16:茨の影狼と、置き去りの後輩
彩人とエマが走り続けること十数分。
二人はショッピングセンターの建設現場に辿り着いた。そのエリアの中央、巨大なクレーンが何基もそびえ立つ広大な建設現場を飲み込むように、巨大な白い壁が天高く突き抜けていた。
吸い込まれるような初夏の青がまだ残る空を背景に、白銀の霧の柱が太陽の光を反射して眩しく輝いている。その神々しいまでの美しさは、これからこの内側で起こる凄惨な事態を嘲笑っているかのようだった。
霧の柱の周囲には、すでに大勢の野次馬が集まっていた。避難を呼びかける警察官の声を無視し、人々は一斉にスマートフォンを掲げている。まるで映画のロケでも見物するかのような気楽さで、SNSのトレンドを飾るであろう「特ダネ」を逃すまいと、死の境界線に群がっている。
「アヤト、行くわよ」
エマの言葉に彩人は短く頷いた。
二人は加速し、人だかりの後方で強く地面を蹴った。
「えっ、おい!」「今なんか上を飛んだ?」「誰だ、あの二人は!?」
背後で驚愕の叫びが上がる。彩人とエマは、群衆の頭上を優に数メートル超える高さで飛び越し、そのまま白銀の霧の壁へと迷いなく突っ込んだ。
× × ×
視界がホワイトアウトしたのは、ほんの一瞬だった。
霧を抜けた先には、建設途中の巨大ショッピングモールの威容が広がっていた。
外周を覆う防塵ネットが風にバタバタと揺れ、剥き出しの鉄骨が複雑な幾何学模様を描いている。足元にはコンクリートの粉塵や資材の山が散乱し、パニックになった作業員たちが右往左往していた。
「みんな! ここは危険だからこの建物から離れて霧の外に出て!」
エマが凛とした声で指示を飛ばす。金髪の美少女が放つ、場違いなほどの威厳に気圧されたのか作業員たちは言葉も交わさず、二人が入ってきた霧の境界へと走り去っていった。
「……さて、お掃除の時間ね。準備はいい? 勇者様」
「ああ、行こう」
二人は正面の出入口――まだ自動ドアすら嵌め込まれていない、コンクリートの開口部から中へと足を踏み入れた。
地震の影響か、内部の照明はすべて消灯しており、奥の方は深い闇が支配している。だが、外壁が未完成なために、所々の隙間から西に沈みつつある陽光が差し込んでいる。
彩人は背中のバットケースから、剣を取り出した。
ずしりとした重みが右手に伝わり、血管の中を流れる力が呼応するように熱を帯びる。二人は一階の広大なフロアを慎重に進んだが、そこには異常はなく、二階へと続くコンクリートの傾斜を駆け上がった。
二階は、将来的に吹き抜けになる予定の、広々としたエリアだった。
静寂。
自分たちの足音さえ吸い込まれるような沈黙の中で、彩人はふと考えた。
(ここ、完成したらどんな店が入るんだろう……映画館とかコーヒーショップとかか)
日常の欠片を繋ぎ止めるような、場違いな想像。だが、その思考は鋭い爪の音によって切り裂かれた。
コンクリートの床を叩く不気味な音が、暗がりの奥から聞こえてくる。
薄暗い奥から現れたのは漆黒の毛並みに、棘を持つ茨の蔓がたてがみのように逆立った狼――|茨の影狼〈ソーン・ウルヴズ〉だった。
「エマ! いたぞ!」
彩人が叫ぶと魔物は彼に向かって駆ける。
普通の人間ならば臆し、震え、成す術もなく喰われていただろう。
だが今の彼は普通ではない。
日が浅いとはいえ、退魔の力を手に入れた男だ。
「ハァァァァ!」
叫びと共に剣を振る。
力任せに振ったその剣の軌道に美しさの欠片もない。だが、|茨の影狼〈ソーン・ウルヴズ〉一体ならば十分だ。そう、一体ならば――。
「なっ――」
背後、天井、柱の影。死角という死角から、さらに三体の狼が同時に襲いかかる。
「|光の拒絶〈ルクス・シールド〉!」
エマが叫んだ瞬間、金色に輝く半透明の壁が彩人と敵の間に出現した。その防御壁が彩人を守ったが、敵の数は膨れ上がっていた。十体近い群れによる、一糸乱れぬ包囲網である。
狼たちが一斉に四方八方から飛びかかる。
彩人は剣を振り回したが、実戦経験の乏しさから動作が大きくなり、連携の取れた波状攻撃を捌ききれない。
「アヤト、左よ! 棘には触れないで――」
「――っ!」
エマの声に反応して左側の個体を斬り伏せた瞬間、右側の死角から跳躍した一体が、彩人の肩口に牙を剥いた。
制服の生地が裂ける嫌な音と共に、鋭い犬歯が彩人の右肩に深く食い込む。
「ぐ……あああああっ!」
「アヤト!?」
エマが悲鳴のような叫び声を上げた。彼女はすぐさまあの障壁を出現させ、その一枚に垂直に交わるようにもう一枚光の壁を出現させた。すると重なり合った二枚の防御壁は反発し、爆発した。
それは迫る魔物を吹き飛ばした。
彩人は肩を抑えて膝をついた。
「アヤト、大丈夫!? 棘に刺されていない!?」
「大丈夫だ。棘には……触れてない。ただ噛まれただけだ。傷も、浅い……!」
彩人は脂汗を流しながら、無理やり立ち上がった。肩から滴る鮮血が制服を濃く変えていくが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、噛まれた痛みによって脳内のリミッターが外れ、血管を流れる勇者の力が爆発的に活性化し始める。
|茨の影狼〈ソーン・ウルヴズ〉たちは彩人たちを中心にしてゆっくりと旋回する。
エマは目の前にいる五体の狼を視界に入れると足元に転がっていた数本の重厚な鉄パイプを、ローファーの先で器用に跳ね上げた。
「|光の拒絶〈ルクス・シールド〉!」
鉄パイプが浮かんでいる間に防御壁が垂直に重なるよう出現させた。その瞬間、壁は爆ぜ、鉄パイプは轟音と共にライフル弾以上の速度で射出された。
正面から飛びかかっていた狼の頭部を木っ端微塵に粉砕し、そのまま後方のコンクリート壁まで貫通させる。
彼女は残りの鉄パイプも同じように足で跳ね上げると、防御壁の反発反応を利用してそれらを放つ。物理法則を無視した弾速の鉄塊に、影狼たちは回避すら許されず、次々と闇へと還っていった。
彩人とエマ。二人による容赦ない反撃。
個体数を半分以下に減らされた影狼たちは、本能的にここにい続けると屠られると察したようだ。生き残った三体の狼が、低く鼻を鳴らして合図を送る。すると執拗な攻撃をやめ、コンクリートの柱を垂直に駆け上がると、吹き抜けのキャットウォークを伝って上階へと逃走した。
「逃がすかよ!」
彩人は肩の痛みをアドレナリンでねじ伏せ、剥き出しの鉄骨を階段代わりに三階へと飛び上がった。重力に縛られないその跳躍は、もはや人間のそれではない。
三階は、まだ床のコンクリートが打たれたばかりの、より遮蔽物の少ない殺風景な空間だった。
逃げ込んだ狼たちは、広いフロアの中央で再び牙を剥き、低く身を構えて待ち構えていた。逃げたのではない。より自分たちの機動力を活かせる場所へ、二人を誘い込んだのだ。
「意外と頭が回るんだな……」
彩人は剣を低く構え、エマと背中合わせになる。
三階での再戦が始まった。
狼たちは三方向から同時に、円を描くように疾走する。彩人の視界が追いつかないほどの超高速移動。
「彩人来るわよ! 全方位から!」
「ああ、見えてる!」
彩人の感覚は、今や極限まで研ぎ澄まされていた。以前、夜の街を駆け抜けた時に感じた、あの世界がスローモーションに沈んでいく感覚。狼がコンクリートを蹴る瞬間の筋肉の弛緩、空気を切り裂く微かな風の音。それらがすべて、精密な情報の奔流となって脳内に流れ込む。
一体が正面から顔を狙って跳ねた。
彩人はそれを紙一重で回避し、すれ違いざまに腹部を一閃。
同時にエマが、背後から迫る二体の進路上に、青白く光る「遅延障壁」を設置した。
目に見えない粘質な光の膜に突っ込んだ狼たちが、一瞬だけ泥沼にハマったように動きを止める。
「そこだっ!」
彩人は踏み込み、コンクリートを砕くほどの脚力で一気に間合いを詰めた。
一閃、そして二閃。
光を置き去りにするような水平の斬撃が、宙に浮いた影狼たちの胴体を交互に断ち切った。
最後の一体が黒い塵となって崩れ、消え、ショッピングモールには再び重苦しい静寂が訪れる。
「はぁ……はぁ……」
彩人は剣を杖のようにして、荒い息をついた。肩の傷口が熱く脈打っている。
「お疲れ様。傷、見せて」
エマが駆け寄り、心配そうに彩人の肩に手を置いた。
すると手のひらが光り始めた。夕暮れ時であるにも関わらず、その光は昼の日光のように眩しい。そして温かい。まるで陰から木漏れ日に手を移動させたときのようなものだ。
「よかった、棘に刺されていないようね」
「触れていたらどうなっていたんだ?」
「光に対して敏感になるの。微弱な光――月の光程度でも目にしたら動悸が激しくなったり、体中をかきむしったりするの。そして終いには……」
エマが眉間に皺を寄せて肩をすくめると彩人は息を吞んだ。
× × ×
数分かけて傷を癒した彩人は建設途中のショッピングセンターの屋上からエマを抱えて跳んだ。二人は霧の柱を越えて隣の小ビルの屋上に着地する。そして未だに柱の周りにいる野次馬たちが薄暗さのおかげで自分たちに気づいていないことを察すると安堵した。
「ありがと、運んでくれて」
「礼を言うのは俺だ。さっきも言ったけどありがとな」
そう言って彩人は右肩を触った。
「日が落ちるまでここで休んでいようか」
エマの言葉に頷いて腰を下ろして胡坐をかく。そして先ほどの戦いを思い出し、身が焦げるような高揚感に口角が緩んだ。非日常の渦に完全に飲み込まれていく感覚が、心地よくもあり、同時に言いようのない恐怖を伴って背筋を撫でた。
その時、彩人の脳裏に、ふとした光景が蘇った。
「あっ」
黒色が多くなり始めた空を見ていた彼の心臓が冷たく跳ねた。
思い出したのだ。
置いて行くように突き放したあの少女の顔を。
「すっかり忘れていた……」
勝利の余韻は一瞬で霧散。
頭を抱え、零れたため息は風に乗って西の空へ流れていった。




