二つの山の間に、打ち上げ筒が並んでいる。
「今年も同じだな」
花菱が言う。
「何が?」
「花火」
「そりゃ花火だからな」
「そうじゃなくて、形」
サブキチが空を見上げる。
「毎年同じなの?」
「だいたいな」
花菱は少し得意そうに言った。
「昔からの花火師が作るから」
「伝統ってやつ?」
「そう」
そのとき。
「お前、勝手に新しい花火玉作ったらしいな!」
少し怒気を含んだ男の声が遠くから聞こえた。
サブキチは、その言葉を聞いて振り返った。
皺の深い花火師たちが打ち上げの準備をしている。その中に、一人だけ若い男がいた。周りの職人たちと話している。
「昔からのやり方じゃ、大会は寂れていくんですよ!」
「そんなことはない。うちにはうちのやり方がある」
「だから、そのやり方を変えるんです」
「伝統を壊す気か」
「壊すんじゃありません」
若い職人は笑った。
「続けるために、変えるんです」
サブキチは、視線を向けてその会話を聞いていた。
「……なんだろうな」
「何が?」
「分かんない」
「何が?」
「伝統って」
花菱が肩をすくめた。
「難しいこと考えるなよ」
「お前は何も考えてないだろ」
「正解」
二人は笑った。
その瞬間。
ヒュルルルル……。
夜空へ向かって、一筋の光が昇った。
「来るぞ!」
――ドォン!
大きな花火が開いた。
いつもの花火だった。
赤い光。
無数の火花。
山々に音が反響する。
――ドォォン……。
「すげえ」
花菱が空を見上げる。
サブキチも黙って見ていた。
そして、次の一発。
今度は違った。
夜空に、二つの色が同時に開いた。
赤。
そして、青。
まるで二つの花が重なったように、夜空いっぱいに広がる。
「……二色?」
サブキチが呟いた。
赤い火花の間を、青い光が走る。
青い火花の向こうから、赤い光がこぼれる。
二つの色は混ざることなく、それぞれの光を保ったまま、夜空いっぱいに咲いた。
――ドォォォン!
山が鳴る。
川面が震える。
「すげえ!」
花菱が叫んだ。
「こんなの初めて見た!」
サブキチも、目を離せなかった。
「……これが、新しい花火」
その光景を見ていた人々から、次々と歓声が上がる。
もう一度。
赤と青の花火が夜空に咲く。
――ドォン!
赤。
青。
二つの色が、夜空の中で一瞬だけ重なり、そして消えていく。
「伝統を壊すって、こういうことなのかな」
花菱が呟いた。
「何が?」
「分かんない」
花菱は笑った。
「じゃあ、分かるまで焼きそば食おうぜ」
「もう食えねえよ」
「俺は食える」
「お前はすごいな」
二人は笑った。
サブキチは、もう一度空を見上げた。
二色の花火は、もう消えていた。
けれど、その光は目の奥に残っていた。
その頃。
呉服店では、フミコが一人、店先に立っていた。
夜空に花火が上がるたび、店の格子戸から光が差し込んでくる。
赤。
青。
そして――二つの色が重なる。
「……二色?」
フミコは呟いた。
遠くから、花火の音が響いてくる。
――ドォォォン。
フミコは、昼間に広げた浴衣を思い出していた。
藍色の生地。
小さな花火。
父が、自分のためだけに仕立ててくれた一枚。
「お父さんなら、何て言うかしら」
フミコは笑った。
客が手に取って少し崩れた紅色の浴衣を、また店に並べるために丁寧に畳んだ。
その頃、川辺では最後に10号玉の花火が夜空に上がっていた。
だが、サブキチの目には、目の前の花火よりも、さっきの二色の花火が焼きついていた。
赤と青。
二つの色が、最後まで互いを消すことなく輝いている。
新しい職人が、伝統に新しい“色”を混ぜた。
その夜、誰もが見たことのない花火が生まれた。
それは、たった二つの色だった。
けれど。
サブキチには去年までと全く違う感情で、帰り道を歩いていた。
去年まで、花火大会には父親と来ていた。
今年は、花菱と来た。
その違いが、何なのか。
13歳のサブキチには、まだ分からなかった。
ただ。
赤と青の二つの光が、暗い夜空に咲いたことだけは、いつまでも忘れなかった。




