九、耳の記憶
城内にいても骨まで凍えてしまうような、寒い十一月の戦だった。野戦では、牢人共が猛威を振るっているらしい。特に真田の築いた『真田丸』は見事な出城だとか。だがわたくしは、外で誰が勝とうが死のうが構っている暇はなかった。今のわたくしには、城内ですら手に余るくらいなのだから。
千姫のことは実質軟禁するような状態で奥にしまっていた。あの子に敵意はなくとも、周囲の侍女が何をするか知れない。当然秀頼にも奥へ渡ることを許さなかった。
そのことを告げた時、具足を身に纏う秀頼は今までで一番不服そうな顔をした。挙句口にも出した。
「千は我が妻です。妻に会うことの何がいけないのです」
この子は世間知らずだなあ、と思った。あるいは、今この瞬間にも起きている戦にすら気づいていないのかもしれない。
「千姫は大御所の孫娘。其方が千の元に渡ってほんの数刻眠ったら最後、千か、あるいはその侍女が其方を刺し殺すでしょう。わかりますか。刺し殺すというのはね、ここに置いてあるような短刀で首でも掻っ切ってしまうのです。痛うございますよ」
「それくらい存じております!」
とうとう秀頼は具足をかちゃかちゃ言わせて出て行ってしまった。反抗する子供とは、何とも難しいものだ。
武将や足軽の士気はどうにも上がらなかった。皆徳川との兵力の差に弱気になっているのだ。わたくしは甲冑を着込み、また侍女にも同じように武装をさせ、城内を練り歩いた。そして覇気のない者には声をかけて回ったのだった。
自分があの忌々しい戦に関わっているというのは何やら奇妙だった。以前のわたくしであれば籠城などできなかっただろう。最も今だってしたくはないが・・・秀頼のためと思えば、わたくしはどんな嫌なことだってできる気がした。
「姉上、凛々しゅうございますなぁ」
そう笑ったのは、妹の初だった。夫を亡くしたのを契機に落飾しており、尼姿になって常高院と呼ばれている。初はこの戦が始まる前にわたくしを案じて大坂に来てくれたのだった。現状、初の養子である京極忠高殿は徳川方に属している。そのため、少しでも東西の平和に貢献できれば、と言ってくれている。
『お江が幾度も手紙を送って参りますの。姉上や秀頼君を案じているようで、お初姉上、どうか大坂の様子をお知らせ下さいと書いてありました。江は不憫にございますね。自身の夫と甥が対立するのですから・・・』
わたくしが張りつめた気を抜かずにいられるのは、初のおかげでもある。信頼できる肉親が側にいるから、わたくしの心は折れないのだ。
また、初はある人を連れてきてくれた。それはもう何年も前に城を出た幼子――京極家に預けていた国松と、国松の一つ下の姫だ。二人は秀頼の実の子であるが、お千の子ではない。
このまま千に子ができなければ国松が跡継ぎとなる。この戦が天下を分けるであろうことは目に見えているため、秀頼の子は大坂方にいる方が都合がいいのだ。
兄妹は既に八つと七つになっており、当然ながら秀頼やこの城の記憶は微塵も残っていない。秀頼も幼子と接する機会がなかったためか戸惑った。しかし、わたくしが少しあやしてやると、二人はすぐに懐いてくれた。次第に秀頼とも打ち解け、城内にも和やかな空気が流れた。
――だが、そんな空気に浸っていられたのもほんの数日のこと。必死の奮闘も空しく、味方の兵らは徐々に城側へと追いやられていた。十二月になる頃には、徳川軍が完全に城を包囲しているのが内からも分かった。
徳川勢はしばしば鬨の声を上げた。そして脅しをかけるように鉄砲を撃った。これが夜更けに行われるのだから、皆碌に眠ることもできない。パン、パン、パン、パン、朝も昼も夜も頭の中で銃声が響いて、本当に撃たれているのかどうかわからなかった。 自分でも、気鬱がひどくなっているのを感じた。数年前、頭痛や胸痛、めまいがあると医者に話したら、気鬱というものだと診断されたのだ。
悩みを抱かない時間はなかった。大蔵卿に体をさすられないと眠れなかった。それでも鉄砲の音で、一時間もしないうちに目覚めてしまうのだった。
おかしくなっているのはわたくしだけではない。何人もの足軽が発狂して逃げ出そうとし、心労のあまり数人の侍女が口を利けなくなった。城内はもう限界で、地獄のような日々だった。
このような有様を秀頼には見せたくなかった。しかし、わたくしがいくら止めようとしても、好奇心旺盛な秀頼は積極的に城内を回り、見ず知らずの牢人に声をかけては戦の様子を知りたがるのだった。城で唯一、秀頼だけが正気を保っていた。
もうわたくしは正常な判断ができる状態ではなかった、わたくしは日に何度も治長を呼びつけ、早う戦を終わらせよ、負けそうなら和議にせよと言い立てた。治長は今少し、今少しお待ちあれと繰り返していたが、ある時こんなことを口にした。
「和議の件ですが、どうやら大御所の方も同じ考えのようです。この寒い中、あちらも武器や兵糧が尽きているのでございましょう」
「それはまことか!すぐ返事をせい、和議と致そう」
わたくしも侍女らも、ようやく光明が見えたような心地で頷いた。だが、この場で一人反対する者があった。秀頼である。
「しかし母上、牢人らは今も戦っております。真田や長宗我部も、皆和議はならぬと申しております。我らだけで決めてしまって、その、良いのでしょうか・・・」
秀頼の声は徐々に小さくなっていく。皆が秀頼に悲痛な目を向けたからだ。
「急ぎ使いを出せ!」
「はっ!」
わたくしは秀頼を無視し、治長に指示を出す。「母上!」と食い下がる秀頼の肩を掴み、爪を食い込ませるようにして縋った。
「上様は、真田と母とどちらが大事ですか。長宗我部と母は?その他の牢人共皆と母ならどうですか。修理と母は、完子と母は、お千と母は!?」
「私、は・・・」
「わたくしは上様が一番じゃ!誰よりもお前を愛しているのはこの母です。上様を立派に御育てしたのも、太閤殿下に代わって御守りしてきたのも、すべて母です。可愛がってやったでしょう?お前の大好きな蒲鉾を匙で与えてやったのが誰か覚えていますか?夜泣きするお前に乳を与えたのもわたくしだったのではないですか?母の望みは一つ、和議をすること。それを上様は聞いてくださらぬのですか!?」
「・・・申し訳ございません、母上」
とうとう秀頼が悲し気に目を伏せるのを見て、少し言い過ぎたのに気が付いた。初がおろおろとわたくしと秀頼を交互に見ている。大蔵卿はどこか優し気な顔をしてわたくしに何か言おうとする。
――しかし、その場の誰も口を開く間もなく、巨大な砲声が鳴り響いた。それは本丸のどこかに落ちたらしく、天守も地震が起きたかのように小刻みに揺れる。
ギャーっと、あちこちから悲鳴が聞こえた。周囲の冷静な者が窘めようとするも、混乱は波紋のように広がっていく。
「もう嫌じゃあぁ!ここから出してぇ!」
「落ち着かれませい、上様の御前ぞ!」
ここでも若い侍女が泣き叫び、大蔵卿が叱りつけていた。が、わたくしも気持ちはあの女と同じだ。この大きな音は、これまでの火縄銃とは違う。昔秀吉殿にお聞きした南蛮の大きな武器の音だ。聞いたことはなくても、直感的にそうだとわかった。
「修理行け!つぶれる、城がつぶれる!大御所を説得致せ!早う早うっ!」
「姉上!修理殿はもう行かれました!どうか落ち・・・っ!?」
初が言い終える前に、一際大きな音が響き、天守が傾いたかと思うほどの揺れに襲われた。バタバタと辺りの掛け軸や武具が倒れ、埃っぽい煙に覆われる。
衝撃が収まるまで、わたくしも皆も耳を押さえて必死に耐えていた。やっと騒ぎが収まったのを感じ、恐る恐る顔を上げると――今度は大蔵卿が悲鳴を上げた。
「ああああぁっ!血が、血が・・・!」
見ると、先ほど叱られていた若い侍女が、瓦礫に埋もれて死んでいるのだった。他の者も、頭を打ったり体のどこかを潰したりして、血をどくどくと吐いて倒れていた。これまでも地獄だった、しかしこれは、正に地獄の最下層であった。
わたくしの意識は徐々に遠のいていった。わたくしの神経はこんなことに耐えられるほど強くできていない。弱いのだ。だから、秀頼を、ちゃんと守ってやることができない――




