12:夜空を駆ける影と、謎の目撃情報
「……はぁぁ」
肺の中にあるすべての空気を吐き出すような、長くて重いため息。
視界の端では金髪の元凶がまだ喉を鳴らして笑っていた。
彩人は無言のままテーブルに置かれたグラスをひったくった。中に残った氷をガリガリと音を立てて噛み砕き、キッチンへ行くと麦茶をペットボトルのまま喉へ流し込んだ。
「ごめんごめん、アヤト。ちょっと盛り上げようと思っただけなの」
「変な方向に盛り上げてどうするんだ……あー、もうめちゃくちゃだ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃん。コマリちゃんがあんなに必死にアヤトのことを自慢してさ、私、ちょっと感動しちゃった」
「もう、黙ってくれ……」
彩人がそう言うとエマは苦笑しながら頬を人差し指でかいた。そして窓際に歩み寄った。彼女はカーテンの裏に手を伸ばし、そこに隠されていたバットケースを掴み出した。ずしりと重みを感じさせる手つきでそれを彩人の前に差し出す。
「はい、これ」
彩人はケースを受け取った。合皮の冷たい感触が掌に伝わる。
「改めてよろしくね、勇者様」
エマは窓の外、茜色に染まり始めた空を見つめながら、いたずらっぽく、けれど少しだけ真剣な響きを混ぜて言った。その言葉に彩人は鼻を鳴らすことで返した。ケースのチャックを少しだけ開けると、中から鉄の、けれど確かに熱を帯びた勇者の剣が収められていた。
「それじゃあ、私もそろそろ帰るかな。お邪魔しましたー」
エマがひらひらと手を振りながら玄関へ向かおうとする。彩人は手元の剣を見つめていたが、一つ大きな息をつくと立ち上がって彼女を追った。
「待て。……送っていく」
「えっ、アヤト優しい! もしかしてさっきのコマリちゃんの言葉に感化された?」
「違う。この辺は夜になると暗くて物騒なんだ。お前みたいな派手な女が一人で歩くのは危ないだろ」
実際、エマの存在は今の街の空気から浮きすぎている。何かあった時に真っ先に目をつけられそうなのは目に見えていた。
「わーい、そういうことならお願いしようかな」
二人は玄関を出てマンションの廊下を歩き出す。彩人は彼女の家がどの辺りなのかも見当もついていなかったが、エレベーターに向かって歩き出した時、エマは反対方向へ歩き出した。
「おい、どこ行くんだよ」
「ここ」
エマは彩人の家のすぐ隣――四〇二号室の前で立ち止まり、バッグから鍵を取り出した。
「……は?」
彩人の思考が一瞬停止した。
「ここって……ずっと空室だったはずの……」
「そうだよ。昨日引っ越してきたの。さっきの近所に引っ越してきた云々、実は合っていたんだよね」
カリャリ、と鍵が開く音が響く。彩人は自分の部屋の扉とエマが開けた扉を交互に見た。
「そういうことは早く言えよ……わざわざ送ると言った俺が馬鹿みたいじゃないか」
「あはは、でも嬉しかったよ。ねぇ、入る? 両親を紹介したいところなんだけど……あー、残念。パパもママもイギリスにいるんだよね。だから私一人なの」
エマは肩をすくめて、少しだけ寂し気な、けれど自由を満喫しているような顔をした。
「……一人なのか? こんな広い部屋に」
このマンションはファミリー向けだ。一人で住むには持て余すはずだ。彩人は彼女の華やかな容姿と、その裏にあるかもしれない孤独を想像して少し毒気が抜けた。
「……何か困ったことがあったら言えよ。隣なんだからウチに来てもいい」
エマは目を丸くし、それから今までないほどに柔らかく微笑んだ。
「ありがと、アヤト。……じゃあ、おやすみ」
× × ×
その日の夜、日付が変わる頃。
彩人は自室の窓枠に足をかけていた。背中にはバットケースを斜めに背負い、下には動きやすいジャージを着込んでいる。
眼下に広がる街並みは昼間の喧騒が嘘かのように静まり返っていた。
ふん、と鼻から息を吐き、彩人は虚空へ身を投げた。
以前の自分なら間違いなく地面に叩きつけられていたであろう高さ。だが、足が屋根の瓦に触れる寸前に彼の体を心地よい熱が包み込んだ。
――タンッ。
乾いた音を残し、彩人の体はバネのように跳ね上がった。隣のマンションの非常階段の手すりを軽くつま先でかすめてさらに上へ。
「……くっ!」
思わず唇の端が釣り上がった。
重力という足枷が外れたような感覚。肺の奥まで冷たい空気が流れ込み、火照った体に染み渡る。
彩人は民家の屋根から屋根へ、音もなく飛び移った。四階建てのビルを見上げると、一気に壁面を蹴り登る。指先をコンクリートの僅かな凸凹にかけ、一気に屋上へ。
頂上で足を止めた時、彼の胸は高鳴っていた。運動不足による動悸ではない。全能感という名の激毒が駆け巡っているのだ。
背中から剣を抜き放つ。
月の光を吸い込んだ刀身が青白く、不気味なほど光を反射した。
彩人は誰に聞かせるまでもなく、鼻で笑い、再び夜の帳へと駆け出した。
アスファルトを見下ろしながら、マンションの隙間を鳥のように渡っていく。
街灯の光が彩人の残像を追いかけるように夜を横切った。
数時間前まで自分を苛んでいた日常の悩み――小毬との気まずさや、エマへの苛立ちなどが加速する景色と共に後ろへ流れてゆく。
今はただ、この溢れ出す力を発散することだけに集中したかった。
彩人は夜の空を文字通り「駆けて」いた。
この力がどこまで自分を連れて行ってくれるのか。
今なら幼い頃に夢見ていた地平線へ行けるかもしれない。
その答えが知りたくて彼は加速を止めなかった。
× × ×
翌朝。
彩人は重い体を引きずりながらリビングへ向かった。昨夜の激しい運動のせいで、全身が心地よい筋肉痛に悲鳴を上げている。数年ぶりのその懐かしさについ頬を緩めてしまう。
ソファーに腰掛け、ローテーブルに置いていたスマートフォンの画面を点けた。
地域のニュースサイトをスクロールしていた彩人の指がある見出しで止まった。
『昨夜、市内各所で謎の目撃情報相次ぐ。空を飛ぶ影?』
記事には昨夜、通行人が撮影したと思われるぼやけた動画のスクリーンショットが添えられていた。夜の闇を背景に、青白い光を放つ何かがビルとビルの間を矢のような速さで横切っている。
SNSのコメントをまとめた欄には「新種のドローンか」「いや、天狗だ」「UMAだろ!」といったコメントが並んでいた。
「……やりすぎたな」
彼は昨夜の自分を思い出して無意識に口角を上げた。
それは事故以来、自分の人生には決して現れることのなかった、少しだけ歪で、けれど僅かな満足感を含んだ苦笑いだった。




