14:お世話係と、ハイライトの消えた瞳
「エマちゃんって呼んでいい? イギリスのどこから来たの?」
「好きな食べ物は? 日本のアニメとか見る?」
「そのブレスレット、どこのブランド? 可愛いね」
朝のホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り響くのとほぼ同時だった。エマの席の周囲にはまるでバーゲンセールの特設会場のような人だかりができていた。男子生徒たちは遠巻きに鼻の下を伸ばし、女子生徒たちは「国際交流」という大義名分を掲げて我先にと質問を浴びせている。
その喧騒から離れた教室の隅、窓際の席で、彩人は頬杖をついたままその異様な光景を冷めた目で見ていた。
「やれやれ、驚いたな」
隣で同じように様子を窺っていた遼太郎が眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、芝居かかったため息をつく。
「……ああ、そうだな」
「なんだ、その覇気のない反応は」
笹部は手元の英単語長をめくるふりをして理知的な彼を演じているが、その視線は数秒おきにエマへ吸い寄せられている。知的なポーズを崩さないようにしつつも、声のトーンが普段よりも一段階高いのを彩人は聞き逃さなかった。だが、今の彩人にとって笹部のことなどどうでもよかった。
(なんで、わざわざ学校まで来るんだ)
彩人の脳内は目の前の熱狂とは別の次元にあった。
隣の部屋に住み着いただけでも理解の範疇を超えていた。それが今度は同じ学校、同じクラス。偶然で片付けるには数学的な確率を無視しすぎている。エマが「勇者の聖職者」としての役割を果たすためだけだとしても、わざわざ制服を着て、十代の未熟な学生の群れに混じる必然性がどこにあるのか。
「空木? 聞いているのか? 君の意識は今、どこか別の空を漂っているようだ。……もしかしてあの転入生と過去に何らかの接点がある、なんてことはないだろうな?」
遼太郎の鋭い指摘に彩人の肩がわずかに跳ねる。
「……まさか。そんなことあるわけないだろ」
「それもそうだな。空木のような無機質な日常を愛する人間が、あのような極彩色の存在と関わりがあるはずもない」
遼太郎の言葉に適当な空返事でやり過ごそうとした、その時。
あれほどの人だかりに囲まれていたエマがひらひらと手を振りながら、まるでモーゼが海を割るように人混みをすり抜け、迷いのない足取りでこちらへ向かってきた。
「ハロー! アヤト! 今日も不機嫌そうな顔をしているね。眉間のシワが深すぎてそこにコインが挟まりそうだよ」
エマは彩人の机の前に立つと親し気に身を乗り出した。彼女が動くたびに異国を思わせる甘く、爽やかな香りが周囲に広がる。教室中の視線が高出力のレーザーポインターのように一斉に彩人を射抜いた。
「……おい」
彩人の額に嫌な汗が浮かぶ。
「えっ、エマちゃん? 空木君と知り合いなの?」
周囲にいた女子生徒の一人が驚きと戸惑いの混じった声を上げた。クラスメイトたちの頭上に巨大な疑問符が浮かんでいる。
エマは小首を傾げ、この上なく無邪気な、そしてこの上なく厄介な微笑みを浮かべた。
「知り合いっていうか……私たちお隣さんなんだよね」
「「「お隣さん!?」」」
教室に今日二度目の絶叫が響き渡った。
彩人は椅子から転げ落ちそうになるのを必死にこらえた。彼女は嘘を言っていない。物理的な距離で言えば、確かに隣の部屋だ。だがこの状況で「お隣さん」という言葉が持つパワーはクラスメイトたちには刺激的だった。
そのとき次の授業のために前扉から担任の教師が入って来た。騒ぎを鎮めようと教壇を叩いた教師だったが、エマと彩人が並んで立っているのを見て何かを思い出したように手を打った。
「おお、そうだ。空木、エマさんはまだ日本の学校のシステムに慣れていない。家も近いということだし、今日からお前が彼女の世話係をしてくれ。移動教室の案内から提出物のやり方まで全部だぞ」
「はぁ!? ちょっと待ってください! 他に適任者が――」
彩人が立ち上がり、抗議の声を上げようとした。しかし、その言葉を遮るように無情な予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「よし、席に着け。授業を始めるぞ。質問は放課後だ」
教師は彩人の言葉を一切聞き入れることなく、無情にも黒板に向かった。
彩人は絶望的な気分で椅子に深く沈みこんだ。
右斜め前の席ではエマが勝利の女神のような顔をして楽しげに筆箱を広げている。
(ふざけるな……なんで俺が。ああ、面倒くさい……)
授業中、彩人は黒板を見つめるふりをしながら何度もエマを盗み見た。エマは真面目にノートを取っているかと思いきや、時折振り返ってはニヤリと小さく微笑むのであった。
彩人は深いため息をついた。かつての事故で失った情熱が今は面倒事という形で彼の生活を侵食し始めている。
そしてやってきた昼休み。
案の定、クラスの女子グループがエマの席に殺到した。
「エマちゃん、お昼一緒に食べよう! 購買の人気パンを教えてあげるから」
「中庭に行かない? あそこ、気持ちいいんだよ」
エマは誘いを断るのが心苦しいというような完璧な「困り顔」を作りながら、それでもはっきりと、そして残酷に告げた。
「ごめんね、今日はお世話係のアヤトと食堂に行く約束があるの」
そう言うや否や、エマは彩人の腕を抵抗する暇も与えずガシッと掴んだ。
「ちょっと待て、いつそんなことを――」
「いいから行くよ。……それともここであの話をする?」
エマの深緑の瞳が鈍く光った。
(魔物関連のことか? それなら教室で話すわけにはいかないな……)
秘匿事項を盾に取られ、彩人は奥歯を噛み締めた。
(転入した理由とかもついでに訊くか)
彩人は舌打ちを飲み込み、観念したように肩の力を抜いた。
「分かった。行くから腕を離せ。非常に歩きにくい」
「イエッサー!」
嫌がる彩人を半ば強引に引き連れて、エマはすれ違う生徒の注目の的になりながら廊下を闊歩した。
× × ×
食堂は昼時ということもあり、凄まじい混雑と熱気に包まれていた。
色褪せた食品サンプル(このメニューはすでに廃止されている)を見つめているエマを適当にあしらいながら彩人は空いている席を探した。
周囲の視線が痛い。事情を知らない生徒たちの嫉妬と疑念の入り混じった視線が背中に刺さる。
「……あ」
その時、彩人の視界に一つの人影が飛び込んできた。
食堂の入り口付近。そこに立っているのは数人のクラスメイトの女子に囲まれた小毬だった。
あの日、彩人の家でエマと鉢合わせ、顔を真っ赤にして逃げだした後輩。彼女は彩人と目が合うと一瞬だけ表情を明るくさせた。だが、その視線が彼の隣に立っているエマに向けられた瞬間、凍りついた。
彩人は慌ててエマから一歩離れたが、エマはその分近づき、それを繰り返していると小毬がすぐ近くまでやって来ていた。
「せん、ぱい?」
小毬の声はか細く震えていた。
彼女を囲んでいた女子たちは「えっ、この美人さん誰?」「知ってる。イギリスからの転入生だって。お姉ちゃんがメッセ送って来た」「その転入生とすでにお昼を共にする仲になっていたとは……こまりんピンチじゃん」と無意識にざわつき始める。
彩人が弁解のために何かを言おうとして、彼女の顔を正面から見た瞬間。背筋を冷たい指でなぞられたような戦慄が走った。
小毬の瞳から完全にハイライトが消えていた。
いつも自分を眩しそうに見つめていた、あの純粋でキラキラとした光がどこにもない。そこにあるのは底に見えない、どろりと濁った虚無の色だった。
「あ、あはは……そっか、そういうこと、なんですね……」
小毬は力なく笑った。その笑顔はかつて対峙したどんな魔物の咆哮よりも残酷に彩人の心臓を射抜いた。
平穏な日常の崩壊がさらに加速し、修復不可能な段階へと突き進んでいた。




