17:紫の霧と、ハスの咲く影
ショッピングモールで茨の影狼と戦ってから早くも一週間が経った。
窓の外では、鉛色の空から絶え間なく雨が降り注いでいた。六月の雨はアスファルトの熱を奪い、街全体を重苦しい湿気で包み込んでいる。
彩人は自室のベッドに寝転んだまま、消灯したスマートフォンの黒い画面を見つめていた。
あのショッピングモールの一件から小毬との距離がさらに遠くなってしまったのだ。学校の廊下で彼女の姿を見かけるたびに、彩人の足は勝手に逆方向の階段へと向かってしまう。
小毬の方も、彩人が半径数メートル以内に近づくと、まるで何かに怯える小動物のような機敏さで角を曲がって消えてしまうのだ。登校時間をずらし、昼休みはわざわざ遠い売店まで足を伸ばす。
そんな不自然な回避行動を繰り返すうちに二人の距離は同じ校舎に通っているとは思えないほどに遠ざかってしまった。
「……はぁ」
彩人は仰向けになり、深いため息をついた。この一週間、小毬との接し方が分からなくなり、何度もため息をついては頭をかきむしっている。
(どうすれば機嫌を直してくれるだろうか……)
AIに仲直りのアドバイスを求めようとしたときだった。
スマートフォンから災害警報の通知が鳴り響き、画面上部に詳細が表示された。
『【緊急速報】鹿京市近郊、鹿京川付近に巨大な霧の柱が出現。周囲に大規模な交通規制が敷かれています――』
それを目にした彩人はベッドから跳び起きると壁に立てかけていたバットケースを手に取って肩にかける。そして部屋を飛び出し、しっかりと靴を履かないまま玄関の扉を開けた。
勢いよく開けた扉の音と、隣の扉の音が重なった。
見れば隣人のエマも飛び出したところだった。どんよりとした空と相反するように彼女のプラチナブロンドの髪は今日も輝いていた。
「アヤト、見たわね?」
彼女の言葉に彩人は頷いた。
「鹿京川はそこまで近いわけじゃないけど、今の俺たちならすぐに辿り着けるだろう」
「そうね。っと、その前に靴をちゃんと履かないと。こんな雨の中、全力で走ったら脱げて、転んで、怪我しちゃうよ」
彩人は靴をしっかりと履くと、つま先で地面を二度軽く叩いた。そしてエマと呼吸を合わせると地面を蹴った。
五階の廊下から飛び降りた二人は難なく着地した。そしてエマを先頭にして走り出す。
アスファルトを蹴る音が重苦しい雨音の中に小気味よいリズムを刻む。
エマは走りながらスカートから機械式の時計のような、しかし奇妙な模様が刻まれた金属製の物を取り出し、針を見つめた。
「それはなんだ?」
走りながら彩人が尋ねる。
「これはマナ・コンパス。正確に魔物の位置――正確に言えば空気中の魔力濃度が濃くなった場所を指し示してくれる道具。魔物が出なくて暇だったから作ったの」
エマに手渡されたコンパスの針は二人が走っている方向を指している。
「この先に霧の柱があるということだな?」
「そのとおり。まぁ、こんな雨の中だとまだ見えないけど」
彩人はエマにコンパスを返し、息を一つ吐いた。
そして久しぶりに非日常へ飛びこめることに胸を躍らせていた。
× × ×
しばらくして二人は霧の柱がそびえ立つ鹿京川に着いた。そこは二つの河川が合流する三角州である。普段なら学生やカップルが飛び石を渡って遊ぶ平和な光景が広がっている。だが今は天を衝く霧の柱に飲み込まれていた。周囲の音は消え、ただただ濁流が荒れ狂う轟音だけが支配している。
「……行くぞ」
彩人は剣を引き抜き、バットケースを雨の中に投げ捨てた。白銀の刀身がどんよりとした曇天を切り裂くように輝く。
二人は目を合わせ、頷き合うと霧の向こうへ飛び込んだ。
霧の柱の内部を流れる川も外と同じように荒れていた。その水面からわずかに顔を覗かせている飛び石がいくつかある。それらの上に異形の生物がいた。
「またお前らか……」
彩人は吐き捨てるように呟いた。現れたのは以前戦った狼――茨の影狼の群れだ。その数は二十を超え、背中の茨が雨に濡れて淀んだ光を反射している。
狼たちは一斉に飛び石を蹴った。
彩人は増水した川の浅瀬に飛び込み、膝下まで浸かる水の抵抗を受けながら迫りくる牙を剣で迎撃した。一体目の魔物を斬り伏せ、そのまま流れで二体目の胴体を横一文字に断ち切る。
「くっ……」
だがここは足場が荒れている川。底の岩が滑り、さらには強烈な水流が彼の足を浚おうとする。膝下までの深さとはいえ、想像以上に彩人の機動力を奪っていた。
「しまっ――」
ずるりとバランスを崩す彩人。
その隙を茨の影狼たちは見逃さなかった。三体の魔物が同時に彼にとびかかった。
彩人は右膝の古傷が熱を持つのを感じながら強引に脚力を爆発させた。水面を叩くようにして空中へ跳躍し、旋回しながら剣を振るう。
鋭い呼気と共に放たれた一撃が狼たちの眉間を次々と正確に斬ってゆく。泥水が舞い、狼の返り血が雨と混ざりあって彼のパーカーを黒く染めていく。
「アヤト! もう一体そっちに!」
エマの鋭い叫び。同時に彼女の放った補助魔術が彩人の身体に淡い光の膜を形成する。
「身体強化! 水の抵抗を減らしたわ! 一気に叩きなさい!」
エマのサポートを受けた彩人の身体が驚異的な軽やかさを取り戻した。彼は水面を滑るように移動し、死角から迫る狼を次々と薙ぎ払っていく。
しかし茨の影狼の群れは絶え間なく湧き出してきた。斬っても斬っても、絶え間なく降り続ける雨の奥から紅い瞳が迫って来る。
「エマ! 奴らが見えるようにできないか!?」
「任せて! 閃光!」
エマが空中に向かって手のひらをかざすと、眩い光の礫が散らばり、隠れていた狼たちの影を鮮明に映し出した。
彼はその一瞬を見逃さず、剣に力を込める。
「ナイスだ!」
彩人はニヤリと笑みを浮かべると光に目が眩んで動けなくなっている魔物たちを次々と斬り伏せる。そしてあっという間にすべての敵を討伐することに成功した。
「こんなもんか」
彼は自分の体をコントロールできたことに満足して息を一つ吐いた。
「ちょっと。なにドヤっているの。私の補助がないとダメダメになりそうだったでしょ」
「はいはい、感謝してるって」
彩人は肩をすくめた。
戦いは彼らの勝利で終わったはずだった。
「うん? おう、エマ、これ……」
いつの間にか、彼らの間を、両足の間を紫色の霧が漂っていた。
(これはなんだ――)
そう思った瞬間、甘ったるい香りがしたかと思うと一瞬で鼻を突くような腐敗臭に変わった。
「アヤト! 息を止めて!」
エマが叫んだ頃にはすでに視界は紫の霧に支配されていた。霧は猛烈な勢いで濃度を増し、互いの姿が認識できなくなった。
「この霧は……」
彼は必死に視界を確保しようとするが、紫の帳は無慈悲に彼らを包囲した。
その不気味な紫の霧を滑るようにして巨大な影が音もなく近づいていた。
それは泥色の肌に無数のハスの葉を纏った魔物。尾の先端に咲いた大輪のハスの花を静かに揺らしながら二人に迫る。
二人はその花の香りが死への誘いであることに、まだ気づいていなかった。




