藍を染める火花① 〜ひいおじいちゃんはGHQ〜
令和8年、夏。
古い木造の呉服店には、まだ開店前だというのに、薄い光が差し込んでいた。
格子戸の向こうには、朝の通りを行き交う人の影。
店内には、畳の上に積まれた反物が並んでいる。
藍。
茜。
翠。
生成り。
布を巻いた芯が何本も立てかけられ、壁際には昔から使い込まれてきた桐の箪笥がある。
引き出しを開けると、樟脳の匂いがふわりと漂う。
その匂いを、ヨツバは嫌いではなかった。
「おばあちゃん、これ、まだ使ってるの?」
ヨツバが、古びた裁ち台を撫でる。
「もちろんよ。うちの店はね、道具も人間も、簡単には引退しないの」
「人間って……」
「私のことよ」
「知ってる」
フミコは笑った。白髪の混じった髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥からヨツバを見る。
フミコは、この店を継いだ二代目だった。
そしてヨツバにとっては、大好きな祖母でもある。
「昔はねぇ、この店ももっと忙しかったのよ」
「今も忙しいじゃん」
「昔は、夏になると寝る暇もなかったわ」
「浴衣?」
「浴衣。祭り。盆踊り。花火大会」
フミコの声が、少しだけ弾んだ。
「花火大会かぁ」
ヨツバが店の奥を見る。
そこには、古い花火大会のポスターが額に入れられて飾られていた。
川を挟んで二つの山。その真ん中に、大きな花火が咲いている。
「この花火大会、毎年すごいんだよね」
「ええ。山に音が跳ね返ってくるの」
「そんなに?」
「雷が落ちたみたいよ」
フミコは、遠くを見るような目をした。
「ドォォォン……って」
低く、ゆっくり声を落とす。
「山が鳴るの」
「へぇ」
「花火ってね、見るものだと思うでしょう?」
「違うの?」
「聴くものでもあるのよ」
フミコは笑った。
「音が身体の中まで入ってくるの」
ヨツバは少し黙った。
花火の話をするときだけ、祖母の声には、いつもとは違う時間が混じる。
「誰と見に行ったの?」
「私のお父さん。だから、あなたのひいおじいちゃんよ。そして、この呉服店を始めた人。」
「へー!」
初めて聴く家系の歴史に、ヨツバの声が熱を帯びる。
「ひいおじいちゃんって、どんな人だったの?」
「そうねえ」
フミコは、少し考えた。
そして、何でもないことのように言った。
「うちのお父さんはね、GHQでね」
「……は?」
ヨツバの手が止まった。
「GHQ?」
「そう」
「ウチって、代々日本人の家系だよね?」
「そうよ」
「……ひいおじいちゃん、何者?」
「何者って?」
「GHQって、あのGHQ?」
「そうそう」
フミコは頷いた。
「いやいやいや」
ヨツバは思わず笑った。
「おばあちゃん、GHQってアメリカの占領軍だよ?学校で習ったもん。」
「そうだったかしら」
「そこに、ひいおじいちゃんがいたの?」
「いた……んじゃない?」
「なんで疑問形なのよ」
「昔のことだから忘れたわ」
「忘れちゃダメでしょ!」
二人で笑った。
けれど。
フミコは笑いながら、店の奥にある桐箪笥を見た。
桐箪笥の一番下。
そこには、何十年も大切にしまわれてきた浴衣が一枚ある。
藍色の生地。小さな花火が散った柄。
フミコは、その浴衣のことを決して忘れていなかった。ヨツバにはまだ見せたことはない。
「……あの箪笥にね、浴衣が入ってるの。」
「うん?」
「お父さんが、私に作ってくれたの。」
「へぇ」
「それが、私の宝物だった」
フミコはそう言って、微笑んだ。
「それがなかったら、私はこの店を継いでなかったかもしれない」
ヨツバは、祖母の横顔を見る。
「どうして?」
「それはね――」
フミコは、桐箪笥に手を伸ばした。
引き出しの取っ手に触れたところで、手を止める。
「……今度、見せてあげる」
「今じゃダメ?」
「ダメ」
「なんで?」
「今日はまだ、心の準備ができてないから」
「浴衣を見るだけなのに?」
「そう。浴衣を見るのには、心の準備がいるの」
フミコは笑った。
その笑顔には、どこか寂しさがあった。
店の外から、蝉の声が聞こえる。
夏は、もう始まっていた。
⸻
⸻
その日の夕方。
空が茜色に染まるころ、ヨツバは浴衣に着替えていた。
鏡の前で、帯を締める。
「どう?」
店の奥から、フミコが顔を出した。
「いいじゃない」
「ほんと?」
「ええ。ちゃんと夏祭りの女の子に見えるわ」
「なにそれ」
「いつものヨツバとは違うってこと」
「おばあちゃんだって浴衣着ればいいのに」
「私は今日は店番」
「えー」
「店を閉めたら、誰も反物を買えないでしょう」
「じゃあ私が大人になったら、おばあちゃんの代わりに店番する」
「頼もしいわね」
フミコは笑った。
「でも、今日は楽しんでいらっしゃい」
「うん!」
ヨツバは草履を履き、店の外へ飛び出した。
夕暮れの町には、昼間とは違う匂いが漂っていた。
屋台から流れてくるソースの香り。
焼きとうもろこしの香ばしい匂い。
風に混じる、少し湿った川の匂い。
通りのあちこちから、浴衣姿の人たちが祭りへ向かって歩いている。
「ヨツバ!」
声がした。
振り向くと、道の向こうから黄金崎が手を振っている。
「遅い!」
「遅くないよ!」
「だって、けっこうまったし!」
「まだ約束の時間じゃないじゃん!」
「じゃあ、オレが早かったってこと?」
「そういうこと!」
「じゃあオレの勝ち」
「何の勝負よ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「……その浴衣」
黄金崎が言った。
「何?」
「似合ってる」
「……そう?」
「うん」
「ありがとう」
ヨツバは照れを隠すように、言葉を続ける。
「黄金崎は普通の服なんだ」
「オレ、浴衣持ってない」
「お祭りなのに?」
「いいじゃん。走りやすいし」
「花火大会なのに走るの?」
「すぐに逃げられるように。」
「何から?」
「ヨツバから」
そう言うと、黄金崎は駆け出した。
「なんでよ!」
ヨツバが追いかける。
「待て!」
「ほら、走った!」
「逃げろー!」
「黄金崎!」
二人の笑い声が、夕暮れの通りに響いた。
しばらく歩くと、祭りの会場が見えてきた。
提灯がずらりと並んでいる。
赤い光が風に揺れ、屋台の明かりがその下で賑やかに瞬いていた。
「わあ……」
ヨツバが立ち止まる。
「すごいね」
「去年も来ただろ」
「去年よりすごい」
「毎年言ってる」
「だって毎年すごいんだもん」
二人は屋台を眺めながら歩いた。
「ヨツバ、何食べる?」
「りんご飴」
「それだけ?」
「あと、かき氷」
「食べすぎじゃない?」
「かき氷でそんなにかわるかな?黄金崎は?」
「焼きそば」
「おじさんみたい」
「うるさい」
二人は焼きそばとりんご飴を買った。
ヨツバはりんご飴を舐めながら、空を見上げた。
「ねえ」
「ん?」
「今日、花火何色かな」
「赤じゃない?」
「赤だけ?」
「じゃあ青」
「それじゃ二色じゃん」
「じゃあ黄色」
「三色」
「じゃあ全部」
「七色とか?」
「そんな花火あるわけないじゃん」
黄金崎が笑う。
「あるかもしれないよ」
「ないって」
「じゃあ、賭けよう」
「何を?」
「七色の花火が上がったら、ヨツバの勝ち」
「上がらなかったら?」
「オレの勝ち。何かちょうだいね。」
「え?」
黄金崎の突然の提案に、不意をつかれる。
「勝ったら何かちょうだい」
「……焼きそば半分」
「オレはもう食べちゃったし!」
「じゃあ、何がいいの?
「りんご飴にしよう」
「私が食べちゃったって!」
「じゃあ、何がいい?」
ヨツバは少し考えた。
「……秘密」
「なんだそれ」
「勝ってから考える」
「ずるい」
「いいの」
二人は笑った。
やがて、空がすっかり暗くなった。
祭りの喧騒が、少しずつ静かになる。
人々が川辺へ集まり始めた。
「始まるよ」
近くに立っている誰かが言った。
ヨツバも立ち上がった。
「黄金崎」
「ん?」
「ちゃんと見ててね」
「何を?」
「七色」
「まだ言ってるの?」
「だって、賭けてるの忘れないでよね。」
二人が空を見上げる。
一瞬。
夜空が静まり返った。
そして――。
ヒュルルルル……。
細い光が、暗闇を切り裂いて昇っていく。
ヨツバが息を止めた。
「来る……」
次の瞬間。
――ドォン!
夜空いっぱいに、大きな花が咲いた。
赤。
「赤!」
黄金崎が叫ぶ。
「やっぱり!」
しかし、その赤い花の中心から、別の色が広がった。
青。
緑。
黄色。
紫。
橙。
そして最後に、白。
「……え?」
ヨツバは言葉を失った。
七つの色が重なり合い、夜空を覆っていた。
火の粉が無数に散っていく。
それぞれの色が細い光の筋となり、川面へ降り注いでいく。
水面にも七色の光が揺れていた。
「……七色」
ヨツバが呟く。
黄金崎が隣で笑った。
「オレの負けだ」
「だから言ったでしょ」
「すごいな」
「うん……」
また一発。
――ドォォン!
今度は赤い花火。
続いて青。
緑。
黄色。
夜空が次々と色を変えていく。
ヨツバは夢中になって見つめていた。
ふと、昼間の祖母の言葉を思い出す。
『花火ってね、見るものだと思うでしょう?』
『聴くものでもあるのよ』
――ドォォォン!
音が身体に響いた。
ヨツバの胸まで震えた。
「……おばあちゃんが言ってた」
「何を?」
「花火は、見るだけじゃないんだって」
「へえ」
「聴くものなんだって」
黄金崎は何も言わず、空を見上げた。
また花火が開く。
今度は、七色すべてが一度に咲いた。
夜空が昼間のように明るくなる。
その光が、ヨツバの瞳に映った。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
「花火って、すごいね」
黄金崎が笑う。
「だから最初からそう言ってるじゃん」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
ヨツバは答えられなかった。
ただ、空を見ていた。
花火は一瞬で消えてしまう。
なのに、消えたあとも胸の中には光が残っている。
音も残っている。
色も残っている。
そして――。
いつか大人になっても、今日のことを覚えているような気がした。
――ドォォォン。
最後の花火が夜空に咲いた。
七つの色が重なった。
赤も、青も、緑も、黄色も。
それぞれ独立して光っているはずの各色が、夜空では一つの大きな花になっていた。
ヨツバは、ただそれを見つめていた。
このときのヨツバは、まだ知らなかった。
何十年も先。
この夏の記憶が、いつか自分の人生を動かすことになるなんて。
8歳のヨツバは、まだ知らない。
ただ――。
「花火って、すごい」
自分の口から出た言葉だけが、胸の奥に残った。




