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八、移りゆく時勢

 ――二条城での会見から三年は、穏やかな日々が続いた。豊臣家は乱世によって荒廃した寺社の再建を続け、信仰を大切にしていた。これは関ヶ原の戦いの頃、家康によって促されたことだった。

 しかし、天下は平穏でも、わたくしの胸中が安らぐことはなかった。近頃の悩みは秀頼の親離れだ。わたくしが言うことに対し、時折不満そうな顔をするし、反発するかのように十八になったお千の元へ通い詰めている。


 以前はあまり会わせないようにしていたが、ここまで成長してはいつまでも母が立ち会っているわけにもいかない。そのため夫婦仲も何も知らないが、通う頻度の割には世継ぎもできないので、京極にやった国松に家督を継がせることになりそうだ。


「大蔵卿や、秀頼は何故わたくしを避けるのであろうの?」

 雑談風に苦悩を相談すると、大蔵卿は茶の打掛で包んだ大きな体ですり寄り、重大な秘密を打ち明けるかのようにこそっと囁いてきた。

「あの御年頃ならば、当たり前のことでございましょう。むしろ、大方様が少々婆を頼りすぎているのでございます」


 どうやらこの婆は、淀殿がよっぽどわたくしのことを好いているので、御自分の御子である秀頼君が離れていくのは何故か理解できないのだろう、などと考えているようだ。別に大蔵卿を母と慕っているのではない、他の者が信じられないから意見を伺っているだけのことだというのに。


「大方様、上様ももう大人に御成り遊ばされたのでございます。わたくし共も、昔はこれをやたら鬱陶しく思うたことがあったでしょう?」

「懐かしいのぅ、其方と共によう愚痴を言ったものよ」

「治長!そのようなこと母は存じませなんだぞ!」

 治長が大蔵卿を指して笑うのに、指された方は真っ赤になって本気で怒るのだから面白い。わたくしの悩み事も薄れてきた。


 ――それでも、豊臣家当主の母という立場上、わたくしには本当の意味で心休まる時間など存在しないのだった。新しい思い悩みが浮上したのは八月のこと。家康めが、なにやらおかしな言いがかりを述べてきたのだ。


 先述したように、豊臣家は寺社の復興のために財産を費やしてきた。その中の一つが方広寺で、十八年前、まだ秀吉殿がご存命であった頃の地震により大仏や建物が崩れてしまったのを秀頼の指示で直させていた。この年になって梵鐘(ぼんしょう)も完成し、鐘銘文(しょうめいぶん)を書かせていたのだが、その文に家康はけちをつけてきたのだ。

 何でも文章の一部である『国家安康(こっかあんこう)』『君臣豊楽(くんしんほうらく)』の言葉が、家康を呪詛し豊臣の再興を図るものだとか。再興も何も、天下は豊臣のものだが・・・


 安康、豊楽、どれも決して珍しい言葉ではないというのに。おそらく家康は、どうにかして豊臣を排除したいのだ、だから言いがかりをつけるのだ。わたくしは頭を抱えた。

 家康との関係悪化は良くない。何をされるかたまったものではない。ゆえに豊臣家は、家老の片桐且元(かたぎりかつもと)を使者として駿府に送った。この男は秀吉殿の子飼いの大名であり、今回の方広寺の件で奉行を務めていた。


 且元は、個人としては悪い点もなく穏やかで真面目な人物だ。だが、豊臣の昔からの家臣であるために高台院との繋がりも深いのが懸念だった。高台院は関ヶ原の戦いの際、小早川秀秋の裏切りを促したなど家康に与した噂も流れている。それにこの時勢だ、豊臣の家中は、誰が家康に通じているともわからないのだ。わたくしはやむなく、大蔵卿ら侍女を且元の帰りを待たずに送った。


 ――後日、二組は大して間を置かずに戻ってきた。だが両者の態度の違いが問題であった。且元はこの世の終わりであるかのような暗い表情を、大蔵卿は至って暢気でむしろ楽し気なくらいの様子を見せたのだった。


 且元はわたくしと秀頼の前で平伏し、駿府でのことを申してきた。なんでも且元は、終いまで家康と直に対話することは許されず、代わりに徳川家の家臣にこのような条件を突き付けられたのだという。


『大御所様の疑いを解きたくば、次の三つの案を実行なされよ。一つは、右大臣殿(秀頼)に江戸へお越しいただくこと。一つは、淀殿を人質として江戸に置くこと。一つは、国替えをし直ちに大坂城を退去すること。もし一つも為されぬようなことがあれば、その時は大御所様も容赦はなされぬ』


「大方様・・・もう右大臣様は天下人ではありませぬ。受け入れるしかござりませぬ。このままでは、い、戦になりまする!」

 且元は声を震わせ、体も震わせ、懸命に自身の味わう恐怖を訴えているようだった。しかし、大蔵卿は且元を遮るようにして前へ出、困ったように眉を下げて述べる。


市正(いちのかみ)殿(且元)のおっしゃること、まことなのですか?わたくし共は実際に大御所様と対面し、申し開きをしたところ、何も気にしておらぬと仰せになりました。秀頼君は今も私の大切な孫婿であり、これからも良い関係を築いていきたいともおっしゃられました」

「市正殿こそ、徳川に通じておるのではないか?ゆえに徳川にとって利となるような行動をするのじゃ!」

 控えていた侍女や家臣らは次々と且元を非難する。家康に会ってすらいない且元と、実際に言葉を交わし許しを得た大蔵卿。家康は油断ならない男だと思うが、此度はいかにも且元が胡散臭く思える。


 その後も且元への追及が続き、とうとう彼は武装して豊臣家を出て行った。きっと通じていた徳川家に向かったのだろう。憎き間者が・・・

 ――しかし、今思えば、この時ばかりは片桐且元が正しかった。なぜなら、豊臣家の且元への処遇を聞いた大御所は激怒し、豊臣を成敗すると言い出したのだから。結局はあの三つの条件も受け入れられるとは思っておらず、大御所はただこうして豊臣家の分断を引き起こしたかっただけなのだろう。


 いよいよ、わたくしの大嫌いな戦が始まる。だが、わたくしが戦嫌いなのは負け戦の経験ばかり持っているからだ。勝ちさえすれば良いのだ。豊臣家は早速動いた。


 米や武具を揃えながら、治長は度々わたくしに自慢げな視線を送ってきた。そういえば数年前、軍備をしなければ大方様はお怒りになると、そんな会話をしたのだった。癪に障るので、視線はことごとく無視を貫いた。


 また戦準備においては、秀頼も重要な役目を担った。島津家、毛利家、福島家など、かつて秀吉殿に仕えていた大名に書状を送ったのだ。すべて秀頼の直筆だ。秀頼は文句も言わず、大量の書状を黙々と書き続けていた。


 秀頼の字を見れば、きっと天下は豊臣家の恩を思い出し、すぐに大坂へ馳せ参じるであろう。城の者の多くがそう信じていた。願ってもいた。

 ――それなのに、どの家も返事を寄こさなかった。大坂に来る者も一人もいなかった。この事実に家中は一気にどよめき、混乱し、沈み込んだ。皆が心の隅で、もしや豊臣は負けるのではないかと、切ない疑惑を抱き始めたのだった。


 期待された大名の代わりに、豊臣家の出す恩賞に惹かれた牢人共が数多く登城した。これらの大多数は、関ヶ原の戦いで西軍に属し、合戦後仕える家を失い放浪していた者共だった。しかし、真田(さなだ)だの長宗我部(ちょうそかべ)だの、どれも前時代的で没落した武将らだこと。

 牢人だけでなく、百姓や流れ者など素性の怪しい者も集まり、何とか豊臣家は兵を揃えつつあった。しかし、どうにも徳川家の兵力には敵いそうにないのだった。


 豊臣家の総大将は秀頼だ。しかし、秀頼の身を危険にさらすわけにはいかない。そのため、実質的な大将には治長を据えた。治長は戦向きな男とも思えないが、他には内通の可能性を捨てきれない者、碌に鉄砲すら撃てない者、身分の怪しい牢人くらいしかいなかったのだから仕方がない。


 関ヶ原の戦いから十四年経った慶長十九年。既に人々の乱世の記憶は古く、ある者は久方ぶりの戦に沸き立ち、ある者は目前に迫る危機に怯える太平の世の黎明期。この年の十月に、わたくし共豊臣家は――言わば、前時代の死に損ないである自らを滅するために――『天下』との戦いに臨んだのだった。

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