13:ハローエブリワン、嵐は向こうからやってきた
世界は驚くほど平穏だった。
あの日、夜の闇を裂いてマンションや民家の屋根を飛び回った痺れるような高揚感。それが白昼夢だったのではないかと思えるほどに空木彩人の日常は再び、澱んだ灰色に包まれていた。
エマ・シラハセという規格外の台風の目が隣室に居を構えてから数日が経過した。
彩人は自分の席でスマートフォンを操作していた。画面にはSNSのトレンドワードが表示されている。
1位:#村谷選手6試合連続ホームラン
2位:新作スマホ発表会
3位:週末の気温上昇
18位:霧の柱
「もうこんなもんか」
彩人は自嘲気味に呟いた。
ほんの数日前まで世界は白い霧の話題で持ちきりだった。だが今は国民的スターの活躍や生活に密着した新製品、そして気温といったありふれた日常の刺激に押し流され、ランキングの底へ沈んでいた。
彼は世界の速さに言いようのない寒気を覚えた。
自分にとっては人生を根底から覆すような転機であり、小毬にとっても今もなお消えない恐怖の記憶だ。それなのに世界はこの異常事態を置いて次々と話題を提供してくる。
その無関心さが今の彩人には奇妙なものに見えた。
あの日、霧が晴れることを誰よりも望んでいたはずの自分が、今は霧が立ち込めるのを、魔物が咆哮を上げることを誰よりも待っている。血管の隅々まで行き渡った勇者の力が体中の細胞でじりじりと燻り、落ち着かない熱を絶えず帯びていた。
だが、その熱を発散する場所がどこにもない。
魔物は出現せず、退屈な日常だけが残酷に続いていく。
この数日、体育の授業は適当な理由をつけて見学に回った。あのサッカーの試合の時のように無意識に力を使えば今度は誰かを傷つけてしまうかもしれない。
しかし持て余す力を発散したい。
そのもどかしさに苛立ってくる。
「おい、空木。お前最近なんか変だぞ」
五時間目が始まる直前、遼太郎が話しかけて来た。
「……何がだよ」
「何がって顔だよ。獲物を探してる野良犬っていうか、今にも誰かに噛みつきそうな雰囲気っていうかさ。体育もサボりっぱなしだし、お前、実は隠れてどっかのヤバい格闘技の闇試合にでも出てるんじゃねえの?」
「バカ言え。寝不足なだけだ」
彩人はそう言うと机に突っ伏した。
遼太郎の軽口でさえ今の彩人には耳障りなノイズだった。モヤモヤとした焦燥感が言葉の端々に棘となって現れる。周囲に指摘されるほどに彼の心は「非日常」に毒され始めていた。
授業中も教師の声は右から左へ抜けていく。
教科書の余白には無意識に鋭い剣や、あの夜飛び越えたビルのシルエットなどの落書きが増えていた。隣の席の女子生徒が彩人の様子を窺うようにちらりと視線を送ってくるが、彼が眉間に深い皺を寄せたまま窓の外の空を睨みつけているのを見て、怯えたようにすぐに顔を背けた。
小毬とはあの日以来、まともに話していない。一緒に学校にも行っていないうえに彼女は彩人の気配を察するなり、首の根っこまで真っ赤にして猛ダッシュで逃げていくからだ。
「世界で一番かっこいいか……」
ふと脳裏をかすめた言葉を振り払うように頭を振る。自分はそんな純粋な憧れを向けられるような人間ではない。平和な日常に苛立っている男なのだから。
そして次の日。
朝礼のチャイムが鳴り、担任の教師がいつもより少しだけ浮き足立った様子で教壇に立った。
「えー、急な話なんだがこのクラスに今日から新しい仲間が加わることになった。イギリスからの転入生だ」
教室の中が一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「イギリス? こんな時期に?」
「男子か? それとも……」
彩人は相変わらず頬杖をついたまま、興味なさげに視線を落としていた。どうせ自分には無関係なことだ。たとえ誰が来ようとこの凪いだ海のような退屈を打ち破ることはできない。そう高を括っていた。
「よし、入ってくれ」
教師の合図と共に、前方の引き戸がゆっくりと開いた。
その瞬間。
彩人の耳に届いたのはクラス中の男子生徒たちが一斉に息を呑んだ音と、女子生徒たちの感嘆の入り混じった短い悲鳴だけだった。
何事かと彩人は顔を上げた。
黒板の前には窓から差し込む朝の爽やかな陽光を全身に浴びてプラチナバンドを眩いばかりに輝かせている少女が立っていた。
抜けるような白い肌に吸い込まれそうなほど深い緑の瞳。見慣れたはずの学校の制服をまるでロンドンの高級ブティックの新作であるかのように完璧に着こなした、圧倒的な美貌。
「ハローエブリワン。イギリスから来ましたエマ・シラハセです。エマって呼んでね」
彼女は教室全体の酸素を独り占めするような、華やかな満面の笑みを浮かべた。
そして、騒然となる教室の中で、たった一人――呆然としないまま、彫像のように固まっている彩人と正確に視線を合わせた。それから彼にだけ分かるように悪戯っぽくウィンクをした。
「……は?」
彩人の喉から掠れた声が漏れる。
嵐は向こうからやってきたのだ。
彩人が心の底で待ち望んでいた非日常が、よりによって最も厄介な、そして最も華やかな形で彼の日常を木っ端微塵に破壊しながら足を踏み入れた。
「……マジかよ」
彩人の口角がほんの少しだけ引き攣るように、けれど確かな喜びを持って上がった。
退屈な凪の時間は今、音を立てて崩れ去った。




