02:突如現れた巨大な『霧の柱』
二人がやって来たのは博物館と隣接している広場だ。
芝生が広がっているここからだと港に停泊しているクルーズ客船やタワーを目にすることができる。広場の一部はタイル舗装され、ステージが組まれている。まるで野外ライブが始まりそうな雰囲気ではあるが、ステージに立っているのはマイクではない。
石造りの台座に刺さっている剣だ。
剣の左右には屈強な外国人のガードマンが立っている。そしてステージに上がる階段からまたしても長蛇の列が伸びていた。
「雛芽、ステージの剣はなんだ?」
「あれは勇者の剣です」
「ふーん。まぁ、偽物だろうけどな」
「……」
「睨むなよ……それで? どうして勇者の剣があんな所に?」
「先輩。いつも思うんですけど、お出かけするときは事前に調べておいてくださいよ。
あれはですね、『勇者の剣引き抜きチャレンジ』です。勇者が魔王を倒した後、平和の象徴になるようにと剣を台座に刺したんです。それから千年近く経ちましたが、誰も抜くことができずにいるんです。そんな剣を抜く挑戦ができるイベント。それが『勇者の剣引き抜きチャレンジ』になります」
「なるほどな。それで? 抜いたら何かあるのか?」
「財団から十億円貰えます」
「十億!? それならやるぜ!」
「先輩、私は心配です。展示品は光が失せた目で見ていたのに大金には目が輝いていることに」
「だってよ、十億あったら一生働かずにリビングのソファーやベッドでダラダラとショート動画を見ることができるんだぞ」
「死ぬまで今の生活を続けるんですか? そのベッドが老人ホームのベッドでないことを切に願っていますよ。ちなみに参加料は三千円です」
「抜けないと分かっているのに三千円払っているのか、みんな」
「いいじゃないですか。これは実際に抜けるかどうかではないんです。経験することにお金を払っているんです。いいですか? よく考えてください。次、日本でいつ勇者展が開催されるか分からないんですよ? 五十年後、もしかしたら私たちが地獄に落ちた後かもしれないんです。そう考えたら三千円は安い方ですよ」
「ツッコミたいところはあるが、今は触れないでおく。とにかくやるならお前だけでやれよ」
彩人が肩をすくめたときステージに一人の男性が上がった。タンクトップの彼もまたガードマンたちと劣らないほどの筋肉を身につけている。そんな彼は剣の柄を握り、思いっきり引っ張った。だが抜けない。台座に足をかけて引いてもびくともしない。やがて時間切れとなり、彼はトボトボとステージから降りた。
「あの剣はやっぱり偽物だろ。あんなマッチョが抜けなかったんだぜ? 絶対何かしらで固定しているんだ」
「違いますよ。あの人が勇者の器ではなかっただけです。さぁ、私たちも行きますよ」
「まだ並ぶのか……」
小毬と一緒に並び、多くの挑戦者が次々と肩を落としていくところを見ながら話したり列に合わせて進んだりすること十数分。
やっと小毬たちの番になった。彼女はステージに上がると三千円を学芸員に渡した。そして剣の前に立つ。彼女を小学生だと思い込んでいる学芸員の声援を背に、力の限り引いた――が、抜けなかった。彼女は何度も引くが効果なし。そして時間切れとなり、柄から手を離すが小毬の表情は満足げであった。
そして彼女が彩人とステージから降りようとしたとき、彼は千円札を三枚学芸員に渡し、剣の前に立った。
「へぇ~……へぇへぇへぇ~! 先輩もやってみたかったんですね!」
「……」
後ろからニヤニヤという擬音が聞こえてくるが彼は無視して柄を握った。温かい。先ほどまで小毬が握っていたためだろうか。
「……」
息を一つ吐いて目を閉じる。
波のざわめきや蝉の声、群衆の声、様々な音が消えた。
けれど自分の鼓動だけは聞こえている。
そして彼は剣を引っ張る――が、変化なし。剣は変わらず台座にあり続けた。彼も何度も力強く引くが変化なし。手が痛くなり、一度離してひらひらと手を休ませている間に時間切れ。あっけない終わりに彩人はもう少しだけ挑戦しようとしたが、ガードマンに降りるよう促されて仕方なくステージから降りた。
「どんまいです、先輩」
「別に悔しくなんかねーよ」
「グッズコーナーで何か買ってあげますから元気出して」
「子供扱いするな。ああ、三千円あったら気になっている漫画数冊買えたのに……」
彩人ががっくしと肩を落としたときだった。
「えっ」
地面が、揺れた。
「伏せろ! 雛芽!」
彩人は小毬を強引にしゃがませると彼女に覆いかぶさる。
ステージは左右に大きく揺れてそのたびに骨組みがきしむ。照明が数個落ち、割れてそれに呼応するかのように悲鳴が上がった。ガラスが割れる音もする。
揺れて、揺れて、揺れ続けること数秒。
やっと地震はしずまった。
「大丈夫か? 雛芽」
「は、はい……えっ」
小毬が顔を上げた先に彩人の顔があった。
「だだだ、大丈夫です!」
「そうみたいだな」
彩人は立ち上がり、周囲を見回す。
まず目に映ったのは倒れている立て看板やグッズ売り場のテントだ。そしてステージを見ると鉄骨が曲がっている。折れていないのが幸いだ。他の来館者たちもしゃがんだ状態からおそるおそる顔を上げている。
「雛芽、また揺れがくるかもしれないからステージから離れ、よう……」
「どうしたんですか? 先輩」
小毬は彼の視線を辿る。そして気づいた。この広場を中心に霧の壁がぐるりと囲んでいることに。つまり彩人たちは霧の柱の内部にいるのだ。その半径は約百五十メートル。霧は濃いため向こう側を見ることはできないが、博物館や道路などの一部は霧の向こうから内部に顔を覗かせている。そして柱は天高く伸び、見上げても最上部は霞んでいるため視認することはできない。
「これ、なんですか、先輩……」
「分からない。けど何か危険な感じがするな……ここから離れよう」
「離れるってどこへ?」
「それは……霧の外だ」
そう言って彩人が歩き出したとき、誰かが「あれはなんだ!?」と叫んだ。
その言葉につられてかれは周囲を見回すが、すでに見慣れてしまったこの悲惨な場以外に変わった所はない。しかし、一人また一人と顔を上げていたため、彩人も顔を上げる。そして地面から数メートル離れた空中に黒い球が浮かんでいることに気が付いた。サッカーボールほどの大きさだ。その球はありとあらゆる物質が持つ立体感というものがない。黒。夜空を貼り付けたようなそんな球だ。
「先輩、なんか空に穴が空いていませんか?」
「穴? ああ、そうだな、穴にも見えるな……」
地震。
霧の柱。
黒い球。
何か異様なことが起きていることは明白で、彼は一刻も早くここから立ち去るべきだと小毬の手首を掴んだ。
そのとき球が落ち、地面に触れた瞬間、黒い水となって広がった。まるで水風船を落としたときのようだった。サッカーボールほどの大きさからは想像できないほどの水の量に思わず皆、後ずさる。
「まさしく穴、だな……」
地面に広がった黒に彩人が呟いたときだった。
その穴から手がぬるりと出てきた。地面に手をかけると穴から飛び出して着地した。
彩人は、いや、この場にいる全員がそれを知っている。なぜなら博物館で復元模型として目にしているからだ。
「逆根腕猿……」
木とゴリラを組み合わせ、両腕が胴体よりも大きい――まさに大木のような腕の異様な姿。木の肌、体毛に見える細い草や苔……。
そう、彼らの目の前に現れたのは千年前に滅んだはずの魔物だった。
逆根腕猿は身を震わせて付着している黒い水を払い落とした。そして周囲を見回し、人間の存在に気が付いた。ぬるりと光る二つの目で彼らを見つめる。
一方で人々はその場から逃げ出さずにいた。本能が逃げろと告げても足元から生えた恐怖が足首を掴んで離さないのだ。
誰も一言も発せずにいる。
誰も滴る汗を拭えずにいる。
密かな声、わずかな動きが命取りになる。
(いっそのこと、この状態が続いてくれたら……)
小毬が願ったときだった。
広場の時計塔の鐘が十二時を告げる。
それをかき消すように異形の生物は雄たけびを上げ、時計塔に向かって走り出した。
「に、逃げろー!」
誰かが叫んだ。
その声に急かされて皆、魔物に背を向けて走る。
化け物は時計塔に近づくと左腕だけで器用に立ち、右手を振り下ろした。
時計塔は真っ二つに折れ、落下した金の甲高い音が響く。
逃げる人々の先頭を走っていた男は霧の壁の目の前まで来た。通り抜けようとして一度ためらうが、振り返って魔物が折れた時計塔の上で何度も跳びはねている光景を見ると意を決した。一人が何かを行えば、他の者も同じようにするもので、一人また一人と霧の向こうに消える。
そんな人たちに目もくれていなかった魔物だったが、時計塔を粉々に破壊して満足すると周囲を見回した。そしてうつ伏せで倒れている彩人を見つけた。
彼も他の人たちと同じように逃げようとしていた。だが人の流れに合わせて走ったことで右足が固定されたように動かなくなり、最後には転倒したのだ。
そんな彼の背中には無数の足跡が残っている。
魔物は彼に向かって歩き出す。
彩人は這ったまま進む。
だが相手は約三メートルの腕を使って歩く異形の生物。追いつかれるのは時間の問題だ。
彼は立ち上がり、右足を引きずって逃げる。
彩人は夢中で逃げる。しかし影が差し、振り向いて見上げるとすぐさま目の前に魔物が立っていた。
魔物は先ほどのように左腕だけで立つと右手を振り上げた。その姿はまさに大木だ。
死。
彼は覚悟して目を閉じる。
そのとき。




