01:陸上を奪われた少年と、博物館の『勇者の剣』
青、青、青。
どこまでも続く、青。
蒼穹を歩むは白雲の巨人。
振り上げた右手には飛行機雲の槍。
さて、誰を貫こうか。
白雲の巨人は周囲を見回す。
だが青の世界には彼一人だけ。
そこで視線を落とした。
足元の鹿京市を無数の人間が歩いている。
鹿京市は山と海に挟まれた東西に伸びている市だ。自然に挟まれているからといって市内に田畑や草原があるわけではない。むしろビルが立ち並んでいる。鹿京駅を境にして北に住宅街が広がり、南――海側にはビルや商業施設、博物館などが建っている。
その鹿京駅のベンチに一人の男子高校生が座っている。
彼の名前は空木彩人。鹿京市立高等学校に通う二年生だ。いつもなら土曜日はベッドもしくはリビングのソファーで横になって延々とショート動画を見ているのだが、今は違う。まだ七月であるというのに最高気温を叩き出した外に出ているのだ。彼の母が今の彼を見たらこう言うだろう。「明日の天気は吹雪ね……」と。
そんな彼はとある理由のため、仕方なく外に出てとある人物を待っているのだ。
「暑い……」
今日で三十五回目の「暑い」を口にした彼はスマートフォンで時間を確認する。
午前九時三十五分。
約束の時間まであと十五分。一秒でも遅れたら帰ろう。そう決意した彼はなんとか時間を進めることができないかと祈るが、そんなこともできるはずもなく、ため息を一つ。
そのとき風が一つ吹いて彼の火照った体をさらりと撫でた。
それが心地よくてつい目を閉じた。
すると見えたのは二年前、中学三年生の時の記憶。
× × ×
彼はとある陸上競技場のスタートラインでクラウチングスタートの姿勢を取っている。
会場はしんと静まり返っている。
彩人を含めた選手たちが互いの心音が聞こえるほどに。
そして永遠に鳴らないのではと思っていたスターターピストルが鳴った。
彼は地面を蹴った。
誰よりも早く足を漕ぐ。
走って、走って、走って、周りの景色が後ろに流れてよく見えない。――いや、見ていない。彼が見ているのは数メートル先のゴールだけ。
それを目指して夢中で走り、そして――。
× × ×
賑やかな声に目を開けた。
見れば駅の出入口に数人の小学生がいた。
(あいつらも勇者展に行くのかもしれないな)
そう思いながら眺めていると最後尾を歩いていた一人の女の子が彼に向かって走って来た。
彩人は疑問符を浮かべる。
当然だ。
小学生に知り合いはいないから。
だが疑問符はすぐに感嘆符に変わった。
少女の真っ黒な髪、一歩踏み出すたびに跳ねるポニーテール。それはまさしく待ち人の象徴だったからだ。
「すみません! 先輩! 遅れました!」
雛芽小毬。
それが彼女の名前である。小毬も彩人と同じ高校に通う一年生だ。
「いや、気にしなくていい」
「そう言いながらスマホで時間を確認しないでください! そして『間に合ったかー』って頭を抱えないでください! 前みたいに帰られたら困るから急いで来たんです。ほら行きますよ」
そう言って歩き出したため、彩人は立ち上がって彼女について行こうとした。だがすぐに立ち止まる。
「どうしたんですか?」
「雛芽、先に行ってろ」
「急に何を……分かりました! 帰るつもりですね! その手には乗りませんよ!」
「ちげーよ! いいから行けって!」
「帰りません」
「ああっ、くそっ!」
彩人は後頭部をかくと早足で数メートル進み、落ちているぬいぐるみを拾った。
赤い三角帽子を被ったねずみのぬいぐるみだ。
彼はそれを持って早足で駅に向かう。そしてベビーカーを押している女性に話しかけた。
女性は驚いていたが、彼が手にしているぬいぐるみに気づくと慌ててベビーカーを覗いた。そして苦笑いを浮かべながらそれを受け取る。それから我が子の傍らに居座っている青いとんがり帽子のねずみのぬいぐるみの隣に置いた。
女性からの礼を受け取った彩人は来た道を戻る。
小毬はベンチの前に立っていた。
「雛芽、まだいたのかよ、先に行けって言ったのに――いたっ!?」
彼は脇腹を押さえて小毬の肘を睨みつける。
「なんだよ、急に」
「なんでもありませーん」
声と足を弾ませて彼女は歩き出す。
「ホントになんなんだよ」
ため息をついて小毬の後に続く。
「そういえばベビーカーの中にいたのは赤ちゃんじゃなくてまさかの猫だった」
「〇りと〇らに挟まる猫……」
「百合の間に挟まる男みたいに言うな」
× × ×
話しながら歩くこと数十分。
鹿京駅から南下して辿り着いたのは湾岸緑地に建つ鹿京市立博物館だ。ギリシャ神殿のような博物館の正面出入口から列が伸びている。それは敷地を飛び出して歩道まで伸び、さらに曲がり角の向こうまで続いている。そのため尾の先端を目にすることはできない。
この暑い中、苦労して歩いたら今度は並んで待つという苦行に彩人は回れ右をした。
そんな彼の動きを予想してか小毬は素早く回り込み、チケットを二枚見せた。
「あの列は当日券の列です。私たちは事前に買っておいたチケットで入場できます」
「それならさっさと入ろうぜ。暑くてたまらん」
「その前にハンカチで汗を拭いてください。どうせまたハンカチを忘れたんでしょ」
小毬は彼の手に無理矢理それを握らせ、彩人は額や首元を拭った。
「ありがとな。洗って返――」
「お構いなく!」
素早く回収すると、くるりと背を向ける。そして鼻にそれを押し当てて。
「すうううっ」
思いっっっきり吸った。
すると彼女の目の焦点が合わなくなり、顔は真っ赤に染まった。半開きの口元からは唾液が溢れて一筋の道を創る。小毬に好意を寄せているクラスメイトの半田が今の彼女を見たら間違いなく失望するだろう。
「雛芽?」
名前を呼ばれ、昇天していた彼女の魂は肉体に吸い込まれた。
「は、はい! なんでしょう!」
トートバッグのチャック付きポリ袋にハンカチを収めた小毬は慌てて振り返る。
「急に黙り込んでふらついたから大丈夫かなと思って」
「べ、別に大丈夫です(先輩、優し……)。ほら、行きましょう!」
小毬は彼の手を取って博物館に足を踏み入れた。
× × ×
博物館は一階から三階にかけて吹き抜けの構造で、天井のガラス屋根から太陽の光がロビーに注がれている。
小毬は受付の女性にチケットを渡す。
すると彼女はそれと小毬を見比べてから彩人に話しかけた。
「お客様、こちらのチケットは高校生以上のものになります」
「えっ? まぁ、はい」
「妹様には使えませんので小中学生以下のチケットに取り替えますね。差額は返金致します」
「そういうことならよろしくお願――」
「私は高校生です!」
小毬は学生手帳の一番後ろのページを受付の女性に見せた。
すると彼女はそれと小毬を見比べてから深々と何度も頭を下げた。
そんなときに彩人が一言。
「気にしないでください。よく間違えられる」
「それ私の台詞ですよね!?」
× × ×
勇者展は二階の特別展示室AからBにて開催されている。
この特別展では千年前に魔王を倒した勇者に関する資料が展示されている。資料を管理している財団は世界各地を回ってこのイベントを催し、今夏は日本の鹿京市立博物館が選ばれたのだ。
特別展示室の壁はガラス張りになっていて、その向こうに様々な展示品が並んでいる。当時の町民が着ていた服や凹んだ鍋、勇者が愛用していたマントや魔術師のつば広三角帽子など。
その中で特に目を惹いたのは千年前の資料ではなく、皮肉にも現代の技術によって作られた魔物の模型だった。
その魔物の名前は逆根腕猿。通称ウデデ・カザル。
一言で表すなら「木とゴリラを組み合わせた魔物」と言ったところか。
体は木で構成され、体毛は目を凝らせば細長い葉や苔であることが分かる。
ただでさえ異形な姿をしているがさらに特徴的な点と言えば大木のような両腕だろう。
胴体よりも大きいが故に足が浮いているのだ。
そのためこの魔物は両腕で歩き、両足で物を掴む。
体長は約三メートル。模型の隣の説明文にゴールポストと並ぶウデデ・カザルが描かれている。
「こんなのが千年前にいたなんて信じられませんね」
「そんなわけない」
「いや、いましたよ。これまでいろんな資料見て来たじゃないですか」
「それが魔物がいた証拠とは限らないだろ。あんなの作り物だって」
「そんなはずありません。世界史でも触れるじゃないですか。まったく先輩は昔から魔物とか勇者を信じませんよね」
「俺はこの目で見た物しか信じないからな」
「地球は丸いってこと信じていなさそう……。まぁ、別に先輩が信じようが信じまいがどうでもいいですね。じゃあ、もしもこの魔物に襲われたらどうしますか?」
「諦める」
「逃げるくらいしましょうよ……」
「無理だろ、この足じゃ」
そう言って彩人は右膝をさすった。
「完治、しているんですよね?」
「医者が言うにはな。でも走ったら膝に何かが詰まっているような感覚になって終いには力が入らなくなって転んでしまうな。だから諦める」
彼は肩をすくめた。
「そうそう、雛芽。お前はどうして陸上やめたんだよ。あんなに練習していたのに」
「それは……」
(先輩が走れなくなったから…… 先輩が頑張っていたから私も頑張れていたんです)
そう言いかけて小毬は言葉を飲み込んだ。ほんの少し苦かった。
「それは……高校では文化系の部活をやってみたからなんです。先輩もどうですか? 美術部」
「遠慮する」
「学校から帰ってダラダラして退屈じゃないですか?」
「別に。ショート動画もあるし。ああ、そうだ。魔物が現れて暴れたら退屈じゃないかもな」
「そんなこと言うもんじゃありませんよ」
二人はそれからも様々な展示品を見て回った。
そしてすべてを目にした彩人たちは博物館の外に出た。
待ち伏せされていた太陽に光で刺された彩人はその暑さに三十六回目の「暑い」を口にした。
「先輩、あと少しだけ付き合ってください」
そう言って小毬は彩人の手をとって歩き出した。




