10:苦しすぎる言い訳と、トイレの音
心臓の音が耳元で警鐘のように鳴り響いている。
玄関のモニターの中で小毬は所在なげに指先をいじり、時折不安そうに扉を見上げている。その「いつも通り」の姿が今の彩人にとっては何よりも恐ろしかった。
「……おい、エマ。俺の部屋に行け。そしてそこにいろ。絶対にだ」
彩人はエマの腕を掴み、半ば引きずるようにして廊下へ連れ出した。彼女を自室に押し込み、ドアを閉める直前、鋭い視線で念を押す。
「いいか? よほどのことがない限りはここにいてくれ」
「分かってるってば。もー、そんなに怖い顔しなくていいのに。……アヤトのベッド、いい匂いがするね」
「黙れ!」
彩人は扉を力強く閉めると息を整えた。そして平穏な彼の、いつも通りの彼の仮面を貼り付けて玄関へと向かった。
「……悪い、待たせたな」
ドアを開けると夏の湿った空気が雛芽の柔らかな石鹸の香りと共に流れ込んできた。
「ううん、大丈夫です。先輩、具合はどうですか? 先輩がお昼休みに早退したと聞いて心配で……」
「あ、ああ。大丈夫だ。ちょっと熱っぽかっただけで、今は落ち着いている。……とりあえず入れよ。外、暑いだろ」
彩人は自然な動作をなんとかこなして彼女を招き入れた。
「座ってろ、今冷たいのを淹れるから」
「ありがとうございます、先輩。あ、これ……お見舞いのプリンです。よかったら食べてください」
雛芽がおとなしくソファーに腰掛けたのを確認し、彩人はキッチンへ向かった。
だが、その瞬間。雛芽の視線がテーブルの上で止まった。
「……あれ? 先輩、お客さんがいらしていたんですか?」
彼女が指差す先には彩人のものと、つい数分前までエマが使っていたもの、二つのグラスが置かれていた。一つにはまだ氷が残り、表面には冷たさを物語る結露がびっしりとついている。
彩人の背中に嫌な汗が流れた。
「あ、いや、……それは」
「二つ、ありますよね? どなたか来ていたんですか?」
「違う。……お前の分だ」
咄嗟に出たのは自分でも呆れるような嘘だった。
「えっ、私の?」
「ああ、インターフォンで雛芽が見えたから喉が渇いているだろうと思って、先に準備しておいたんだ。……ほら、お前の分」
「あ……そ、そうだったんですね。気が利くんですね、先輩。ありがとうございます」
小毬は少し顔を赤らめ、不思議そうにしながらもグラスを手に取った。エマが飲み残した麦茶が入っていたが、もちろん彼女は気づくことなく飲んだ。
「それで、どうして俺が早退したって知っているんだ?」
「えっと、お昼休みに先輩と、その、一緒にご飯を食べようと思って教室に行ったんです。そうしたら笹部さんが教えてくれたんです。体調が悪くなったから帰ったぞって」
「笹部のやつ、余計なことを……」
「みんな心配していましたよ。体育のサッカーですごく活躍したって聞きました。でも、そのあと急に顔色が悪くなったから、みんなで『空木は燃え尽きたんだ』って噂していました」
小毬は少しだけおどけたように笑った。その屈託のない笑顔を見るたび、彩人の胸の奥の罪悪感がチクリと痛む。
「……あの日から、なんだか不思議ですよね」
ふと、小毬のトーンが落ちた。彼女は手に持ったグラスを見つめている。
「博物館であんな目にあって、まぁ、あの時のことはあまりよく覚えていないんですけど、すごく怖かったことだけは覚えていて……。今まで信じていた普通の世界が普通じゃなくなっていきそうで怖いんです」
「……そうか。でもまぁ、大丈夫だって。もしまた何かあったらまた助けてやるよ」
「『また』?」
「あっ、いや、その――」
「また助けに行くのは私でしょ、先輩ったら」
小毬は笑い、彩人は安堵した。
そんな彼に非情にも現実は襲い掛かった。
ゴボゴボゴボ……ジャァァァ。
リビングに鮮明な音が響き渡った。
それは廊下にあるトイレの水を流す音だ。
彩人の思考が真っ白に染まる。
(アイツ……! 何をしているんだ!)
小毬は目を丸くし、音のした廊下の方を振り返った。
「あれ? 先輩、どなたかいらっしゃいますよね?」
「……ッ」
(言い訳を。何か言い訳を……)
彩人の脳細胞がフル回転する。捻り出した答えは一つしかなかった。
「……母さんだ」
「えっ? そうなんですか? てっきりお仕事かと思っていました」
「ああ、急に仕事が休みになったらしくてさっき帰って来たんだ。今は、その、腹を壊して、ずっとトイレにこもっているんだよ」
「そうなんですか? そういうことならお見舞い、おばさまの分も買ってくればよかったですね」
小毬は本気で心配そうな顔をした。彼女は彩人の母とも面識がある。幼馴染の後輩としてこの嘘はさらに事態を悪化させる可能性があったが、彩人にはこれしか手がなかった。
「それならご挨拶しないといけませんね。もう少しだけいていいですか?」
「い、いや、いいって。たまにお前もお母さんと一緒に来てるから一回くらい挨拶しなくても大丈夫だ」
「そうですか?」
小毬が首を傾げたとき、廊下の方からトイレの扉を開ける音が聞こえた。
「あっ、ちょうど出たみたいですね」
「ま、待て!」
彼女は廊下に出た。
そして出会った。
金髪を無造作に揺らし、ノースリーブのシャツから白い肩を出し、あろうことかスカートの裾を少し直しながら出て来たエマと。
「……え?」
「あら?」
エマは少しも動じることなく、首を傾げて満面の笑みを浮かべた。
静寂が廊下を支配する。
彩人はまたしても頭を抱えるのであった。




