07:流体力学の偶然(※ボールがポストにめり込みました)
学校に着くころにはすでに一限目が始まっていて、彩人と小毬は靴箱で別れた。彩人は自分のクラスに行き、ゆっくりと扉を数センチだけ開けて中の様子を窺う。数学の授業が行われていた。
彼は背を丸めてゆっくりと教室に入る。
するとクラスメイトたちが一斉に彩人に顔を向ける。それは教卓に立っている女性も同じだった。
「おー、空木。珍しいな。遅刻だなんて」
教卓の先生が目を丸くした。
「すみません、寝坊しました」
「私もだ。メイクする暇なかったからこんなに暑いのにマスクをしてんの。ほら、今まだ先週の復習をしていたところだからさっさと席に着いて」
彩人は自分の席に着いた。
隣の女子生徒と目が合い、眉間に皺を寄せて口を尖らせると、彼女は肩をすくめ、教科書の開くページを教えてくれた。
「……であるから、この公式とこの公式はこんがらがってしまうから注意しておくように」
先生のやや高い声。
黒板の上の剝がれかけの校訓が書かれた紙。
背筋をピンと伸ばして座っている女子生徒。
ここにも「いつもの光景」が広がっている。
彩人は左手で教科書を立て、右手でスマートフォンを触る。朝一のニュースで博物館の件について進展がないか調べるためだ。だが隣から咳払いが聞こえたため、仕方なくスマートフォンをポケットに戻すのであった。
それから授業と休み時間を繰り返し、四限目。昼休み直前の授業は体育だった。男子は校庭でサッカー、女子は体育館でバレーボールである。
「こんなに暑いときに外でサッカーをやらせるなんてどうかしているな」
ゴールキーパーの彩人が自陣ゴール前からボールに群がるクラスメイトたちを見ていると左から声をかけられた。
顔だけを動かして見れば笹部遼太郎がゴールポストの陰から顔の右半分だけを出して彩人を見ていた。
「ああ、年々暑くなっているのにまいるよな。それで笹部はどうしてそこにいるんだ?」
「少しでも日陰に隠れて涼を取るためだ」
そう言って眼鏡を動かすとレンズが太陽の光を反射してキラリと光った。
「そういえば今日は遅刻していたがどうしたんだ?」
「言っただろ、寝坊だって」
「ふむ、それならいいのだが」
「なんだよ、その言いようは」
相手陣地でボールが高く高く上がった。群がっていたクラスメイトたちは揃って顔を上げている。
「実は俺の母親は鹿京中央病院で働いているんだが、土曜日の午後に空木とあの子……雛芽さんか? 二人が運ばれてきたと教えてもらってな」
「ああ、そういうことか」
「母親経由の噂なんだが、空木たちは博物館の騒動に巻き込まれたらしいじゃないか。本当か?」
「……誰にも言うなよ。目立つのはあんまり好きじゃないから」
「い、いたのか!? あそこに!?」
彩人が頷くと遼太郎は彼の肩を掴んで前後に激しく揺らす。
「動画は!? 写真は!? 撮っていないのか!?」
「撮ってないな」
遼太郎の手をはたき落とし、襟を整えながら睨みつけると彼は肩を落とした。
「……笹部、お前あの霧の柱とかに興味があるのか?」
「当たり前だろう! あんな非日常、興味ないヤツの方がおかしい! ああ、どうにかして霧の中に入ることができないだろうか……」
「ああ、確か博物館周辺は規制線が張られて封鎖されているんだっけ?」
「そうだ。だから離れた所から見るしかない。僕は昨日実際に行ってたくさん撮ってきた。よかったら昼休みにでも見せてやろう」
「いや、いい」
「遠慮するな」
「遠慮してねーよ。なぜなら俺はあの場にいたからな」
「空木お前はぁ!」
遼太郎が再び掴みかかってくるが、彩人はひらりとかわす。
そのときサッカーボールが二人に向かって転がって来た。
彩人が遼太郎に声をかけると、彼は渋々彩人から離れて蹴った。
ボールは弧を描いて相手ゴールに向かって跳ぶ。
それにつられてクラスメイトたちは我先にと追いかけるのであった。
「笹部、お前は勉強だけじゃなくてサッカーも得意なのか?」
「霧の柱の件だが――」
「まだするのかよ」
「中はどんな感じだった?」
「別に変わらねーよ。霧が囲んでいること以外は」
「一部ニュースだと魔物が現れたと言ってたがお前は見たか?」
「……見ていないな。少なくとも俺は。ただ何人かが見たって言っているけれどテレビではそれは集団幻覚みたいなものだって言ってたぜ?」
そう言いながらも彩人の脳裏にはあのときの光景が蘇っていた。いや、光景だけではない。あの時感じた熱や痛み、苦しみ、そして高揚感さえも鮮明に思い出している。
「どうした? 空木。急ににやけて」
「い、いや、なんでもない、なんでもない。というか霧の柱の中を見たいなら動画サイトとかSNSをチェックしたらどうだ? いくつかあるんじゃないか?」
「あいにくそういうのはなかったな」
「まぁ、そうだろうな。地震とか霧の柱とかそういうことが起きた時に冷静にカメラを構えることなんてできないしな」
「そうだな……」
遼太郎が再び肩を落としたとき、またしてもボールが転がって来る。
彩人が再び声をかければ遼太郎は蹴る。
綺麗な弧を描いてゴールへ一直線。
だが遼太郎はため息をこぼした。もちろん蹴った感触などに対してではない。
「そんなに落ち込むなよ、笹部。話変えようぜ。そういえばお前、この間彼女ができたって言ってただろ? どうなんだ、最近は」
「ふられた」
「マジ。早くないか? 付き合ったの二、三週間前だろ?」
「昨日、デートをしたんだが映画の予定を急遽霧の柱を見に行くことに変えたんだ。そしたら連絡がつかなくなった。いや、正確に言えば最後に一度だけついたな。『別れよう』って」
「それはだ――どんまいだな」
「まぁ、恋人は今のタイミングじゃなかったってことだ。そういう空木はどうなんだ?」
「どうって?」
「雛芽さんだ。よく一緒にいるじゃないか」
「いねーよ。あいつが勝手についてくるだけだ」
「嘘をつかなくていい。博物館にも一緒に行ったんだろう?」
「どうしてそれを――ああ、お前の母親か」
彩人の言葉に遼太郎は頷いた。
「可愛い子じゃないか。小さくて」
「そうか? いや、確かに可愛いとは思うけど――」
「おおっ、お前がそう言うなんて珍しいな」
「勘違いして欲しくないんだが、俺が言う『可愛い』は小動物や小学生が黄色い帽子を被って手を挙げて横断歩道を渡っているときをみたときのような……そんな『可愛い』だ」
「ああ、なるほど。その感覚よく分かる」
二人は黄色い帽子を被っている小毬を想像して笑った。
その頃、一年一組の教室で英語の授業を受けている小毬は小さなくしゃみをするのであった。
サッカーボールがまた転がって来た。
「ほら来たぞ、笹部」
「次は空木が蹴るといい。蹴るくらいはできるだろう?」
そういうことなら、と彩人はボールを蹴り返した。何の変哲もないパス――の感覚で蹴ったつもりだった。
「えっ」
ボールは弧を描くことなく、文字通り「一直線」に飛ぶ。勢い衰えることなく、相手ゴールを目指し、最後にはボールポストにめり込んだ。凹んだゴールポストの中でボールは音を立てて回転し続けている。近くにいる生徒たちが何かが焦げたような臭いを感じ始めたとき、ボールは音を立てて割れた。
「……」
しんと静まり返るグラウンド。
体育館からは女子生徒たちの弾む声。
事情を知らない蝉はずっと鳴き続けている。
「う、空木……」
「今のなんだったんだろうなぁ!? これはあれだ、支点力点とか流体力学とかいろんなのが偶然重なってああなったんだよ、いやー、すごいすごい! っと、急に頭痛くなってきた……。これは熱中症だな。早く帰って休まないとな! というわけで早退する! じゃあな! ――せんせぇ! 俺気分悪いんで帰りまーす!」
そう叫ぶと彩人はダッシュで校庭から立ち去るのであった。
「……空木ってあんなに走るのが速かったのか」
友人の背中を見つめながら遼太郎は呟くのであった。
× × ×
「なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ!」
更衣室で彩人は自分自身を急かしながら着替えている。そんな彼の脳裏には先ほどの出来事と朝の出来事が繰り返し再生されていた。そして着替え終わると靴箱に直行。靴を履き替えると学校を飛び出した。
「なんなんだ、ホントに……」
自分自身への恐れや不安を振り払うように走る。
彼の頭の中は自分の体の異変のことでいっぱいだ。だから気づいていない。彼が自動車よりも速く走っていることを。すれ違った散歩中のお婆さんが驚き、飼い犬が吠えたことにも気づいていない。




