第17話 限界の先に待つもの
薄暗い森――木々の間に広がる暗闇の中に、血のように真っ赤に輝く瞳が無数に浮かぶ。
先ほどは数匹だったが、逃げた個体が仲間を呼んだのか、明らかに10匹以上はいる。
(チッ……)
十分な休息も取れず疲れているのに、こちらの都合などお構いなしに襲いかかってくる奴らに対して、恐怖よりも苛立ちが先行する。
しかし、先ほどのように正面から戦うことはできない。噛まれれば痛いし、せっかく補充した血が流れたらもったいない。
(だから、逃げるフリをしつつ確実に一匹ずつ仕留めて、数を減らしていくしかない)
そう考えた俺は、「グルルル……」と低い唸り声を上げながら近づいてくる奴らから目を離さず、一歩、また一歩と後退する。
(3……2……1……今だッ!)
タイミングを見計らって、一目散に逃走。
最初のうちは荒い息遣いと無数の足音が背中越しにプレッシャーをかけてきた。
しかし、【逃走】の効果で追われている状況に限り敏捷値が1.5倍に強化され、徐々に気配が遠のいていく。
後ろを振り返り、十分に距離が離れたと感じたら、木々の影に身を隠す。だがこれでは、【嗅覚強化】で匂いを嗅ぎ分けられ、すぐに見つかってしまう。
そこで俺は傷口に手を当て、掌で血を拭い、木の幹に塗り込む。こうすれば、俺がこの場から離れても、ここから漂う血の匂いが奴らの鼻腔をくすぐるはずだ。
なるべく足音を立てないように移動しながら、身を隠す木々に血を塗り込んでいく。すると奴らは、血のついた木へ慎重に近づき、幹に鼻を擦り付け始めた。
だが、俺の姿がないと気づくと、急に「ウォーン!」と鳴いて、別の木へ向かって移動する。
俺が奴らの周囲をぐるりと回って先ほどと同じ場所へ戻ると、奴らは全く別の方向を向いて隙だらけになっていた。
(チャンスだ! 仕留めるなら今だ!)
そう判断した俺は、木々に隠れながら移動して奴らに近づき、最も近くにいる個体に狙いを定める。
(ふぅ……行くぞ!)
全速力で駆け出し、一気に距離を詰める。一番近くにいた奴がこちらの存在に気づき、振り返る。
――と同時に、俺が振り下ろした右拳が奴の頭蓋骨を砕き、力なく地面に倒れ伏した。戦闘音で俺に気づいた奴らが一斉に振り向き、同時に駆け出す。
俺は先頭の個体に狙いを定め、十分に引きつけてから【酸弾】を射出。
酸液の弾丸を受けた奴が激しく頭を振り、焼け爛れる痛みに悶える。
なんとか二匹を無力化できたが、まだ圧倒的に不利な状況だ。俺は再び一目散に逃げ出す。
十分に距離を取ってから木の幹に身を隠し、血の匂いに釣られて先走った個体が回り込んできたところを狙って、顔面に蹴りを叩き込む。
「ギャン……」
足から骨の砕ける感触が伝わり、俺は再び逃げ始める。奴らもまた、追いかけ始める。
奴らは【追走】を持っているが、俺の【逃走】の方がレベルが高いため、追いつかれることはない。
木が倒れて道を塞いでいる場所を見つけると、軽く飛び越えて屈み、身を隠す。木を飛び越えてきた個体にすぐ飛びかかり、脳天に拳を振り下ろす。
隠れられそうな茂みを見つけると、四つん這いで移動して奴らの側面に回り込み、不意を突いて強襲する。
着実に一匹、また一匹と数を減らしていく。だが途中で、違和感を覚えた。
10匹以上は倒しているはずなのに、群れの数が減った気がしない。
逃げながら奴らを確認すると、あちこちを走り回ったせいか、血の匂いと戦闘音に引き寄せられた新たなブラックウルフが四方八方から現れ、追跡の群れに加わっていた。
(クソッ……一匹ずつ数は減らしているのに、これじゃ時間がかかりすぎて、俺の体力が先に限界を迎える)
【酸弾】にはクールタイムがあって連発できないし、一撃で数十匹を殲滅できる火力もない。
(ハァ……ハァ……足も重くなってきた。こうなったら――)
俺は荒い息を吐きながら、逃げるのをやめて足を止める。そして追いついてきた奴らを鋭く睨みつけ、腹の底から魂の雄叫びを上げた。
「ブモォオオオオオ!」
ビリビリと気迫が伝播し、足元の茂みや木の枝葉が揺れる。
俺は【身体強化】を発動し、黄色く濁った瞳に燃え盛る闘志を宿らせながら、奴らの群れへ突っ込んでいく。
【身体強化】は『物理攻撃力』『物理防御力』『移動速度』を三分間だけ1.3倍に強化してくれる。
この三分間で決着をつけるため、群れに接近するや否や、拳撃や蹴撃で奴らを殴り倒していく。
強化前でも一撃で倒せていたので火力は十分足りている。今の目的は『物理防御力』と『移動速度』の補強だ。
背後から飛びかかった個体に左肩を噛まれるが、以前のように牙が深く食い込むことはない。
そのまま首根っこを掴んで思いきり地面に叩きつけ、頭部を踏み抜く。
群れの中を駆け回れば、奴らは噛みつくこともできず、一方的に殴り倒されていく。
足元にはブラックウルフの死体が積み重なり、いつの間にか地面が見えなくなっていた。
(ハァ、ハァ、ハァ……早く倒し切らないと!)
血溜まりを踏むたび、ヌチャリと嫌な音が響く。
三分経てば、もう戦えない。残り少ない体力を掻き集めて、今この瞬間に賭けている。
(早く、早く、早く!)
そして残り一匹となった瞬間、途端に速度が落ちた。【身体強化】の効果が切れ、それを理解した瞬間、体力も底をついた。
立ち尽くし、俯く俺。
最後の一匹は、先ほどまで畏怖の表情を浮かべていたが、俺の様子を見た途端にニヤリと口角を上げ、鋭い牙を露わにする。
「グルルラァァ!」
直後、奴は同族の仇を討つように飛びかかってきて、右肩に噛みつき、傷口を広げようと頭を激しく振る。
血が大きく流れ出て、奴の興奮も絶頂に達する。
「ブモォオオオオオ!」
だが俺は、最後の力を振り絞って奴の牙を掴み、強引にへし折る。
「ギャン!」と鳴きながら飛び退いた奴に跨り、両手に握った牙を何度も振り下ろして、頭部をめちゃくちゃにする。
暗い森に静寂が訪れる。
俺とブラックウルフたちの血の匂いが充満し、風に乗って森の奥へ漂っていくが、他のブラックウルフが姿を現すことはなかった。
(ハァ……ハァ……死ぬかと思った。もう一歩も動けねぇ……)
その場にどさりと座り込んだ俺には、指一本動かす力も残っていない。
なのに――
「ぐぅぅぅぅぅ」と腹の虫が鳴る。
体力を著しく消耗しているため【暴食】の衝動はさほど強くないが、腹が減って仕方がない。
体力の消耗と流血のせいか、身体が養分を欲している。幸い、辺りにはたくさんの養分が転がっていた。
俺は這いながらへし折った牙を握り直し、一番近くに転がるブラックウルフの死体へと力を振り絞る。
両手で一本の牙を握り締めて毛皮を裂く。露わになった肉塊に顔を埋め、グチャ、ボキッと喰らいついていく。
腹に収めると、わずかながら力が戻ってきた気がする。しかし、これだけ喰っているのに、なかなかスキルレベルが上がらない。
――50匹目。
『【嗅覚強化】Lv.4にUPしました』
『【咬合力強化】Lv.4にUPしました』
『【追走】Lv.4にUPしました』
『【夜目】Lv.4にUPしました』
ようやく脳内に、スキルレベル上昇を知らせる声が響く。
だが、まだまだブラックウルフの死体はたくさん残っている。
骨を噛み砕き、肉を引きちぎり、喉へ無理やり流し込む。
一匹。
また一匹。
手も口元も返り血で染まっていく。
――100匹目。
『【嗅覚強化】Lv.5にUPしました』
『【咬合力強化】Lv.5にUPしました』
『【追走】Lv.5にUPしました』
『【夜目】Lv.5にUPしました』
気づけば、周囲には夥しい量の血溜まりができていた。
(……美味い。だが、もう限界だ……)
腹が少し満たされたところで、緊張の糸が弛んだのか、俺は静かに意識を手放した。
だが、脅威はまだ去っていない。
ズシッ、ズシッという足音だけが響く。
まるで森そのものが、“何か”を恐れて静まり返ったようだった。
ブラックウルフよりも一回り大きい巨体。暗闇に溶け込む黒い毛並み。そして、血のように赤い双眸。
それは、ブラックウルフの上位種――ダークウルフ。
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